踊り子は恋を知らない
「踊り子は恋を知らない」結川さや
「なるほど、やはりこういうわけか」
空にした酒杯を卓に置いて、男はにやりと笑った。深く巻かれたターバンと日除けの覆い布。そこからなんとか覗く、口元だけの笑みだ。
小さな天幕の中、向かい合う女の体が固まる。深紅のベールに唯一隠れていない双眸が、大きく見開かれた。濡れた黒曜石のような色彩に宿るのは、確かな動揺。
「そ、そんな……どういうこと?」
震える声で呟き、女は手にした酒瓶を見やる。自身が注いだ酒を、男は確かに飲み干したはずなのに、と。
「どういうこと、とは――どうかなることを期待していたのか? 例えば……自分の入れた眠り薬が効いてくる、とか?」
小さな丸い卓の上に乗り出し、囁いた後、
「残念だったな」と男はまた微笑んだ。意地の悪い、余裕に満ちた声音だった。
「俺には薬も毒も、ついでに言えば妙な術も効きはしない。あきらめて、一夜を共にしてもらおうか。美しい『砂漠の薔薇』――踊り子ナイラ=サヒーディ」
砂漠地帯の一大歓楽街であるここカーランで、有名な民族舞踊『ラクス・シャルキィ』。最も技術と人気の高い踊り子に与えられる称号を、男は知っていた。おそらくはそれが舞台での姿だけを指す呼び名でないことも、きっと――。
「ち、近づかないで!」
踊り子――ナイラは必死で叫び、後ずさった。胸だけを隠す短い上着と、透ける薄紗の下衣。舞台衣装を模した上で、更に露出度を高めた夜着。象牙色の滑らかな肌が見える、まさに挑発的に過ぎる格好で、口にするような言葉ではない。それでも、ナイラは真剣そのものだった。
「何を恐れる? 踊り子が、自分の舞台に最も高い値を付けた客と夜を過ごす。カーランの、当然の決まり事だろう」
男は言って、立ち上がった。思いのほか長身で、濃紺の裾長服越しにも均整の取れた、すらりとした体格をしていることが見て取れる。ナイラは一層慄き、首を左右に振った。
「や、やめて。来ないでよ! 私は……」
「そんな女じゃない。ただ一夜を過ごしたと、男たちに思い込ませてきただけだ。そう言いたいんだろう? 本当は、その身も心も清らかなままの、未だ十六歳にしかならない乙女、 ナイラ=サヒーディ?」
「ど、どうしてそれを――!」
今までひたすらに隠し、守り続けてきた秘密。自分の真実を出会ったばかりで言い当てられ、愕然とする。それが、隙につながった。
「『なぜ』も『どうして』も後だ。長い一夜――俺たちの旅は、これからだからな」
「……っ!」
疑問も抗議も、何も伝えられなかった。ナイラの長い黒髪が宙に舞う。いきなり手首を引かれ、抱き寄せられたのだ。顔の下半分を隠していたベールが、床に落ちる。
次の瞬間にはもう奪われていた。叫び声も、それを発するための唇も――。ふわり、と感じたやわらかな体温は、すぐに深く激しい熱に変わった。意味もわからず閉じようとするナイラの唇を、湿ったものが強引に押し開き、そして、
(しまった……!)
喉に流れ込んできたのは、強い酒だった。馴染みのある、かすかな花びらの香りがつんと鼻をつく。確かにナイラ自身が用意した、乾杯用のものだった。
ぐらり、と目が回り、全身から力が抜けていく。猛烈なだるさと眠気で傾ぐナイラの体を、男が抱き上げる。
「素敵な夢を――俺の踊り子」
低く、耳元で嬉しげに囁かれた言葉。男の勝利宣言を聞きながら、ナイラは意識を手放した。
*
――お前は、踊りに生きていく運命なんだよ。
そう言い続けていたのは、今はいない育て親。 他でもない自分に見つけられたのだから仕方がなかろう、と。
元踊り子であった彼女が、カーランの外れに捨てられていた赤ん坊のナイラを拾い、育ててくれたのだ。
物心付いた時から夜の世界を見て、厳しい踊りの鍛錬に涙した。年上の女たちにまで妬まれ、苛められて泣いていたナイラに、彼女はこうも言った。『勝者』になるのだと。涙は惨めな女だけが流すもの、負けたくなければ、常に上だけを目指すのだ。それが自分に付けられた芸名ナイラの意味であることは、彼女の死後にようやく知った。彼女の名を姓にもらい、遺志を継いで生きる覚悟を決めたその日から、ナイラは泣かなくなったのだ。
そして同時に、心も凍らせた――。
(夢……?)
久しぶりに見た、昔の光景。誰かに頼り、求めることをやめた日の、自分。
感傷的なナイラの気分は、目の前に広がる現実の風景がかき消してくれた。まだまどろみの中にいたい心地よさも、全てを。
ナイラが目を覚ましたのは、隊列の中を進むラクダの上だったのだ。
(どこ、ここ……!)
乾いた砂漠に、まだ昇ったばかりらしい太陽の光が差し込んでいる。見たことのない一面の、黄色い砂山のうねりを呆然と眺めていた、その時だった。
「お目覚めかい? ナイラ=サヒーディ」
背後から、笑みを含んだ低い声。振り仰いだナイラが見つけたのは、ターバンを深く被った男の顔だった。ちょうど逆光になっていて、表情まではよくわからない。が、確かに見覚えのある風貌。
(そうだ……こいつ!)
瞬時に思い出したすべての屈辱。その元凶である、昨夜の客を睨みつける。しかし彼は堂々と微笑みを返し、さりげなく耳打ちしてきた。
「よく眠ってたな。さすがは、強烈な効果で有名な白媚香。このまま起きなかったらどうしようかと心配したぞ」
砂漠にも根を張り、白く小さな花を咲かせる低木。その花びらをすりつぶした眠り薬――自身が客に愛用してきたモノを名指しで言われ、ナイラは完全に覚醒した。
「この……っ!」
沸き上がった怒りのままに片手を振り上げ、頬を打とうとする。が、あっさりとその手を捕まえられ、暴れようとする体ごと引き寄せられてしまった。もともとコブが邪魔な、狭いラクダの背中だ。密着した格好はほとんど抱きしめられているも同然で、ナイラはなんとか距離を取ろうとした、のだが――。
「威勢のいいのは結構だが、あまり暴れると落ちるぞ」
言葉通りぐらついたナイラは思わず悲鳴を上げそうになり、寸でのところで堪えた。
「なぜお前が怒る? 勝手に連れてきたことはともかく、本来なら酒に薬を盛られ、危うく大金だけ払って騙されるところだった俺のほうが怒るべきだと思うが」
「そ、それは……」
痛いところを突かれ、口ごもる。確かに、分が悪いのは自分のほうだからだ。
(でも……!)
だからといってあんな風に、と考えてから気づいた。昨夜剥ぎ取られたはずのベールに代わるものが、きちんと巻かれていることに。
(ニカーブ……?)
頭部と、目以外の顔面を隠すための覆い布。白く清潔なそれに加え、体にはちゃんと薄手の黒い外套まで着せられているのだ。怪訝な顔で自身の衣服に触れていたナイラの耳元へ、バドゥルは楽しげに続ける。
「まあ、一つ得したことはあったがな」
「な、何よ?」
聞かなくてもいいのに律儀に聞いてしまい、次の瞬間後悔した。囁かれた言葉に、かあっと顔が熱くなる。
「ど、どうしてわかったのよっ!?」
「誰でもわかるさ。あんなにうぶな反応を見せられてはな」
予想外に楽しませてもらった、とまで含み笑いをされては、耐えられるわけがなかった。こんな男に、初めての口付けまで奪われてしまった自分の不甲斐なさに――。
「ぜ、絶対に許さないんだから……! そ、そうよ追っ手よ。足抜けでさえ一晩以内には連れ戻されてたわ。踊り子を連れ去るなんて前代未聞。逃げたってすぐ捕まって、ひどい目に合わされるわよ」
評判の店であるがゆえの、当然の裏の顔。それは大方が危ない稼業にもつながっていて、決して金づるを離しはしない。踊り子はそうやって守られ、また縛られもしているのだ。
一瞬暗い顔で俯いたナイラだったが、男はまるで気にした風もなく笑った。
「ああ、それなら心配するな。どんな輩にも、話の通し方というものがあるのさ」
やけに落ち着き払った言い草。それはそのまま、昨夜の光景とつながった。
両手に余る、薔薇の花束。実に百本を数えるそれは、一本で一ディラ銀貨、十本で一レヘム金貨単位で客が購入する、踊り子への捧げ物。最も多く捧げた客が、その踊り子と一夜を過ごせる『競り』の結果だ。満員の店内で、誰もが口を開け、彼を呆然と振り返っていた。店の売上ひと月分ほどにもなる額で買われたのは、さすがのナイラにとっても初めてのことだった。
「……まさか、お金でごまかしたの?」
「失礼な。ごまかしたんじゃない、ちゃんと取引したんだ。だから、誰も俺たちの邪魔はできない。これでようやく二人きりだな、ナイラ=サヒーディ」
耳元に息がかかるほど、近くで囁かれる。
(嘘……誰も、追ってこないというの?)
今まで目前に伸びていた道。当然進むべきだと信じていた狭く険しい、茨の道が、突然閉ざされたような気分だった。いきなり広大な砂漠に一人放り出され、どこへでも行けと言われたような――。
呆然としていた隙に、随分近くで見つめられていたことに気づく。いつのまにか肩に置かれていた手を、あわてて払いのけた。(いいえ、違う。自由になったわけじゃない。また、別の檻に囚われただけなんだわ)
見知らぬ、いけ好かない男。絶対にこんな奴の言いなりになどなるものか、とナイラは内心で決意を固めた。
「き、気安く触らないで! 言っておくけど、私は簡単に屈したりは……」
思いきり振り払った手は、避けた男のターバンに当たった。ぐっと押し上げた形になって、ずれたターバンからこぼれたのは――、
(金色の、髪……!?)
