「私がお姉様になるわ」と双子の妹に売られた公爵令嬢ですが、隣国の大公様に救われました
「今日からは、わたしがお姉様になるわ」
王都を見下ろす郊外の古びた礼拝堂で、双子の妹であるロゼッタは楽しげに唇を歪めた。
――わたくしとロゼッタは、父親でさえ一目で判別できないほど同じ顔と声を持って生まれた。
けれど、その中身は正反対だった。
わたくし――セシリアは、ヴァーミリオン公爵家の長女として、幼い頃から古語の習得と魔術実践に明け暮れてきた。
三年前に亡くなった母の「公爵家の長女として、家の名に恥じぬ務めを果たしなさい」という遺言を守ることが、自分の存在理由だと信じていたからだ。
対するロゼッタは、魔力の素質こそあったものの、努力というものを一切嫌った。
家庭教師の授業を抜け出しては屋敷に宝石商を呼びつけ、屋敷を抜け出しては、裏街の奴隷商から見目の良い男奴隷を買っては自室に侍らせていた。
半年前、王室から「公爵家の双子のうち一人をカミル王太子殿下の婚約者とする」という沙汰が下った時も、ロゼッタは真っ先に拒絶した。
『王太子妃なんて堅苦しいお役目、真面目しか取り柄のないお姉様に押しつけてあげるわ。わたしは自由な恋愛がしたいの』
そう言ってロゼッタが逃げ回ったから、わたくしが貴族の義務として婚約をお受けしたはずだった。
それなのに今、わたくしは見知らぬ荒くれ者たちに両腕を押さえつけられ、礼拝堂の冷たい石床に膝をつかされている。
手首にはめられた黒鉄の『魔封じの枷』が冷たく食い込み、先ほどからいくら念じても魔力を練り上げることすらできない。
「どうして、こんなことをするの……? ロゼッタ、その男たちは誰なの?」
わたくしが問いかけると、ロゼッタは扇子で口元を隠しながら歩み寄ってきた。
「あら、紹介していなかったかしら。わたしがいつも可愛い男の子を仕入れている、馴染みの奴隷商よ」
「奴隷商……? わたくしに『母様の命日が近いから、二人きりで礼拝堂へ祈りに行きたい』と手紙をくれたではないの」
「ええ。だってそうでもしないと、警戒心の強いお姉様は護衛を連れずに来てくれないでしょう? 不意を突いて魔封じの枷をはめなければ、お姉様の魔術には勝てないもの」
ロゼッタはくすくすと笑い、わたくしの髪を掴んで顔を上げさせた。その瞳には、申し訳なさなど微塵も浮かんでいない。
「どういうつもりなの、ロゼッタ」
「簡単な話よ、お姉様。わたし、やっぱりカミル王太子殿下に嫁ぐことにしたの」
思いもよらない言葉に、わたくしは息を呑む。
「何を言っているの……。あなたは王太子妃教育を嫌がって、自分の意志で辞退したはずよ」
「あの時はほんとうにそう思ったのよ! でも昨日、お父様の部屋で聞いてしまったの」
ロゼッタの声が、苛立ちを含んで甲高く響く。
「お姉様が王家に嫁いだら、家に残ったわたしが跡取りを産むために、政略で婿を取らされるんですって! それも相手は、北の田舎領地のむさ苦しい三十路の男よ!」
「それは……公爵家を存続させるための、当主の娘としての責務でしょう」
「冗談じゃないわ! なんでわたしがそんな年寄りの子を産まなきゃいけないのよ!」
ロゼッタは床を踏み鳴らし、醜く顔を歪めて吐き捨てた。
「どのみち望まない結婚をさせられるなら、権力が一番強くて、顔も綺麗なカミル殿下に嫁ぐ方がいいに決まっているじゃない! 王太子妃になれば、国中の宝石もドレスも思いのままよ!」
あまりに身勝手な言い分に、わたくしは言葉を失う。
「……そんなこと、今さら許されるはずがないわ。王族との婚約は、国王陛下の御印をもってすでに公示されたのよ。いくら公爵家であっても取り下げなど不可能よ」
「ええ、そうね。お父様にもそう言われたわ。『一度決まった婚約は覆せない』って」
ロゼッタはそこでピタリと怒りを収め、気味の悪いほど甘い笑みを浮かべた。