照りつける太陽光で、きらきらと輝いたもの。それは男の日焼けした肌に異色の彩りを添える、髪の色だった。肩までの長さで雑に切り揃えられている。ナイラの目を奪ったのは、それだけではなかった。
「何だ、異邦の民を見るのは初めてか? そんなに堂々と注目してくれると、いっそ潔くて嬉しいものだな」
「な……ちょ、ちょっと驚いただけよっ」
澄んだ湖水のような、淡青色の双眸。今までに見たことのない涼しげな色彩だけでなく、男の容貌自体にも、ナイラは驚愕を隠せなかった。
高い鼻梁に意思の強そうな目元、わずかに引き上げられた唇に湛えられた微笑。文句なしに全ての女性が好むであろう、凛と精悍なのに甘い顔立ち。それは到底、不届き者の『人攫い』客にはふさわしくない印象だったのだ。
「自己紹介が遅れたな。俺はバドゥル――以降、お見知りおきを」
淡青の瞳を細め、ニヤリと笑ってみせられ、ナイラはあわてて言い返した。
「べ、別に紹介なんて結構! 名前なんて知る必要ないもの。どうせどこかに売り飛ばすつもりでしょう? でも私は……」
「ちょっと待った。誤解してるようだが、俺はお前を売ったりなんかしない。冗談じゃない。やっと探し出した俺だけの宝を、誰かに奪われたりしてたまるものか」
「宝、ですって?」
そうだ、と男――バドゥルは口の端を上げ、微笑む。
「俺はお前をずっと探してきた。もう、何年もだ。そして見つけた。だから、連れて行く」
何もかも当然のような言い方に、ナイラは呆気に取られ、すぐ我に返った。
「な、何なのよその身勝手な言い分! それに、連れて行くってどこに……っ」
急に抱き寄せられたことで、後半は小さな叫び声に変わる。が、それをも大きな手の平で押さえ込んで、バドゥルは前方を見やった。
ラクダ数等分を置いて、均等に続いていた隊商の列。そこから外れ、こちらに近寄ってくる少年がいたのだ。
「旦那方、もうすぐザイロの街に到着です。休息所とお食事、ご用意しましょうか?」
「ああ、できるだけ静かで、邪魔の入らない場所に頼むよ。うちの奥さんはうるさいのが苦手でね」
(お、奥さん――!?)
目を剥くナイラだったが、ほとんど抱きしめるような格好で押さえつけられ、抗議も疑問も挟めない。何より、純真そうな少年――どうやら隊商の御用聞き係らしい――にニッコリと笑顔を向けられ、なぜか抵抗できる雰囲気ではなかったのだ。
「新婚さんですもんね! はい、とっておきの、静かな天幕を用意しますから、任せてください!」
はりきって去っていった少年。唖然とするナイラ。そしてバドゥルは嬉しそうに笑う。
「知らなかったか? 白のニカーブは、結婚したばかりの新妻が身に着けるものなんだそうだ」
裾が薄いレースになっている、上品な覆い布。そんなものまとったこともなく、元々夜の街を出たことのないナイラが知るわけはない。一方のバドゥルは、澄ました顔で言ってのける。
「たまたま用意したものがそうだったから仕方がない。お淑やかな『新妻』がまさか、かの有名な『砂漠の薔薇』だとは誰も思わんだろうし――そういうことで」
「そういうことで、じゃないわよ! なんで私があなたなんかの……! こ、こんなものすぐに脱いで……っ」
「どうしてもと言うなら止めはしないが……今はともかく、昼の砂漠では自殺行為だぞ? その美しい肌があっという間に日焼けで真っ赤になって、熱で苦しむはめになってもいいのなら、な。それに隊商の人間はお前の評判は知っていても、姿形は知らない。もしも自分がそうだから助けてくれ、とでも訴えるなら、その格好で踊ってみせるしかないだろうな」
嫌味たらしく言われ、ナイラはむっとした。外套の下は昨夜のままの夜着である。 さすがのナイラとて、これで踊るほど羞恥心を捨てたわけではないのだ。
「安心しろ。次の市でちゃんとした女性服を買ってやろう。夜は寒いし、風邪を引かれては困る。何色が似合うかな。薄紅や黄色、緑に紫……ああ、でもやはりそれと同じ、深紅がいいか」
体の線もあらわな薄物。今は見えない色彩を指してニヤリと笑われては、顔がひきつらないわけにはいかない。
「優しい俺から、もう一つ教えてやろう」
付け加えられた内容に、ナイラは全身の力を抜いた。万が一、と先ほどから心配していたことだったから。
(よかった……って、もしもアレ以上のことをされていたら、こんな奴、本気で殺してやるところよ!)
ひそかに唇を押さえ、また思い出したのは、初めての感触。翻弄されるばかりだった昨夜の屈辱と怒りが蘇り、鼓動を速める。煮えたぎる瞳でその意思を伝え、ナイラは精一杯牽制した。
しかしバドゥルは、ますます笑みを濃くしただけだった。
「濃い紫、か。昨夜は黒かと思ったが、綺麗な色だ」
平然と自身の双眸を覗き込まれ、咄嗟に感じた怯えを抑えつける。ナイラはなんとか嘲笑を返した。
「昨夜はどこかの貴族の端くれかとも思ったけれど、単なるケチな人攫いだったのね」
ナイラの表情は口調と声音からわかったらしい。あえて強がってみせたことを知ってか知らずか、バドゥルは肩をすくめる。
「さあて、どうかな。ただ、俺はちゃんと金も払ったし、話も付けた。あんたと違って後ろめたいことは何もない」
そう言われてしまっては返せる言葉もない。初めて舞台に上がった日から今まで、ナイラが客を……いや、仕事仲間でさえも騙し続けてきたことには変わりがないからだ。いつも優しく接してくれた、太鼓奏者の大人しげな顔まで思い出し、口ごもる。
(そうやって脅すのね。卑怯な男……!)
睨みつけるナイラを、バドゥルは楽しげに見つめ返した。
「さて、正当な取引を好む常識人の俺から、一つ提案だ」
「……何よ」
「この案を飲んでくれるのなら、お前の秘密を他者に漏らすことはしない。それに、旅の道中の、安全保障と高待遇も約束しよう」
訝しがるナイラの反応を見つつバドゥルが言ったことは、まるで予想外の案だった。
「あなたの故郷へ? 何のために?」
ターバンを巻きなおし、バドゥルは顔を上げた。初めて見せる真摯な瞳で、告げられた言葉。今度こそ目を見開き、驚きを隠せないナイラに、バドゥルは表情を緩めた。いたずらっぽく片目を閉じ、囁く。
「それで、『安全』をどう定義しようか? お前が望むなら、寝台の上だけは除外してもいいんだぞ」
「は?」
「だから、俺はいつでも昨夜の続きをする準備ができているということで――」
「……っ、このっ、悪党!」
今度こそ成功した、平手。乾いた砂漠に響いた音に、ラクダがのんびりと顔を上げた。
昼過ぎ、砂漠のオアシス都市ザイロに到着してからもなお、ナイラの機嫌は回復しなかった。用意された天幕――少年が押さえてくれた休息所で、向かい合うバドゥルと目も合わせようとしない。
「まだ怒っているのか? 冗談だと言っただろう」
黙りこんでいると、水を注ぎ、差し出してくれる。仕方なく受け取り、それから迷った。被ったままだったニカーブが邪魔で、食事もできないのだ。
「どうした? もしかして、今更恥ずかしがっているのか? 一度顔も見せた相手だろう」
「……っ、合意じゃなかったもの!」
そうだ。それも許せない事項のうち一つ。
ナイラにとってのベールは、唯一自分の身を――踊り子としての誇りを守るもの。普通は許されないそれをまとうのは、カーラン一の称号『砂漠の薔薇』で呼ばれる自分だけ。それなのに、あんな風に強引に剥いだ上、忘れられない屈辱の目に合わせた。
だから余計に意外だったのだ。今朝方の、バドゥル曰く正当な取引の内容が――。
『俺の故郷へ共に行き、病床にある大切な女に、幸せな夢を見せてほしい』
真剣な眼差しで言われた時、正直驚いた。こんな男にもそんな相手がいること、そして、とても辛そうな顔で語ることに。それほど病状がひどいのか、彼女を深く想うがゆえなのか。
(……大事な恋人、なのかしら)
それならなぜ、と思いかけ、ナイラは我に返った。あんな口付け一つ、きっと彼には何でもないことだったのだ。やはりバドゥルは悪党なのだ、とナイラは無理やり結論を出した。
「ねえ、一つ教えて」
今まで混乱しすぎて聞けなかった疑問を、やっと切り出すことにした。バドゥルは、ただ微笑だけで先を促す。
「どうして、私のことを何でも知ってるの? 本当の年齢も客を騙してきたことも、それから……私の体に流れる血、忘れられたサーナンの力のことを」
ナイラの最大の秘密。清い身のまま踊り子を続けられた理由だからこそ、隠し続けてきた出自と力をどうして――と、怯えの混ざった視線を向ける。しかしバドゥルは、微笑を崩さなかった。
「心配するな。俺の他には、おそらく秘密を知る者はいない。それに、そもそもお前の名も、カーランにいることも知りはしなかった。ただ、闇雲に捜し続けてきただけだ。何年もかけてな」
「だからどうやって……!」
「まずは、食事をしないか?」
「そうやってごまかすの?」
「いや、ちゃんと話す。旅が終われば、全ての疑問に答える。今はただ――この時間を楽しみたい。そんな勝手は、許されないか……?」
淡青の双眸が、じっとナイラを見つめる。再び閃く、真摯な光にどきりとした。目を逸らして、俯く。
「遥か昔から、諸国を回り、秀でた芸を見せてきた、そんな一族がいた。小さい頃に聞いた話だ。彼らはサーナン族と呼ばれ、それぞれに異なる不思議な力を持っていたという。神官や巫女にも取り立てられるほど崇められてきた存在は、いつしか権力者たちの恐怖と憎しみを買うようになり、逆に追われ、狩られる対象となってしまった。神秘と悲劇の一族は、歴史の中で忘れ去られ、葬られ――今では伝承に残るのみ。それでも俺は信じていた。いつか必ず、その血を引く者と出会えることを」
「……『夢舞い』を舞う者と?」
静かに問いかけると、バドゥルは頷いた。今まで誰にも話したことなどない、自身に秘められた異能。ナイラの身を守り、また脅かす危険をも持つ脅威の力とは、『夢舞い』――眠る相手の望む夢を見せるものだ。
幼い頃、自分の力に気づいた。育て親のサヒーディだけがそれを知り、口止めした。決して、誰にも漏らしてはならない。その力こそが、お前を守るのだと。言ったが最後、人々はお前を狙い、自身に役立つ力として使おうとするか、恐れて存在すら亡き者にしてしまおうとするから――と。
けれど、目の前の男は、そのどちらにも見えなかった。戸惑いながら、ナイラはゆっくりと首を縦に振る。
「……いいわ。あなたの瞳を信じる」
そう言った瞬間、バドゥルがやや驚いた顔をしたことに、ナイラは気づかなかった。嬉しそうに微笑む彼に、きちんと釘を刺すことは忘れなかったが。
旅が終わったら、納得の行く説明を聞くこと。十分な褒賞をもらうこと。それだけを約束し、取引は正式に成立したのだった。
「それで、あなたの故郷ってどこなのよ?」
旅が始まって二日目、懲りずに訊ねるナイラにバドゥルは笑った。半ば強引に散歩と言って連れ出され、ナツメヤシの茂る小道を二人きりで歩きながらの会話である。
「だから、そのうちわかると言っただろう。何もかも知ってしまっては、面白みがないじゃないか」
「あ、あのねえ、面白みなんていらないのよ。私が知りたいのは真実……」
「真実というものが、必ずしも人を喜ばせるとは限らない。そう思わないか?」
「あなたの故郷って、それほどひどいところなの?」
思わず顔をしかめ、聞いたのだが、バドゥルは吹き出してしまった。何がそんなに可笑しいのか、腹を押さえて大笑いしている。
「どうだろう。抱く感想は人それぞれだからな。俺には何とも言えん」
「……変な人」
万事において、バドゥルとの会話はこんんな具合である。あきらめて、ナイラは嘆息した。
「何者なのかも、どこに向かっているのかも教えない。これを変と言わずにどう言えと言うの?」
「そんな俺に付き合ってくれるお前も、相当変わり者ということになるな」
「う……うるさいわねっ! もう戻る! そろそろ出発なんでしょう?」
ザイロで一泊し、再び砂漠に出ると聞いている。その後の道程は不明――こんな旅があるだろうか。といっても、旅自体したこともないナイラには想像もつかないのだが。
「まあ待て、そんなに早く戻ることもないだろう? せっかく初めての旅なんだ。道中、楽しむに越したことはない。違うか? ナイラ=サヒーディ」
言って、ポンとナイラの頭に手を置くバドゥル。今日も巻いているニカーブ越しにもわかる、大きくて力強い感触と温かな仕草に、どうしたらいいかわからなくなった。つい口が滑ったのは、そのせいだったのかもしれない。
「……ナイラ」
「ん?」
「ナイラでいいって言ってるの。いちいち長い名で呼ばれては落ち着かないわ」
ぶっきらぼうに、前を向いたまま返す。と、調子に乗ったように、バドゥルがせがんだ。
「どちらかと言えば、芸名よりも本当の名が知りたいんだが」
「もう忘れたわ、そんなもの。どうしても知りたければ、私を捨てた親にでも聞けば? もうこの世にはいないかもしれないけど」
つん、と顎をそらせて突き放すように言う。半分は嘘で、半分は本音の答えだ。単なる嫌がらせのつもりが、バドゥルは表情を曇らせた。
「……どうせなら、どうしてお前なんかに教えなきゃいけないんだ、とでも罵られたほうがすっきりするな」
なぜだか寂しげな声で呟かれ、ナイラは奇妙な気分になった。
(そうよ、どうしてそう言わなかったの、私ってば)
辛い過去の一つや二つ、カーランではありふれた話だ。それで同情を買おうとする踊り子たちを、軽蔑してきたはずなのに。今更、こんな出会ったばかりの男に何を期待しているというのだろう。動揺をごまかすように、ナイラはわざと軽く続けた。
「あなただって、どうせ偽名でしょ?」
「偽名?」
「ええ、そうよ。異邦の民のあなたが、砂漠の民特有の名を付けられるはずがないもの」
バドゥル――それは、今は見えない満月と同じ意味を持つ名前だ。このいけ好かない男に不釣合いなようでいて、ぴたりと来る単語でもある。
だって、こんなに……。
続きかけた思考にあわてて蓋をして、ナイラは片手で目を覆った。吹き荒れる風から守るためでもあり、ターバンの端できらめいた金の輝きを見ないためでもあった。
「異邦……そうだな。この身に流れる片方の血だけに、いっそ身をゆだねてしまおうかと思ったこともあった。憎まれ、疎まれ続けるくらいなら」
独り言のように答え、バドゥルは言葉を止めた。小道が途切れ、曲がり角に突き当たったのだ。
「片方……?」
訊ねようとして、そんな自分自身に歯止めをかけた。
(何を訊ねるつもり? 大切な女性とやらに夢を見せるまで。それだけの間柄だっていうのに……)
なぜか沈んだ気分になって、俯いた。ところが、戻ろうと踵を返しかけるナイラの手を、バドゥルが取り、先導するように歩き出したのだ。
「な、何……ちょっと、どこ行くのよ?」
振り向いたバドゥルは明るく笑い返し、答える。
「名前を知るより、今すべき大事なことがある。何だと思う?」
怪訝な顔で首を横に振ってみせると、つないでいた手を軽く引かれた。まるで良家の令嬢に対するように、手の甲に口付けを落とされる。
「大切な宝に、風邪を引かせないことだ。さあ――どうぞご存分に買い物を、姫君」
大仰な仕草で腕を開いたバドゥルが見せたのは、角を曲がったところに広がる大通り。ずらりと両脇に店が並ぶ、市の光景。所狭しと陳列された色鮮やかな布地は、女性用の裾長の衣服、ガラベーヤのものだった。
「ほら、ここのケバブはうまいぞ。冷めないうちに食べたらどうだ?」
二人きりの天幕――例によって使いの少年に融通をきかせてもらって確保した休憩所。旅も三日目となる、別のオアシスでの休息だ。
ほかほかと湯気の立つ羊肉の串焼きを目の前に差し出され、ナイラはためらう。
「ん? どうした? 真新しいガラベーヤに肉汁でもつけやしないか、心配で食べられないか? そうかそうか、そんなに気に入ってくれたのか……大丈夫、心配しなくてもまた別の物を買ってやるさ」
「ちっ、違うわよ! あんまりお腹がすいてないだけで……」
言い終わる前に、ぐうう、と正反対の主張をする腹部を真っ赤になって押さえる。
「ほら、減ってるじゃないか。いいからさっさと食え。食事は旅の基本だぞ? おろそかにしては、健康を損なう」
まるで年上の兄みたいな話しぶりだ。真面目に言われてしまっては、俯くしかなかった。
「もしかして、俺を警戒してるのか?」
まだ隅に座り、ニカーブすら取らずにいたナイラは、図星を指されてぎくりとする。
昨日も一昨日も、バドゥルが席を外してからようやく少し食事をしただけ。空腹も当然であるのだが――どうしても静かな天幕で二人きりになると、出会った夜のことを思い出してしまうのだ。
「……悪かったな。もう、妙な真似はしない。約束しただろう? 安全を保障すると。だから、心配しないで食事をしてくれ」
苦笑して、両手を上げるバドゥル。何もしないという言葉は旅が始まってからちゃんと守られていたし、夜もどこか別の天幕で休んでくれていた。優しい声音と笑みは嘘ではないことがわかっていたから、ナイラは大人しく従うことにした。何よりも、休息を挟むとはいえ、砂漠の旅は想像以上に消耗も激しいものだったから――。
ぐるぐると巻いていたニカーブの、頭部の布を取り、顔の下半分を覆う薄手のベール部分だけを残す。そうっと持ち上げ、顔が見えないように気を付けながら食事を始めた。
「うまいだろう」
添え野菜やオリーブ等の漬物、更にはひよこ豆やヨーグルトのペーストまで。何をどう合わせれば美味だの、栄養になるだの、ウンチクを語るバドゥル。黙って聞いていたナイラが笑い出したのを見て、憮然とした顔になる。心外だ、とそのまま表情に出して、バドゥルはむくれた。
「何がおかしい。人がせっかく心配して……」
「いいえ、何でも。おかしくないわ」
そう言いつつもまだ笑いが止まらない。
(変な男……無理やりさらったりするかと思えば、服は買うし。こうして律儀に食事まで勧めたりして)
――真剣な顔で、大切な女性の話をしたりもする……。
そこまで考えて、緩んでいた頬が強張った。一体全体、自分は何をやっているんだろう、と叱咤して、俯く。そうして、やっとバドゥルの視線に気づいた。
「……やはり、お前には赤だな。綺麗な黒髪と象牙の肌によく映える」
優しい視線は、深紅の上質な布地に向けられている。昨日、ああでもないこうでもないと一緒に(ほとんど独断で)選び、バドゥルが買ってくれたガラベーヤ。ゆったりと体の線に沿う長い衣装をまとっていると、何だかまだ落ち着かない。
目を伏せたナイラの長い髪に、すっとバドゥルの手が触れた。
「顔が見えないんだ。せめて髪や輪郭くらいは楽しませてもらってもいいだろう?」
ベールの内側で染まった頬まで、見透かされている気がしてしまう。
「べ、別にあなたなんかに見せるために取ったわけじゃないわっ。ごちそうさま!」
髪を翻し、さっさとニカーブを巻きなおそうとする。ナイラのわかりやすい態度に、バドゥルは声を立てて明るく笑った。
「わかったわかった。もう見ないから、ゆっくり食事を続けてくれ。まったく、そんなにわかりやすいくせにどうやって今までごまかしてきたんだか」
降参、とばかりに両手を上げ、出て行きざまにちゃっかり呟く。もちろん、『砂漠の薔薇』として称えられてきたナイラのことを茶化しているのだ。
「――っ、余計なお世話よ! この悪党っ!」
やっぱり油断は禁物だと、ナイラは叫ぶ。その背中めがけて投げつけたクッションは、天幕の日除け布に当たり、ずるりと落ちたのだった。
幼い少女が踊っている。
まだ思うように動かない手足を、体の部分全てを、そして自身の孤独と皮肉な運命を呪いながら。
小さな自分の姿を、薄膜越しに眺めているのは今のナイラだ。すぐに気づく。これはいつもの夢。体や心が疲れている時、よく見る悪夢だった。
『どうして、おどらなくてはいけないの?』
幼いナイラは泣いている。普通の子供のように、読み書きを習い、家の手伝いをすること。可愛らしく着飾ること。そして、両親に愛されること。そんな小さな願いが、なぜ自分には許されないのか。泣きじゃくり、それでも立ち上がり、踊り続けなくてはならない日々。全てを乗り越え、人気と栄光に彩られる『砂漠の薔薇』になるまでの人知れぬ苦しみは、今でもナイラの胸を刺す。
(早く、目覚めなければ)
ナイラは瞼を開こうとする。けれど必死な努力を嘲笑うかのように、瞼どころか全身が重く、熱くて、夢から醒めることができないのだ。
また、泥のように重い体を抱えながら、涙に濡れ、倒れるまで踊る夢を見なくてはいけない、と心の痛みを覚悟した。その時だった。
『おいで』
澄んだ、優しい響き。それは、夢の中のナイラと似た年頃の――いや、少し年上の少年のもののようだった。
『泣かないで……僕が必ず、迎えに行くから』
優しいのに力強い手に引き上げられ、幼いナイラは体を起こす。涙を拭ってくれる少年と何事か言葉を交わして、泣き止む。どうしても逆光で彼の顔は見えなくて、伝えられた名前も聞き取れなかった。そして、ナイラはゆっくりと瞼を開いたのだった。
まず感じたのは、額に当てられた冷たい布。どうやら水で濡らしたものらしく、ひんやりと心地が良い。次に見えたものに、ナイラは驚き、瞳を見開いた。
「気が付いたか? かなりうなされていたようだが、悪い夢でも見たのか」
日焼けした肌に映える、まぶしい金の髪。それから、オアシスの泉にも似た、澄んだ淡青の双眸。
名前を呼ぶ前に、喉がからからで声が出ないことに気づいた。すぐに察したバドゥルが体を支え起こし、水を飲ませてくれる。
「疲れが出たようだな。俺が、もっと早く気づくべきだった。水分もしっかりと取っておかないと、こうして体に来る」
(夢……これは、現実なの?)