「だから考えたのよ。婚約者が『セシリア』と決まっているなら、わたしが『セシリア』に成り代わればいいってね」
背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走った。
確かにわたくしとロゼッタは万人が見紛うほどに同じ容姿を持っているけれど――それでも、成り代わるなんて無茶なことだ。
「……正気なの? わたくしをどうする気なの」
「邪魔なお姉様には、このまま隣国の鉱山町へ消えてもらうわ。今日からわたしが公爵家の優秀な長女セシリアで、お姉様は『野盗に攫われて行方不明になった哀れな妹ロゼッタ』になるの」
「そんな嘘が通じると思っているの!? 来週には王宮での魔術実践の披露も、古語文書の進講もあるのよ!」
「うるさいわね! 顔も声もまったく同じなんだから、少しおすましして『わたくし』と言っておけば、カミル殿下もお父様も気づきっこないわよ!」
ロゼッタはわたくしの胸元から黄金の婚約ブローチを外し、自分のドレスの襟元へと付け替えた。
大きく開いたその胸元から、ロゼッタの鎖骨の下にある小さな黒子がちらりと覗く。
彼女はそのまま、荷馬車の檻を用意していた奴隷商の頭目に顎をしゃくった。
「手間賃は前払いした通りよ。この女を二度と王国の土を踏めない場所へ売り飛ばしてちょうだい」
「へえ、お嬢様のお望み通りに。これだけ別嬪なら、隣国の好事家が高く買いますぜ」
下卑た笑いを浮かべた男たちが、わたくしの両腕を掴んで引きずり起こす。
「やめて……! 目を覚まして、ロゼッタ!」
必死に叫んだわたくしの前で、ロゼッタがふと足を止めた。
「……ああ、そうだわ。万が一にも、同じ顔が二つあったら困るわよね」
ロゼッタが右手をかざす。その指先に、鍛錬不足で不安定に揺らめく赤黒い火炎魔力が集まっていく。
「ロゼッタ、まさか――」
「ごきげんよう、お姉様。せいぜい異国の泥の中で、わたしの代わりに男たちの玩具になって死んでちょうだい!」
ロゼッタが歪んだ笑みを浮かべ、わたくしの左頬へ至近距離から炎を叩きつけた。
「――っ、あああああっ!」
肉が焼ける激しい音とともに、脳髄を貫くような灼熱の激痛が走る。
衝撃でわたくしの髪から、亡き母の形見である銀細工の髪飾りが弾け飛び、炎に巻かれて石床の上で砕け散った。
左半分の視界が真っ赤に染まり、焦げた皮膚の匂いが鼻腔を突く。
「あははっ! ひどい顔! これなら誰もあんたを公爵令嬢だなんて思わないわね!」
ロゼッタの高笑いが遠ざかる中、わたくしは激痛に意識を刈り取られるようにして、暗い檻の底へと放り込まれた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
どれほどの日数が経ったのかも分からなかった。
揺れる荷馬車の檻の中で、わたくしは左頬の灼けるような痛みと高熱にうなされ続けていた。水もろくに与えられず、傷口は化膿して熱を持ち、唇はひび割れて声も出ない。
(わたくしは……ここで、誰にも知られずに死ぬのね……)
公爵家の長女として、ただ真面目に生きてきただけだった。
夜更けまで机に向かって古語を学び、血の滲むような鍛錬で白銀の灯火魔術を磨き、母の遺言と父の期待に応えようと必死に背筋を伸ばしてきた。そのすべてが、たった一人の妹の気まぐれで灰になったのだ。
やがて馬車が止まり、冷たい外気が流れ込んでくる。隣国であるグランツ帝国の国境検問所に差し掛かった時だった。
「――そこまでだ。荷馬車をすべて包囲しろ!」
鋭く澄んだ男の声が響き渡り、直後に激しい剣戟の音と奴隷商たちの悲鳴が上がった。
「な、なぜ騎士団がここに!? 話が違うぞ!」
「貴様らが王国側から違法に人間を買い集め、密入国させていることはすでに掴んでいる。全員捕縛しろ。一人も逃がすな」
重い軍靴の音が近づき、わたくしの入っていた檻の錠前が剣の一閃で砕かれる。