まだぼんやりとしていたナイラに、喉越しのいいスープや果物、それに熱冷ましの薬湯まで運んでくるバドゥル。素直に世話をされていると、なんだか小さな頃に戻ったような気がした。といっても、こんな風に大人しく寝ているだけなんて、ほとんど許されたことはない待遇だけれど――。
また少しだけ眠り、目覚めた時にはもう意識がはっきりとしていた。奇妙な旅が始まって四日目の夕刻だということも、自分とバドゥルがそれほど優しい関係ではないことも思い出す。
(そうよ、気を許してはいけないわ、ナイラ。いくら多少は親切でも、この男は私の力がほしいだけ。それだけの間柄なんだから)
睡眠と休息、そして薬湯が効いたのか、次にバドゥルが手を伸ばした時には、ナイラの熱は下がっていた。平気だと起き上がると、少し残念そうな顔をされる。
「何だ、もう少し大人しく横になっていてもよかったのに」とまで言われ、舌を出す。
「残念でした。元々体が資本だもの。もうすっかり元気よ。それに、あなたみたいな人の前でおちおち寝てなんていられないわ」
「何だって? 俺は極めて紳士的だと思うぞ。少なくとも、寝ている女を襲うような野蛮な趣味はない」
「紳士? よく言うわね」
大げさに目を剥いて言ってやる。と、バドゥルよりも先に答えたのは、天幕の入り口から入ってきた、いつもの使いの少年だった。片手に持っていたティーポットを置き、声を張り上げる。
「これ以上の紳士はおられませんよ、奥様!」
突然の真剣な声音に、ナイラは怯んだ。何やら口止めしかけるバドゥルをよそに、少年は興奮したように続けたのだ。
「何が原因でもめておられるかは知りませんけど、僕、こんなに誠実で優しい旦那様は初めて見ました! 奥様が眠られるまで毎晩天幕の入り口で番をされて……」
「え……?」
「最近、この辺りにも盗賊が増えて物騒ですもんね。それに、ご実家の了解を得られる前にご結婚されたのでしょう? それでもご両親に認められるまでは奥様と同じ天幕で眠るわけにはいかないからって。なんて真面目な方でしょうか」
目をきらきらさせて、純真な少年はまだまだ続ける。
「何でも、諸国からのはぐれものを集めた盗賊部隊まであるらしいですよ。同じ異国の血を引く方でも、旦那はそんな奴らとは比べ物にならないくらい立派で――」
「いや、もういい。大したケンカじゃないんだ。ありがとう。下がってくれて構わないから」
あせった様子で少年を送り出す。心なしか耳が赤いバドゥルを見て、ナイラは言葉を失っていた。
「……本当なの?」
しばらく経ってから訊ねる。いつも余裕で自分をからかってきたバドゥルが照れているなんて、信じられなかった。
「別に、ただ見張りをしてただけだ。逃げられでもしたら困るし、それに――」
口に出されなかった続きを、ナイラは頭の中で補った。
(大切な女性が病床にいるのに、そんなわけにはいかない。そういうこと?)
連れ去る時には強引に口づけまでしたくせに、と罵りかけて、はっとする。
そんな風に思う自分のほうがおかしいのだ。それではまるで――、
「変なの。十六の子供だとか何とか言っておいて、結局意識してるのね」
「……何だと?」
「だってそうでしょう? 同じ天幕で眠れない、なんて」
嘲るように言うと、一瞬ためらった顔をしてから、バドゥルは瞳を細めた。
「じゃあ、お前は意識しないんだな?」
「当然よ。あなたみたいに非道で勝手で自己中心的に過ぎる悪党、意識なんてしてたまるもんですか」
「それはそれは……さすがに『砂漠の薔薇』ともなれば強気なものだ。余計な遠慮は必要ないみたいだな。それなら俺も、同じ天幕で休ませてもらうとしよう」
「ええ、どうぞ」
(って、何を煽ってるの、私!)
挑戦的に頷いてから、ひそかに慌てても時既に遅し。さっさと天幕の垂れ布を下ろし、戻ってきたバドゥルは、ターバンを解いてくつろいだ様子になった。今更引き返せず、ナイラは覚悟を決めて開き直った。
(そうよ、紳士だと自分で宣言してるんだもの。何も怖がることなんてないわ)
怖がってなんかいない、と自分自身で直後に否定して、ナイラは深呼吸したのだった。
薄暗い天幕に、ランプの明かりが揺れている。色鮮やかな絨毯の上にはクッションが二つ、そして寝具が一組だけ。
ひそかにそちらを見やってしまって、ナイラは立てた両膝に顔を埋める。ドキドキと落ち着かない胸の音が、向かい側に腰を下ろしたバドゥルに聞こえてしまいそうに思ったのだ。
そんな自分が悔しくて、ナイラは落ち着き払った顔を装う。薄手のベールだけが表情を隠してくれていた。
「お、お茶でも飲まない? 喉が渇いたわ」
先ほど少年が置いて行ってくれたティーポットの湯はまだ温かく、見たところ茶葉も上質なようだった。ミントの葉と砂糖を多めに入れるのが、砂漠地帯に共通の飲み方である。
できるだけ平静に、落ち着いて。そう自分に言い聞かせながら砂糖を入れていたナイラの手を、バドゥルが笑いながら押さえた。
「いくら灼熱の砂漠では糖分が欠かせないと言っても、これでは入れすぎだと思うが」
「あ……」
既にカップの半分ほどは沈んでいる砂糖を見て、さすがのナイラも胸焼けしそうになる。
「そう緊張するな。俺は紳士だと言っただろう? それに……茶よりもこちらのほうが、俺の好みだ」
無色透明の液体が入った瓶を手に取り、軽く振ってみせる。一見すれば水のように見えるそれが、アラックという名の蒸留酒であることは、ナイラにもわかった。白葡萄から作られた、度数も人気も高い酒だ。
「ああ、そうか。お子様にはまだ早かったな」
あきらかにからかっている微笑みに、むっとする。自分とて、これでも酒に慣れていないわけではないのだから。
「そういうあなたはいくつなのよ? 大層ご立派な、大人でいらっしゃるんでしょうね」
年齢も本名も、更には故郷すら聞いていない。全ての事情は、旅が終わってから話す。その約束事をあえて破りかけたナイラは、内心戸惑った。
(どうしてこんなこと聞いてるの、私。こいつがどこの誰で、いくつだってどうでもいいじゃない)
撤回しようとした質問に、バドゥルはあっさりと答えた。
「二十二だ。まあ、お前よりは大人の部類に入るから、こんな飲み方だってできる」
瓶に直接口を付け、ぐいっと煽るように飲む。喉が焼けるようにきつい酒を一気に飲んだとは思えない顔をして、ナイラに杯を手渡した。
「俺よりは子供のお前には、こっちだな」
先にアラックを少し、それから水を注ぎ入れる。すると透明だった液体が乳白色に変わり、味付けのハーブであるアニスの香りが優しく届いた。ほら、と微笑だけで促され、グラスに口を付ける。
「見ての通り、薬は入ってないぞ」
おもむろに付け加えられた言葉に、ナイラはむせて咳き込んだ。
「あなたねえ……!」
上げかけた抗議の声は、思いがけず優しく向けられた瞳の前に止まってしまう。
「――冗談だ。そうやって身も心も、気高く守り通してきたお前だからこそ、俺は……」
「え?」
「いや、何でもない。ほら、飲まないのか?」
一瞬切なげに瞬いた、そんな眼差しが嘘だったかのように、バドゥルは笑い、酒を飲み干す。なぜか悔しくて、ナイラもお代わりを要求した。
(どうして……なぜ、そんな顔をするの?)
まるで、愛しい人を見るように。そんな風に優しく見つめるなんて、それこそ反則だ。
(大切な女性がいるくせに……)
まただ。こうして、思い出しては心が冷える。非道で、悪党なこの男をまた憎むから。いや、憎もうとしているから――?
(しっかりなさい、ナイラ!)
自分で自分を叱り付けた、その瞬間だった。三杯目のアラックを飲み干したバドゥルが、静かに言ったのだ。
「踊りを、見せてくれないか?」と。
「……何ですって?」
驚くことはないはずなのだが、なぜか忘れてしまっていた。今、この天幕の中だけでは、自分は有名な踊り子でも何でもなく、ただの十六歳の少女でいられる気がしていた。忘れてはいけないはずの事実なのに……。
「あの晩は観衆も多く、ゆっくり見られなかったからな。よければ、もう一度お前が舞う姿が見たい」
それに、と付け足された内容に、ナイラは耳を疑う。目を見開くと、バドゥルがあわてて言い直した。
「覗いたわけじゃないぞ。眠ったどうかだけ確かめようとしたら、見えただけだ」
無理やり連れてこられて、成り行き上の旅が始まって。それでもナイラが欠かさなかった、毎晩の習慣。それこそが美しく艶めいた、砂漠の踊り――ラクス・シャルキィの踊り手として、ナイラを花開かせた理由でもあったから。
「……練習しないと、体が鈍ってしまうんだもの」
胸、腹部、腰、脚、それに手足の先まで。自分の思うように、完璧に操り動かせてこそ『砂漠の薔薇』だ。そのためにも、ナイラは一人続けていたのだ。たった一人の舞台を――。
「それだけじゃないだろう?」
言われ、瞳を瞬かせた。そんなナイラに、バドゥルは微笑む。
「心から、踊りが好きだという顔をしていた。今のお前は、誇りを持った本物の踊り手だ。そうじゃないか?」
「私は……」
(そうだ。幼い頃には嫌で、苦しくてたまらなかった練習も、いつのまにか楽しくなって……魅入られていった)
そしてナイラにとって、踊ることと生きることがつながっていったのだ。
「だから、その『練習』でいい。俺が見ていることなど、忘れてくれて構わないから」
踊ってほしい、とバドゥルが言う。その真摯な目に、心臓が音を立てた。
「で、でも……衣装がないわ」
あの夜、夜着姿で連れて来られたから置いてきてしまった。だから仕方なく、動きにくいガラベーヤのまま練習していたのだ。言い訳しようとしたナイラの前に、バドゥルは何かをすっと差し出した。
「これ、私の……!」
「誤解するなよ? 別に変な意味じゃなく、踊りが好きなお前には必要なはずだと思ったから。今まで渡しそびれていただけだ」
心なしか赤い、バドゥルの顔。彼が渡してくれたのは、ナイラの舞台衣装だった。
「出て行って」
小さく言うと、驚いたバドゥルが顔を上げる。その表情が曇る前に、ナイラは軽く笑って付け足した。
「着替えたら、最高の踊りを見せてあげる。一人でも、観客は観客だものね」
篝火に照らされた舞台の上でもなく、幾人もの男たちの目にさらされるのでもなく。
たった一人のための踊りは、こうして始まった。
月――きっと、この天幕の外を照らしているであろう輝きを、瞼の裏に思い浮かべる。
いつもと違い、伴奏はない。それでも、ナイラの耳には音楽が聞こえていた。叩かれる太鼓の音色が、刻まれる鼓動が。
しゃらん、と腕輪の鈴が鳴る。裸足で絨毯を踏みしめながら、ナイラは舞った。
長い髪を揺らし、腕を回し、手首を反す。胸を、むきだしの腹部を、そして腰を順に動かしていく。時にゆったりと扇情的に、時に激しく情熱的に。美しくあでやかな踊りであると同時にそれは、一種清らかな舞でもあった。
その昔、神聖な踊りとも言われていたラクス・シャルキィ。今は夜の舞台で、官能的な動きだけを見世物にしていると思われがちだが、ナイラの育て親サヒーディは言った。誇りを忘れてはいけない、と。
そして教えてくれたのだ。ラクス・シャルキィは女性の美――体一つでその全てを表現する芸術なのだということを。だからナイラは指の先まで、髪の一本一本の先までにも、心を込めて舞う。見る者の目を奪うだけではなく、心の底までにも自身の踊りを刻みつけるために。
そうやっていつも舞ってきた。けれどそのために犠牲にしてきたはずのものは――凍らせてきたはずの心は、今確かに息づき、脈打ち、動き始めている。
(どうして……こんな気持ち、知らない。必要のないものだった、はずなのに……)
ただ黙って、ゆったりとクッションに体を預け、見つめるバドゥル。くるりと舞い、目線を上げ、中央に戻すたびに絡まる視線。
その都度ドキリと高鳴る胸の音を、ナイラは踊りへの情熱に変えてしまおうとする。
それなのにバドゥルに見つめられていることが忘れられなくて、彼の瞳に映る自分を意識して――ナイラはついに舞を止めた。
傍目には、それが練習の終わりだと思えたのかもしれない。何も知らぬバドゥルは軽く拍手をし、笑みを湛える。その向かい側に戻ろうとして、ナイラは息を呑んだ。
「あ……っ!」
この程度で疲れたりはしないはずなのに、また再開した心臓の動きに動揺し、絨毯の端に足をひっかけ、つまずいてしまったのだ。咄嗟に支えてくれたバドゥルに抱き寄せられる形になって、余計に鼓動がはねあがった。
「大丈夫か?」
「……ええ、平気よ」
交わされた会話は、まるきり普通のものでしかない。けれど高鳴る胸と染まる頬に気づかれたのではないかと、ナイラは怯えた。
その怯えを感じ取ったのか、それとも瞳に宿る他の色が見えたのか。バドゥルの双眸もふいにゆらめき、何かの感情に揺れたような気がして。
無言のまま、視線が重なる。互いの表情に、それ以上のものを探そうとして――振り切るように息を吐いたバドゥルが、ナイラの体をそっと離した。その刹那だった。
「盗賊だ……っ! 逃げてください、旦那っ!」
必死でかけられた声が少年のものであったことに気づいた時には、入り口の布が高く掲げられていた。続いて、押し入ってくる数人の男たち。覆面をした彼らの手には、湾曲した立派な長剣があった。
悲鳴も出せずに息を呑んだナイラを、バドゥルがかばう。
「女は切るな。怪我させちまったら高く売れねえぞ」
「上玉だ。こりゃあ、お頭に渡す前に俺たちも……」
低く、卑しく笑う声に、ナイラは顔色を変える。一瞬だけ、店からの追っ手かと考え、連れ戻されたくないと感じた自分に一番驚いた。
「女を渡せ。大人しく言うことを聞けば、命だけは助けてやってもいいぜ」
にやにやと、余裕の構えで剣を突きつける男。じりじりと、バドゥルがナイラごと後ずさる。さしもの彼も、丸腰では何もできない――のかと思いきや、ふっと笑って答えたのだ。
「何事かと思えば……悪いが、俺の宝だ。そうやすやすと渡すわけにはいかないな」
「何だとっ!?」
目を剥いた盗賊。バドゥルと対峙していた一人の喉元には、きらりと光る短剣が突きつけられていた。
いつのまに隠していたのか、後ずさった時にクッションの下からバドゥルが引き抜き、構えたものだった。
長剣と短剣。どちらに分があるのかはわかりきっていて、一瞬動揺を見せた男も面白がるように剣ではねかえしてみせた。
「やる気か。いいぜ、そんなちっぽけな短剣で何ができるか、かかってきな!」
後ろに引いた男が叫ぶのを合図に、盗賊たちは一斉に剣を向ける。
「……バドゥル!」
囁くような、呼びかけ。背中にしがみつき、震えていたナイラが思わず漏らした声だった。恐怖と驚愕と、入り混じった感情が勝手に口走らせたのだ。
「やっと、名を呼んでくれたな」
嬉しそうな低音が答えた、次の瞬間。わっと男たちが襲い掛かる。悲鳴を上げたナイラを突き放し、バドゥルは短剣を振りかざした。
真正面から振り下ろされた攻撃を、横手に受け止め、鋭く叫ぶ。
「下がっていろ――ナイラ!」
これもまた、初めてちゃんと呼ばれた名前だった。芸名であるとはいえ、自分自身に向けて発された言葉。
声も出せないナイラの目前で、バドゥルは短剣だけで器用に戦っていた。彼の腕と技術が予想外だったのか、相手はあせり、更に剣を振りかざす。その隙を付いて、バドゥルが男の腹を蹴り上げる。
どっと後ろに倒れた男を見て、余計に血が上ったらしい仲間が二人がかりで飛び掛った。
(やめて……お願い!)
ナイラの嘆願をよそに、バドゥルの余裕は消えなかった。身を低くし、攻撃を避けた体勢から、手を伸ばす。倒れた男のそばに転がっていた長剣を奪い、立ち上がりざまに一人の足元をなぎ払う。そのまま起き上がったところで、もう一人の鳩尾に剣の柄をのめりこませる。流れるような一連の動きは、ナイラが瞬きを数度する間で終わってしまったのだ。
「おいで」
その言葉は、ナイラの心の奥、忘れかけていた部分をちくりと刺激する。けれどゆっくりと思考に浸る時間はなかった。差し出された手の平を、必死で掴む。
ランプが倒れ、絨毯に、そして天幕全体にその火が燃え移り、広がっていく。
「待て、この裏切り者……っ!」
盗賊の残党が追ってくる。不可思議な言葉に、ナイラが一瞬振り返る。が、その手を再び強く引いたバドゥルは、天幕の出口にいた白い毛並みの馬にナイラを抱え上げ、自分もまたがった。
「策略にはまるようで面白くはないが、これで一気に駆け抜けるか。どちらにしろ、目的地は同じだ」
意味のわからない、バドゥルの呟き。けれど、問い返す暇は与えられなかった。
手綱を持ち上げ、片腹を蹴ったバドゥルの命を聞いた馬が走り出したからだった。
月夜の砂漠を、葦毛の馬はひたすらに駆けていく。どこかの貴族から盗んででもきた盗賊の戦利品なのか、体力もあり、砂地に負けぬほど丈夫で足も速かった。当初追ってきた残党を撒き、風のように走り続けている。
それでも、ナイラの顔は浮かない。ずっと反芻していた先ほどの言葉。盗賊の悔しげな叫び声を思い返していて、一つの可能性に気づいたのだ。
(まさか、そういうことなの……?)
裏切り者。その単語が示す答え。
破格の薔薇代に、余裕のある旅。どちらをも可能にさせるほど裕福に思えるバドゥル。そんな彼はどこかの豪商の息子でもなく、はたまた貴族の庶子なんかでもなく――彼らの仲間だったのでは。
「どこにも、怪我はないな?」
思考に埋没しかけていたナイラの耳元に、そっとバドゥルが訊ねた。優しく、気遣うような声音に自然と胸が鳴る。
「え、ええ……」
ナイラの返答を機に、バドゥルが手綱を引いた。ナイラの体を支えていた片方の手を伸ばし、馬の首をねぎらうように叩く。動作の全ては手馴れていて、どんな上質の馬や金品の扱いにも戸惑う様子は感じられない。
(やはり……そのほうが納得が行くじゃないの)
なのにどうして、自分は躊躇しているんだろう。彼が最初に疑った通りの悪党で、盗賊の裏切り者であったから?
自分を買った金も、彼が手配してくれた宿も食事も何もかもが、盗み、奪ってきたであろう彼らの分け前から出ていたと思うから、だろうか。逃げる寸前、バドゥルが持ってきてくれていたアバヤ、ニカーブ、そして。
(この、ガラベーヤまでも……?)