「……おい、この檻にも一人いるぞ。ひどい火傷だ、熱で息も浅い」
若い騎士が息を呑む気配がした。その時、騎士たちをかき分けて一人の男性が歩み出る。
漆黒の外套を羽織った長身の男性が、檻の前へ静かに膝をついた。
熱で霞む視界の向こうに、夜空を思わせる深い紺碧の瞳が映る。
「……むごいことをする。魔術による火傷だな。手首の魔封じの枷も外してやれ」
男性は険しく眉を寄せると、躊躇うことなく自らの清潔な外套を脱ぎ、泥と血にまみれたわたくしの肩を包み込んだ。
「閣下、お召し物が汚れます! 我々が運びますので――」
「構わん。下手に動かせば傷に障る。城館の治癒師に、すぐ治療の準備をさせろ」
力強く腕が、わたくしの軽い身体をそっと抱き上げた。
清潔な白檀の香りと確かな体温に包まれ、わたくしの意識は深い闇へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
次に目を開けた時、目に入ったのは白亜の天井と、陽光を透かす柔らかな窓掛けだった。
「……目が覚めたかい」
静かな声に顔を向けると、寝台の傍らに置かれた椅子に、あの紺碧の瞳をした男性が腰掛けている。
わたくしは反射的に跳ね起きようとして、自分の身体が清潔な絹の寝間着に包まれていることに気づいた。
左頬には、ひやりと心地よい包帯が巻かれている。あの脳を焼くような激痛が、嘘のように消えていた。
「まだ無理に起き上がらない方がいい。三日ほど高熱が続いていたんだ」
男性はゆっくりと立ち上がり、水差しから硝子の杯に水を注いで手元へ差し出してくださる。
わたくしが慌てて寝台から降りて床に膝をつこうとすると、その肩を大きな手が優しく押し留めた。
「怯えなくていい。私はアルベール・フォン・グランツ。グランツ帝国の国境を預かる大公だ。ここは私の城館で、君を閉じ込めていた奴隷商たちはすべて牢に入っている」
「グランツ大公、殿下……? あの、わたくしを、お買い上げになったのですか……?」
掠れた声で尋ねると、アルベール様は静かに首を横に振った。
「帝国では人身売買を禁じている。君は買われた奴隷ではなく、保護された客人だ」
わたくしはすぐには信じられず、包帯の巻かれた左頬へ手を当てて顔を伏せる。
「……お見苦しい顔を、お見せして申し訳ございません」
「謝る必要などどこにもない。治癒師に診せたところ、魔力が傷口に残っていたため、薄く痕は残るそうだ。だが、命に別状はない」
そこへ控えめなノックの音が響き、侍女が銀盆を載せたワゴンを押して入ってきた。
銀盆には、かぼちゃのポタージュと温かな麦のミルク粥、白桃のコンポートが並んでいた。
「まずは少しお腹に入れよう。まだ固いものは辛いだろうから、消化に良いミルク粥を作らせた」
アルベール様は侍女を下がらせると、自ら銀の匙を手に取り、温かいミルク粥を掬ってわたくしの口元へと運んでくださる。
「……っ、大公殿下、そのようなこと、わたくし自身で……」
「手が震えているよ。遠慮しなくていい、今はゆっくり味わってくれればそれでいいんだ」
その紺碧の瞳には、哀れみも侮蔑もなく、ただ穏やかな慈しみだけがあった。
わたくしが恐る恐る口を開けると、麦の優しい甘みと温もりが乾ききった喉へと染み渡る。胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が涙で滲んでいった。
「……あたた、かい……です」
「そうか。よかった」
アルベール様はわずかに目元を和らげ、わたくしが器を空にするまで、変わらぬ丁寧さで匙を運び続けてくださった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それから五日ほどが過ぎ、わたくしは部屋の中を歩けるまでに回復した。