驚愕から抜け出せないでいるナイラをよそに、バドゥルは馬の手綱をそばの潅木にくくりつけ、砂漠の小さなオアシスと化した茂みに腰を下ろしている。
「……どこへ、行くつもりなの?」
少し離れた場所で立ち尽くしたまま、ナイラがそっと問いかけた。その声が夜風にさらわれそうなほど頼りないことには気づかないのか、バドゥルは何気ない顔を向け、笑みを刻む。
「だから言っただろう? 俺の故郷だ。もう、そう遠くない」
「故郷……」
そんなことを言いながら、本当は自分をいいように利用し、また金を稼ぐつもりではないのか。約束も何も全部が嘘で、騙されていたのだろうか。胸に湧き上がる不快な感情は怒りであるはずなのに、ただ、痛みだけが苦く広がっていく。
(少しでも信用した私が馬鹿だったのよ。それだけなんだわ)
この男だけは、何かが違うと。『砂漠の薔薇』と自分を崇め、その実利用していただけの汚い男たちとは異なっていると、感じた自分が浅はかだったのだ。
希望も期待も、とっくの昔に捨て去ったつもりでいた。救いの手など、望まなかったはずなのに――。
「どうした?」
無言で俯いているナイラを、心配そうに呼ぶ。バドゥルの、今は見えない青空のような瞳を一瞬すがるように見つめ返す。まだあきらめきれないで伸びようとする想いの芽を、首を左右に振り、ナイラは必死に踏み潰した。
「ナイラ」
もう一度、静かな声がそう呼んだ。
確かな、温かい気持ちを思い出させる呼び声に胸が痛んで、ナイラはきつく唇を噛む。
「泣いてる、のか……?」
驚きを含んだ、バドゥルの問い。真摯で優しい響きを感じ取り、改めて思った。
(そう、悪党だからって、悪人だとは限らない。大切な女性への、想いだって……)
確かに真実なのかもしれないのだ。
何度も思い返してきたことが、新たな棘となって胸に突き刺さる。
「呼ばないで……」
怪訝そうに、それでも近づこうとした歩みを止め、バドゥルが見つめている。ベールの中の、ゆがんだ顔が見えるはずはないのに、まるで全て透けて見えてしまっているような気までした。
「そんな声で――呼ばないで。優しくなんて、しないでよ……っ!」
どうせ、自分は捨てられるのに。両親にさえ疎まれて、生まれたばかりで置き去りにされて始まった、寂しい命。誰かを求めようとするたびに、あえて壁を作って。自分の回りに高く囲いを作り、孤高の花として必死に咲いてきた。
踊り子の仲間が客相手に本気になったり、幼なじみの恋人と別れて、泣きながら商売を覚えていったりするのを見ても、理解も共感もできなかった。そんなものは自分には不必要な感情だと、関係のない世界だと冷めた目で見てきた、はずだったのに。
くるりと踵を返し、砂の上を駆け出す。突然のことに慌てたのか、バドゥルの声からはいつも満ちていた余裕が消え去っていた。
「ナイラ……ッ!」
待て、と大きく声をかけられても、ナイラは止まらなかった。一人、たった一人生き抜くために、どんな辛い練習にも嫌味な客にも、踊り子同士の熾烈な嫉妬や争いにも耐えてきた。歯を食いしばり、決して弱味は見せるまいと、流すことのなかった涙。
それを、どうして出会ったばかりのこんな男の前で流さなければいけないのか。あふれる雫を……止めることもできないのか。
「ナイラ! だめだ、そっちは――っ!」
ただ、全てから逃れようと走っていたナイラの足がよろめく。思わぬ窪みの存在に、気づいた時にはもう遅かった。
「……っ!」
叫び声すら上げることもできず、ナイラは砂漠に時折発生するという『恐怖の渦』――蟻地獄へと落ちていった。
どれくらいの時が経ったのか、気づいた時には薄暗い洞窟の中にいた。
大量の砂でできた、小さな山となった場所に仰向けで横たわっていたらしく、衣服も手足も砂まみれだった。
「……あそこ、から?」
見上げた天井の、遥か彼方。月明かりが差し込むのは、大量の木の根が垂れた、穴らしき部分からだ。
時折、風に流されて、まだ砂がさらさらと落ちてくる。長く張った根はナイラのいる洞窟の中まで伸びていて、そばを流れる地下水にひたっていた。
「アデニウム・オベスムだ」
「……あなた……!」
ふいに響いた低音。その、ここ数日で聞きなれた声に振り向くと、地下水の中を歩いてきたらしい、長身の立ち姿があった。同じく砂と、こちらは水にも濡れた上着を造作なく脱ぎ捨て、ターバンまでも取り去る。
はらりと肩に落ちた金の髪が、月光に照らされ美しくきらめく。淡青色の双眸も、口角だけを少し引き上げた笑い方も、全てがバドゥルそのもので。
「どうして……?」
震える声で訊ねた。ナイラの質問も意図もわかっているだろうに、軽く肩をすくめたバドゥルは、先ほどの続きらしき言葉を口にした。
「砂漠に咲く薔薇。それが平地の緑豊かな場所とは違う種類の花であることくらいは、お前も知ってるだろう?」
自分の呼び名ともなっていた、乾燥地帯特有の強い花。アデニウム・オベスムという正式な名称を聞いたのは久しぶりだった。そういえばあの潅木の茂みがそうだったのか、と思い出す。花は淡い赤で、小さくいくつも並んで咲くのが特徴だった。強い生命力と美の象徴とされる花ではあるが、実際には目立たず、夜目にはよくわからなかった。
だから何だというのか、と正直な思いをナイラの瞳から読み取ったのだろうバドゥルが笑う。上着の下の薄い衣服までも汚れ、濡れていて、いつもの姿より体格がわかりやすい。
広い肩、筋肉のある腕、そしてたくましい胸。まぎれもなく、自分とは違う異性のもの。そんなバドゥルに目の前に立たれ、ナイラは落ち着かず顔を背ける。
「来てみろ、見せたいものがある」
沈黙などものともせず、バドゥルは言い、先に立って歩き出す。渋々付いて行くと、月明かりの届くぎりぎりのところに流れる地下水が、かすかに赤く染まっていた。
(ううん、違う……赤い、石?)
水の中に、きらりと輝く石があったのだ。躊躇せず手を入れたバドゥルが取り出し、月光にかざしてナイラに見せたもの――それは、
「薔薇……!」
赤みを帯びた、石の花だった。いや、花の形に見える石、というべきか。
いくつも、花びらのように薄い石片が重なり、一つの大きな形を作っている。それはまさに、薔薇に似ていた。
「綺麗だろう」
言われて、ただ頷く。それほどに、不思議で美しい『花』だった。
「アデニウム・オベスムが咲く場所には、時折こんな風に地下の空洞ができる。いや、もしかしたら空洞があるから咲くのかもしれない。とにかく、この太く立派な根は必ず地下に潜む水流を探し当て、必要な水分を取り入れ、美しい花を咲かせるんだ」
根の垂れた、頭上の穴を遠く見上げ、バドゥルが説明する。いばるわけでもなく、ただよく知る話を語り聞かせているだけ、といったさりげない口調だった。
「だから、必然的に地上の砂漠は蟻地獄となる可能性が高いってわけだ。こういう時のためにも、砂漠の旅には慣れた道案内がいるのさ。知らなかっただろう? 旅慣れないお姫様」
いつもの、少し意地の悪い微笑みを見せ、バドゥルはナイラの手に石の薔薇を置いた。手の平に伝わる重みと感触が胸を騒がせ、気づけば言い返していた。
「――あなたはよくご存知のようね。盗賊の裏切り者さん?」
「盗賊……俺が?」
ナイラのまっすぐな疑念に、バドゥルは初めて聞く単語のように瞬きをする。心底意外そうな目に戸惑いかけ、あわててそんな自分を抑えつけた。
「そっ、そうよ! こ、こんな風に助けに来たりしても、結局はあいつらと同じ。あなただって、私を利用して稼ぐつもりなんでしょう?」
しばらく黙っていたバドゥルは、なぜか楽しげに笑い出した。腹を折り、声まで上げながら。
「だ、だって、あの時誰かが『裏切り者』って……!」
導き出した結論は、一番しっくり来るものだったから。間違いないのだと、考えて腹を立てて――悲しくて。
(か、悲しくなんかないわよっ、こんな男やっぱりただの悪党なんだから!)
心の中で毒づき、笑い続けるバドゥルを責めようと口を開く。ナイラよりも先にバドゥルを止めたのは、洞窟に響いた大勢の足音だったのだ。
あっという間もなく、水をばしゃばしゃと踏みながら、二人のいる空間に到達したのは例の覆面をした男たちだった。
「と、盗賊……!」
喉の奥から、驚愕と恐怖の叫びが漏れそうになる。その前にナイラの肩をかばうように抱いたバドゥル。しかし大勢の男たちに囲まれ、逃げ場のなくなった洞窟で、彼は大きく嘆息したのだ。
「何だ、もう追いついたのか。あいかわらず無粋な奴らだな」
もう少し、気を利かせろというんだ。そう続けるバドゥルの余裕に、ナイラはやはり、という思いと新たな恐怖にとらわれる。
裏切り者への報復といえば、たった一つ。その答えに震えたのは、自分が巻き込まれることよりも、彼が――この微笑みが消えてしまうことを想像したからだった。
「やめて……殺さないで!」
「ナイラ」
予想外だったのか、身を挺し、しがみつくことで彼らの刃から守ろうとしたナイラを――自身の胸に必死ですがりついている華奢な体を、驚いたようにバドゥルが受け止めた。
「だめよ――き、傷つけてはだめ、なのっ! だってこの人は……この人には、大切な女がいるんだから……!」
否、本当に言いたいことは、そうじゃない。病の床で彼を待っているだろう女性も、彼女へのバドゥルの想いも関係なく、ただ自分が嫌だったのだ。彼が傷つき、刃に倒れることが恐ろしくて、耐えられなくて。
震えるナイラの背に回されていた手が、バドゥルの力が強められる。抱きしめられているのに近い状態で、それでもナイラの心は苦しく、痛みに凍えていた。
目頭が熱いのに、涙はもう出ない。彼のために泣くのは、泣いていいのは自分ではないことがわかっていたから――。
カラン、とナイラの手から赤い石の花が落ちる。転がっていったそれを拾い上げたのは、黙って取り囲んでいた盗賊の中の一人だった。
「なるほど……気高く強い、奇跡の花。ずっと探し求めておられた方を、ついに見つけられたわけですね。おかげで、あなたが血相を変えて崖を下り、別の入り口からたった一人の女性を助けに行く、なんて貴重な場面をしっかり見せていただけましたよ」
ゆっくりと覆面を取り、微笑んでみせたのは日焼けした肌に褐色の髪と瞳を持つ、いかにも砂漠の民という風情の青年。
怪訝そうに、おそるおそる振り向いたナイラを抱いたまま、バドゥルが嫌そうな顔で答えた。
「それでわざわざここまで押し入ってきたってわけか――サーリム。まったく……あの宿での茶番といい、今といい、どうしてお前らには遠慮というものがないんだ?」
放っておいてくれれば、愛しい娘に余計な疑いなどかけられずに済んだものを、とため息混じりに続ける。しかし、表情はあくまで楽しげだった。
「遠慮なんてしていては、無茶ばかりするあなたの護衛は務まりませんから。ムバラック陛下からよくよく念を押されていますし、それに」
近づけばバドゥルと同じくらいに長身の青年、サーリムと呼ばれた彼は知的な笑みを浮かべる。どうぞ、とナイラに向かって石の花を差し出してから、バドゥルに向き直った。
「楽しい『茶番』を何よりも好まれるのは、あなたではありませんか? ――ルシュカ王国第三王子、ファヒーム殿下」
さらりと語られた名前、そして肩書き。まるで予想外の流れで明かされた、目の前の男の正体に、今度こそナイラは驚愕を隠せなかったのだった。
薄雲から少しだけ顔を出した月が、夜空を照らしている。開かれた窓から差し込むその光と、優しいランプの炎に照らされ、部屋は十分明るかった。立派に衣装を整えたバドゥルの姿と、豪華できらびやかな内装や調度品の全て――カーランから砂漠を越え、西方に存在する大国ルシュカの王宮にふさわしい光景が見渡せる程度には。
「ああ、思ったとおり……よく似合うな」
身分も名前も、出会った時とはまるで違うことがわかった今も、バドゥルは同じ笑顔で見つめてくる。先ほど、侍女たちに手伝われながら湯浴みをし、用意されていたらしい衣装に着替え、髪やベールまでも美しく整えられたナイラの姿を指して言っているのだ。
「……ずるいわ」
顔をしかめ、悔しげに呟く。独り言にも似たナイラの声は、しっかりとバドゥルに届いたらしい。
「そうだ、ずるいんだ、あいつは。本名も身分も、俺が自分で明かして驚かせようと楽しみにしていたのに」
ファヒーム。そう呼ばれた時のバドゥルの苦々しい顔を思い出し、ナイラの頬が緩む。すぐに引き締めなおし、ナイラはきっと睨みつけた。目の前の悪党、もとい、詐欺師の顔を。
「違う、あなたのことよっ! どうして最初から、ちゃんと話してくれなかったの? 嘘なんてついて……!」
こんな大国の王子だなどと今更言われても、口調を改めることも、態度を変えることもできないくらい無学で無知な自分。単なる踊り子ふぜいをからかって、楽しんで――と怒りに燃えた目を向けても、バドゥルは悪びれなかった。
「本音で接してほしかったんだ。王子として、ではなく、ただ一人の男として見てほしかった。それに、話さないこと、と嘘は違う。大切なことは言っただろう? 俺の故郷に付いて来てほしい、と」
「それは、そうだけど……」
(じゃあ、あの話も嘘じゃないの?)
ずきりと痛んだ胸を無意識に押さえ、俯いた。ナイラの無言をどう捉えたのか、バドゥルは平然と歩み寄り、手を差し伸べたのだ。
「言ったとおり、見せてくれるか? 俺の大切な女性に――お前の『夢舞い』を」
戸惑いはあった。驚愕も衝撃も、もちろん当然の感情だろう。けれど、盗賊の仲間だという疑いが晴れて、正直に嬉しかったことは事実。複雑な中で、少し浮き上がっていた気持ちが、その言葉で見事に沈んだ。
笑顔も言葉も、触れた手すら自分のものではない。あり得ない――。
拒否することもできず、導かれるままに豪奢な王宮の回廊を歩いていく。一つの建物を出て、広大な庭園を通り過ぎ、違う建物へ。
前後にぞろぞろと家来や侍女を伴っての移動に、彼の身分の高さを実感していく。
「彼女だ」
金の縁飾りが付いた、立派な寝台。絹の敷布に横たわる女性の姿を、ナイラは目にした。
見たくないとさえ願う自分の心に否応なく気づき、また抵抗しながらも。そうして、意外な姿に目を見開いたのだ。
「……俺の、母親。ハナーン第五妃だ」
第五、と付けられるからには正妻ではない。それでも大国ルシュカの名に恥じぬ宝石の指輪や首飾り、美しい刺繍入りの上品な夜着よりも、その淑やかで清楚な顔立ち、そして風貌にナイラは驚いていた。
「お母、様?」
口からは問いが滑り出ていたが、彼女の長い金髪や容姿の端麗さはバドゥルとそっくりだった。ただ一つ、その肌が透けるような白い色であることだけが異なっている。
「今すぐに、命に別状があるというわけではないらしい。ただ……もうずっと眠ったままなんだ、ここ数年は」
昔から体が丈夫ではなかったという母の話を、ぽつりぽつりと語るバドゥル。北方の国に遠征した際、父である前国王に見初められ、妃となった。にも関わらず、違いすぎる風習や文化、そして何より母国とは異なる一夫多妻の制度に耐えられなかったハナーン。それも、元の名は結婚の時に捨て、新たに頂いたものであるとか。
そんな結婚生活の末に、思わぬ急病で夫に先立たれてしまい、その心労から倒れてそのまま――と、バドゥルが苦しげにハナーンの寝顔を見やった。
「俺は、正直今でも許せないでいる。異邦の血を拒み、受け入れぬくらいならなぜ妃にまでしたのか。なぜ、自分が死んだ後まで苦しめるのか」
「バドゥル、あなた……」
(お父様を――前国王を、憎んでいるの?)
質問は、口に出せなかった。きつく噛み締められたバドゥルの唇と、初めて見せる厳しい表情が物語っていたからだった。
「まあ、厳格なあの男と、鬱陶しい王宮から早くに逃げ出した俺が言うのも何だがな。だからこそ、今更願ってしまうのかもしれない。幸せな夢を……せめて、寝顔だけでも微笑みにしてあげてほしいと」
真剣な瞳で言われ、ナイラは静かに立ち上がった。着せられていた絹の衣を脱ぎ、ひそかに身につけていた踊り子の格好に戻る。慣れ親しんだ、動きやすい舞台衣装。踊れることに喜びを感じる自分。それよりも更に心を占めるのは、熱い想いだった。
(助けたい……!)
バドゥルの愛する母親を、そして、彼が心に持ち続けてきたであろう傷からも。
強く願った瞬間、変化は起きた。ナイラの双眸が、濃い紫の瞳が、美しい夜空のようにきらめく。サーナンの血が目覚めた時の合図だった。
眠るハナーンのそばに歩み寄り、目を閉じて集中する。規則的に繰り返される彼女の呼吸に合わせ、ナイラも息を整える。 深く長い吐息の後、舞いは始まった。いつもとは少しだけ違う、ゆったりとした穏やかな踊り。それでも美しく、艶やかな動きの全ては砂漠の民族舞踊、ラクス・シャルキィの応用だ。
実際に踊るのはナイラの体。けれど、夢の中でもナイラは舞っている。
(見せて――あなたの、夢を。そして心を)
彼女は、一体どんな心で、何を望んでいるのか。バドゥルの言う『幸せな』夢とはどんなものなのか。それを知るために、ナイラはハナーンの夢へ潜っていく。
「誰、なの……?」
薄闇の中、聞こえてきたのは優しく澄んだ声だった。振り向いたところに見つけた、金の髪の乙女。今とは違う、若かりし頃のハナーンであることは、顔立ちからわかった。そして、彼女がバドゥルに一つだけ似ていない部分があることも。
(なんて綺麗な瞳……!)
それは、深い湖の底を思わせる、藍色だった。いや、ともすれば濃い紫色にも見える。
(もしかして……!)
懸念は、当の乙女、ハナーンの声で現実となった。
「あなた、サーナンの血を引く人ね? これは――そう、『夢舞い』だわ。そうでしょう?」
体は踊っている。確かにバドゥルのそばで、舞っている。それでもナイラの心は、夢の中のハナーンと対峙し、会話を始めていた。
「もしかして、あなたも……?」
ナイラの言葉に、ハナーンはしっかりと頷く。
「遠い祖先に、サーナン族の妻をもらった王がいると聞いているわ。でも、もうそんな血は薄まって……それが、たまたま私の瞳にだけ受け継がれたそうよ」
森の片隅に咲く、清楚で可憐な花を思わせる微笑み。色彩しか似通っていないのに、なぜかひどく懐かしいのは、やはりかすかでも同じ血を引く者同士だからなのか。
「あなた、あの子に呼ばれて来たのね?」
あの子、というのが彼女が一人だけ持った息子――ファヒームを指すのだと気づき、頷いた。まだ、満月の名で呼ぶほうに慣れている自分を抑えて。
「あの子、私に『夢舞い』をしてほしいと頼んだのね。そうね……優しい子だから、きっとそう思って、ずっと探していたようだもの」
若い姿をしてはいても、彼女にはバドゥルの行動も、自身の現状もわかっているらしい。瞳を翳らせ、ナイラに歩み寄る。
「ごめんなさいね、ここまで来てもらって。でもね……違うの」
「違う?」
ええ、とハナーンは首を縦に振った。先ほどの陰りも、悲しみも、藍色の瞳からは消えていた。そこに宿るのは、確かな喜びの色。
「私は、幸せなの。あんまり幸せで、つい目覚めたくなくて、あの子にも誤解させてしまったわ。見当違いの苦しみと、憎しみまで与えて……」
「幸せ――?」
「そうよ、とても。でもあの子は知らないの。私を最期までないがしろにした、ひどい男だと思い込んで、父親を嫌って……兄である現国王からの正式な命まで、ずっと拒み続けている。随分と辛い思いをさせてしまったわ。気づけなかった私と、心と態度が違いすぎるあの人のせいね。私、本当のことを伝えなければ」
ああ、だから巡り会わせてくれたのね。ハナーンは優しく、安堵したように微笑んで、ナイラの紫の瞳を見つめた。
(サーナンの血が、そしてあなたのお母様とお父様が呼んでくれたんだわ)
続いた言葉は、ハナーンが口にしたものだったのか、それとも思考のカケラであったのか、ナイラにはわからなかった。
両手を伸ばし、自分をそっと抱きしめてくれたハナーンの体から――いや、心から、伝わってきた想いに、何か別のものが重なっていく。
一組の、優しい眼差しの男女。ナイラに似た黒髪の女性が、涙ながらに赤子を置いて、砂漠の街を去っていく。おくるみに入れられた刺繍は、確かによく知るもので。
(あれは、まさか……!)
幸せに、と。何度も何度も振り返る二人が誰なのか、刺繍の文字が教えている。悟った刹那、ナイラの瞳から涙があふれた。
愛されていた。事情はあって、共に生きられなかったけれど、それでもちゃんと――。
(お父さん、お母さん……!)
地面に崩れ落ちたナイラを、温かい手で支え、ハナーンが微笑んだ。
「さあ、行きなさい。私も、もう戻るから」
また会える時まで、待っていてね――ナイラにかけられた言葉は、最後に別の誰かに向けられて。応えるように微笑み、彼女を抱きしめたその人――頭上に王冠を掲げ、髪や瞳、肌の色は違っても、バドゥルによく似た前王に、ナイラは深々とお辞儀したのだった。
意識が夢から離れ、現実に戻ったと同時にナイラは舞い終えていた。瞼を開くと、ハナーンの寝台の脇、椅子の上でバドゥルが眠っている。
疲労からか、それとも先の夢舞いに引きずられたのか。端正であるのに、どこか幼くも見える寝顔にふっと笑って、ナイラはその体を両腕で優しく抱いた。
「幸せな夢を……バドゥル」
囁き、そっと頬に唇を付ける。それでも目覚めることのない彼のために、ナイラは再び踊り始めたのだ。今度は、誤解を解く真実を伝え、彼自身の心の傷を癒すために――。
洞窟で会った、護衛役だというサーリムを説き伏せ、ナイラは夜の砂漠に出た。全てのお礼や褒賞も拒絶し、身一つで旅に出るためだった。まだ眠りの中にいるバドゥルに内緒で請け負ってもらった護衛。それもどこかの街に入るまででいいと強引に言い添えて。
(私は、踊り子だもの……こうするのが、ううん、こうするしかないのよ)
自分の踊り一つで、どこででも生きていく。バドゥルが言ってくれた通りに、あの石の花――本物の『砂漠の薔薇』であるならば、できるはずのことだから。
強くならなくてはいけない。今までのように、涙なんて忘れて踊るのだ。
ナイラの決意を尊重してくれたのか、護衛のサーリムと彼の部下数名は、無言で付き添ってくれている。静か過ぎる夜の砂漠を、ラクダでゆっくりと進んでいた。その時だった。
「ナイラ……ッ!」
響いた声に一瞬さざめいた胸。しかし予感は、別の形で驚愕となった。
「……あなた、ターリック!?」
ターバンを巻き、旅装をしていたからすぐには気づかなかった。けれどその人のよさげな顔と細身の体は見覚えのあるもので、まぎれもなく、ずっと一緒に働いてきた店の仲間――太鼓の奏者だった。
「まさかここまで、追って……?」
「そうだよナイラ! 君が消えて、店は火が消えたみたいに寂しくなって――あ、あんな風にいきなり身請けされていくなんて、僕、納得できなかったんだ。だから、こうして……っ!」
馬から降り、こちらへ駆け寄ってくる。必死な形相と再会に感極まった様子よりも、その言葉にナイラは反応した。
(『身請け』?)
自分との一夜をバドゥルが買ったのは本当だ。その後も、金で追っ手を追い払ったはずで。それが――?
「たとえ相手が王族で、僕らじゃ一生かかっても払えないほどの額で君を買ったとしても、僕は嫌だ……ずっと、ずっと君が好きだったんだから!」
(王族で、一生かかっても払えないほどの額で……?)