救出された当初、わたくしは名前を尋ねられても答えることができなかった。ロゼッタに奪われたその名を口にすることが、どうしても怖かったのだ。
それでもアルベール様は無理に問い詰めることなく、「話せる時が来るまで構わない」と静かに見守ってくださった。
左頬の包帯が外されると、そこにはやはり、ロゼッタの魔力によって焼かれた薄紅色の傷痕が残っている。けれど、城館の侍女や治癒師たちは誰一人として不躾な視線を向けることもなく、わたくしを丁重に扱ってくれた。
だが、待遇が良ければ良いほど、わたくしの胸には強い焦燥感が募っていく。
(このまま、ただ養っていただくわけにはいかないわ……)
幼い頃から、わたくしは父に『公爵家の長女として価値を示せ』『役に立たない娘に居場所はない』と厳しく言い聞かされて育った。
今のわたくしには、公爵令嬢としての身分も、かつての顔もない。何かお役に立つことをしなければ、いつか「用済みだ」と見捨てられてしまう。
その恐怖に突き動かされ、わたくしはまだ少しふらつく足を引きずりながら、アルベール様の部屋を訪ねた。
「……手伝いを?」
机から顔を上げたアルベール様は、驚いたように眉を上げた。
「はい。お屋敷の清掃でも、書庫の整理でも構いません。どうか、わたくしにできるお仕事をくださいませ」
深々と頭を下げるわたくしを静かに見つめ、アルベール様は小さく息を吐く。
「君はまだ病み上がりだ。顔色も万全ではない。ここで働く必要などないから、今は庭を散歩するなり、本を読むなりして休んでいてくれ」
「ですが、ただお食事と寝床をいただくだけでは、わたくしがここにいる意味が――」
「私の城館に客人として滞在するのに、意味や対価など求めないよ。さあ、部屋へ戻って休むといい」
穏やかだが決然とした声で断られ、わたくしはそれ以上食い下がることができずに退室した。
けれど、廊下に出たわたくしの心臓は、不安で早鐘を打っていた。
(お役に立てなければ、きっとすぐに追い出されてしまう……!)
わたくしは震える指先を握りしめ、ちょうど古書と壊れた魔導灯を抱えて廊下を通りかかった大公付の次官――グレン様を呼び止めた。
「あの、グレン様! お願いがございます」
「やあ、これは客人殿。いかがされましたかな?」
「大公殿下には休むよう仰せつかったのですが、どうしても手持ち無沙汰で落ち着かないのです。もしよろしければ、書庫の古書の書き写しでも、差し障りのない雑務でも、わたくしに手伝わせていただけないでしょうか」
必死に懇願するわたくしを見て、温厚なグレン様は困ったように頬を掻く。
「しかし、殿下に知られたら私が叱られてしまいますよ」
「そこをどうかお願いいたします。帝国公用語は分かりますし――古語の読み書きと、基礎的な魔導陣の点検には多少の心得がございます。じっとしている方が、かえって心が休まらないのです」
わたくしが何度も頭を下げると、グレン様は根負けしたように苦笑した。
「……そこまでおっしゃるなら、ほんの少しだけですよ。ちょうど書庫で見つかった古い王国の古語詩の写しと、中庭で動かなくなった魔導灯の術式板がございます。無理はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます!」
わたくしは古語詩の羊皮紙と魔導灯の術式板を両手で受け取り、自室の机へと持ち帰ってすぐさま作業に取りかかった。
魔導灯の術式板は、内部の魔力回路がわずかに歪んで魔力が滞っているだけだった。
ただ、病み上がりの身体で精密な魔力を通す作業は思いのほか堪えた。夜が更けるにつれ、額に冷や汗が滲み、指先が小刻みに震え始める。それでもわたくしは、止まることを自分に許せなかった。
(もっと正確に、もっと完璧に仕上げなければ……! 『これだけ使えるなら置いてやろう』と思っていただけなければ、わたくしにはもう行く場所がないのだから……!)