ターリックは、ぼんやりとしたナイラに気づかないのか、顔を赤くして言い募る。
「お願いだ、ナイラ……もう一度戻ってきてくれ。僕のそばで、ずっと踊って――僕のものになってくれなんて言えない。だって、君は……至上の薔薇で、誰のものでもない。誰に触れられても、心だけは手に入れられない気高い花なんだから」
真実を未だ知らぬターリックの、それでも心の底からの懇願。しかし強い想いは、ナイラを驚かせはしても、動かすことはできなかったのだ。
「同情はするが、共感はできないな。そう思わないか? ナイラ」
今度こそ、呼んだ声は低く、胸に染み入るものだった。それは声自体ではなく、発した相手こそがナイラの望んでいた人物だったから。振り返ったナイラの、紫の瞳が揺れる。
「バドゥ……お、王子殿下」
「慣れない呼び方などしなくていい。今までどおり、バドゥルと」
あわてて膝を折り、頭を下げようとした。ナイラの仕草を可笑しげに見下ろし、そう言ったバドゥルが馬から降りる。
「『ナイラ』は皆のために咲く花であったのかもしれない。が、お前は違う。そうだろう? ――」
ゆっくり歩み寄り、有無を言わせずナイラの腕を引く。ターリックの目前で、わざとらしく顔を近づけ、バドゥルが囁いたのは。
(どうして……私の)
それは、赤子のナイラがくるまれていた布に残されていた刺繍の文字。ナイラの持つ、唯一の両親からの贈り物に刻まれていた本当の名前だった。捨てたつもりで、ずっと忘れられなかった記憶の欠片。
「幸せな夢には、どうやら秘密の贈り物が付いてくるものらしいな」
ナイラが見せた夢。過去の傷を癒す、優しい思い出の数々には、術を使ったナイラ自身の想いまで綴じこまれていたらしい。それが本名と共に、ナイラの心を伝えたのだ。バドゥルから説明され、ナイラは頬を染めていく。
「言っただろう? 俺に、術の類は効かないと。一応、母からサーナンの血をわずかにでも受け継いでいるからな。大抵の怪しげな術や薬なんかには耐性があるんだが、お前は特に力も強いし、それすら超えて、相性がよかった、というか……」
共鳴、もしくは感応。そんな作用が働いたのだろう、とバドゥルが続ける声は、ナイラの耳には入らなかった。
それよりも、息がかかるほど間近で見つめられた双眸に、吸い寄せられてしまったから。
「手放すつもりはない、そうも言ったはずだ」
何度繰り返せば、わかってくれる――?
切なげな眼差しと、口調。震える唇がそれに答えるよりも先に、今まで黙り込んでいたターリックが声を発した。
「くそお……っ、他の男のものになるくらいなら、それくらいなら僕が――っ!」
わめきながら、彼は剣を振りかざし、こちらへ駆けてくる。懐に隠し持っていたらしい物騒な輝きは、無謀であるがために一種の迫力を持って、月明かりを反射する。
バドゥルが、ナイラを背にかばう。サーリムと彼の仲間が、更に二人の前へ出る。
あっという間に取り押さえられてしまったターリックが、悔しげに吠えた。その時を見計らったように、悠然とした声が辺りを静めたのだ。
「何の騒ぎだ、バドゥル=ファヒーム=ムバラック第三王子」
威厳に満ちた言葉に、暴れていたターリックの動きが止まる。背後の立派な門から登場した、豪華な衣装の人物を見とめた途端、ターリックはよろよろと膝を付いた。
「ムバラック二世陛下……兄上、夜分にお騒がせして申し訳ありません。正式な挨拶は明朝に、と考えていたのですが」
優雅に礼をしてみせるバドゥル。さすがに王族なだけあって、きらめく王冠を頭上に頂く若き国王にも、決して動じることはなかった。
「ふむ、いつまで我が誘いを断り続けるつもりかとやきもきしておったが……此度の帰還、嬉しく思うぞ。今度こそ、決意してくれたのだな? ファヒーム」
「ええ、どうやら勝手な思い違いをし、遠回りしていたのは私だけであったようですから。そうですね? ……母上」
何かを思い出すように閉じた瞳を、もう一度開く。兄である国王と、次に現れた人影に、バドゥルはそう呼びかけた。
ナイラが、瞳を見開く。先ほど夢で会った時よりも年老いた、それでも十分美しい女性。金の髪をきちんと結い上げたハナーンが、しっかりと自分の足で立って歩いてきたからだった。
藍色と、深い紫。よく似た瞳を持つ二人は、ベールの隙間からしばし視線を交わす。ありがとう、と優しく語りかけられているのが、ナイラには感じられた。
「戻って、もう一度店の主人に伝えるがいい。このような事態が、今後二度と起こらぬようくれぐれも留意すべし、と。俺の宝を奪おうとする輩を、次は見逃さん。理解したか? ターリック」
「ルシュカ初の宰相夫人、になる予定のお方ですからね。そして我が国の優秀にして有能な宰相殿下は、少々気が短いという物騒な面もお持ちでいらっしゃる」
閃く刃のような、厳しい瞳と言葉。バドゥルのそれに付け足された、飄々としたサーリムの言。二人から脅され、更には大国ルシュカの国王直々に見つめられてはこれ以上、哀れなターリックにできることなどあるわけはなかった。屈強な兵たちに腕を引かれ、連れられていく。
その光景を呆然と見守っていたナイラ一人だけが、事態を飲み込めずにいた。
(宰相、夫人……?)
一体何の話だろうか、と瞬きをするナイラの耳に、サーリムが手短に説明してくれる。ゆっくりと、ナイラの頬は赤く染まっていった。
「そん、な……私、とても無理だって、思って」
許されるはずがない。そう信じて疑わなかったことが、いきなり覆されてしまうなんて。
頭は真っ白になって、体に力が入らない。がくり、と崩れそうになったナイラを支えたのは、力強いバドゥルの腕だった。あっという間もなく抱え上げられ、見つめられる。
「もう一つ、俺の口から言っておこう」
宣言通り、付け加えられた事項。それは今までで一番衝撃の真実だった。ナイラの瞳に、涙が盛り上がる。
「私を、ずっと……?」
頷いたバドゥルの頬が、少し染まっているようなそうでないような。照れているのだと、サーリムがまた教えてくれた。
「殿下の初恋の人なのですよ、貴女は。お父君のご期待に気づけず疎まれるがゆえの仕打ちだと勘違いした挙句、勝手にお辛い幼少時代を過ごされた殿下の、心の支えとでも言いますか。砂漠地帯のどこかの街で暮らしている、ということまではわかったらしいんですがね。さすがに殿下のお力程度では、正確な場所や名前などの情報までは知り得ず、こうして何年も――」
実はお喋りな性質であるらしいサーリムの言葉を、バドゥルの咳払いが遮る。
「うるさいぞ、サーリム」
はいはい、と肩をすくめた護衛を無視し、ナイラを抱えたままバドゥルは歩き出す。見つめる人々からちょうど隠れる、門の影。
優しい月明かりが降り注ぐ場所まで来て、バドゥルはナイラを下ろした。
「だから……言っただろうが。嘘はついてないんだ、俺は」
「名前、も?」
「俺の名は正真正銘バドゥルだ。ちなみにルシュカでは、男が正式な名を教え、呼ぶことを許すのは――妻となる大切な相手にだけ、と決まっている」
「……宝、というのも……?」
「幼い頃から、お前の夢を見ていた。いや、夢に呼ばれ、共有していた、とでもいうべきか。はっきりと顔は見えなかったが、懸命に踊りを習い、鍛錬し、極めていく姿をそばで見ていた。言葉を交わしたこともある。お前は、覚えていなかったようだがな」
苦笑するバドゥルの声と、澄んだ少年の声がようやく重なった。全てを理解した途端、ナイラの心に温かなものが満ちていく。
バドゥルが、照れたように続けた。
「夢舞いの、サーナン一族の話を母から聞いてからはずっと……いつか会えると信じていた。だから、本当だ」
探していたのも、もう離さないと言ったのも。しっかりと聞き取った言葉に、もう涙は止まらなかった。
一人で、必死に生きてきた自分を知り、見つめ、求めていてくれた存在がいたこと。自分の内に芽生え、抑えても抑えても開いてしまった花のような想いが、まさか相手にもあったことにも、胸が熱くて。
「さあ、もういいだろう。答えを聞かせてくれ」
今までで一番真剣で、一番不器用な、切羽詰った訊ね方。それこそが、バドゥルの本気を証明するものだった。ナイラの頬が、ふんわりと緩む。
「なって、くれるか? 俺の――俺だけの、踊り子に。そして……俺が生涯でただ一人迎える、伴侶として」
ずっと、そばにいてほしい。囁かれた要求に、もう想いは抑え切れなかった。
背伸びをして、思いきり飛びついたのは彼の胸。両手を首に回し、しがみついたナイラを、バドゥルは強く強く抱きしめる。
「本当に、いいの……?」
「当然だ。お前を正妻として認める、というのが条件だからな。誰にも文句は言わせないさ」
拒絶し続けてきた宰相職を引き受ける。その交換条件だったのだと、サーリムも言っていたことを思い出す。
何も考えられない。どうしたら、どうすべきかなんてわからない。それでもわかるのはただ、自分の想いだけだった。
バドゥル。天上に輝く、美しい満月のようなひと。金の髪も淡青の瞳も、そして彼の笑顔も何もかも。気づけばもう魅せられていた。惹かれていた。
「バドゥル……!」
潤む瞳で、見上げる。ふっと笑みを滲ませたバドゥルが、遠慮がちに片手を持ち上げた。辿り着いたのは、ナイラのベールで隠された頬。
「……素顔を拝見しても、よろしいでしょうか? 姫君」
冗談めかした聞き方に、軽く笑う。
「あの時は、強引に取ったくせに」
「あれはだから……謝っただろう。やっと出会えて嬉しくて、早く触れたくてたまらなかった。俺のことなどまるで覚えていない、薄情な婚約者にな」
「婚約?」
ほら、やはり忘れている、とバドゥルがむくれる。夢で交わした幼いナイラとの口約束を信じ、ちゃんと果たしたのだと。
――迎えに行くから。
その言葉に、確かに頷き誓った、遠い記憶が蘇る。そう、初めからバドゥルは、ナイラだけを見てくれていたのだ。
薄手の布。最後まで二人を阻んでいたそれを、バドゥルがそうっと持ち上げた。結び目を引くだけで、顔から外れる。
「やはり綺麗だ。俺のナイラ……いや、愛しい花、ラティファ」
唯一、両親が自分に残してくれた本当の名前。その意味さえもしっかり口にして、バドゥルが頬を撫でる。滑らかな肌を、そして唇の輪郭をそっと辿って――次の瞬間、初めて会った時よりも熱く、甘い口づけの嵐に襲われる。
月夜の砂漠に伸びた影は、いつまでも重なっていた。
了
読んでくださり、ありがとうございました^^
感想などいただけると幸いです!