ランプの灯りの下で、魔導灯の術式板に白銀の魔力を流し込んで回路を繋ぎ直し、続けて古語詩の書き写しを進めていたその時、部屋の扉がノックもそこそこに開かれた。
「――何をしている」
低く抑えた声とともに室内へ入ってきたのは、アルベール様と、青ざめた顔のグレン様だった。
わたくしは弾かれたように立ち上がり、机の上を庇うようにして深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません、大公殿下! グレン様が悪いのではございません、わたくしが無理にお願いして……」
アルベール様は無言のまま机へ歩み寄り、ふと足を止めた。
その視線の先で、修理を終えた魔導灯の術式板が、一点の揺らぎもない清らかな白銀の光を放っている。
「……この白銀の光は」
アルベール様が低く呟き、後ろから覗き込んだグレン様も息を呑んだ。
「なっ……!? 術式板の歪みが直っているどころか、これほど澄んだ魔力の波長、並の魔導師では到底出せませんよ……!」
「ああ。それに、この魔力の残滓には見覚えがある」
アルベール様は術式板に浮かぶ微かな魔力の紋様を見つめ、静かに言葉を継いだ。
「『魔導痕跡』といって、術式に残された魔力の残滓から術者の系統を特定する特殊技能がある。個人レベルで特定できる専門の解析官ほどの精度ではないが、国境を預かる立場として、隣国の有力貴族の波長くらいは私も頭に入っているんだ」
アルベール様はゆっくりと視線を上げ、震えているわたくしを真っ直ぐに見つめた。
「数日前、王国から公式な通達があった。『ヴァーミリオン公爵家の双子の妹・ロゼッタ嬢が野盗に攫われて行方不明になった』と」
わたくしの呼吸が止まる。
「この白銀の魔力の残滓は、ヴァーミリオン公爵家のものだ。とすると、君がかの家の令嬢なのだと察するが――これほど緻密な魔力制御といい、今の働きぶりといい、君はどうにも噂に聞く妹君とは違うように思える」
静かで真っ直ぐな瞳に見つめられ、わたくしは唇を噛みしめた。
「……何があったのか、話してくれるか」
誠実な問いかけに、わたくしは堪えきれず、礼拝堂で双子の妹ロゼッタに成り代わられ、母の形見も砕かれて顔を焼かれ、奴隷商に引き渡された経緯を打ち明けた。
すべてを聞き終えた瞬間、アルベール様が机の端を強く握りしめた。ミシリ、と硬い木が軋む音がする。
「……ふざけるな」
これまで常に穏やかだったアルベール様の口から、低く押し殺した怒りの声が漏れた。
「実の妹が……家族が、そんなくだらない欲のために君の顔を焼き、母上の形見まで砕いて売り飛ばしただと……?」
紺碧の瞳が激しい怒りに揺れ、わたくしが思わず肩をすくめると、アルベール様はハッと我に返ったように息を吐いた。
「……すまない。君を怖がらせるつもりはなかったんだ」
わたくしは首を横に振り、机の上のまだ終わっていない羊皮紙に視線を落とす。
「仮にわたくしがセシリアであったとしても、もう王国には戻れません。今のわたくしには、ただの傷物の娘としての価値しかございません。ですから、どうかこうして雑務でお役に立たせてください。今夜中に残りの分もすべて仕上げますから……!」
再び羽根ペンを握り直そうとしたわたくしの手を、アルベール様の温かな手がそっと包み込んだ。そして、わたくしの指先から羽根ペンを優しく抜き取り、机の上に置く。
「セシリア嬢。……いや、セシリアと呼ばせてもらってもいいだろうか」
アルベール様はわたくしの目線に合わせて片膝をつき、インクで汚れたわたくしの冷たい両手を大きな掌で包んだ。
「なぜ、そこまで自分を追い詰めるんだ。君の手はこんなに冷たくて、震えているじゃないか」
「だって……わたくしは、優秀でなければ……誰かの役に立たなければ、ここに置いていただく価値がないと……」
「そんなはずがないだろう」
アルベール様の声は、夜の静寂に溶けるほど優しく、それでいて揺るぎなかった。
「ここでは、誰かの役に立つために自分をすり減らす必要はない。貴族の義務も、公爵家の看板も関係ないんだ」
紺碧の瞳が、わたくしの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「明日、この古語詩が一枚も進んでいなくても、君の部屋も食事もなくならない。今夜は、それだけ信じて休んでくれ」
その言葉を聞いた瞬間、わたくしの胸の奥で、幼い頃からずっと張り詰めていた硬い糸がふっと緩んだ。
「……本当に、途中でも……よろしいのですか?」
「ああ、約束する。君は何も心配しなくていい」
わたくしは机の上に残された、書きかけの羊皮紙を見つめた。これまでの人生で、課題を途中で手放して眠ったことなど一度もない。
けれど、アルベール様の穏やかな掌の温もりに導かれるまま、わたくしは生まれて初めて、仕事を途中でやめて寝台へと向かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌朝、目を覚ましたわたくしを待っていたのは、焼きたての柔らかい白パンと黄金色の蜂蜜、温かい紅茶、そして侍女たちの変わらない笑顔だった。
本当に、部屋も食事もなくなっていなかった。その事実が、どれほどわたくしの心を救ったか分からない。
それからの日々、わたくしは言われた通りに中庭の東屋で静養しながら、アルベール様が書庫から貸してくださった本を読んで過ごすようになった。
ある晴れた昼下がりのことだ。帝国の古い旅行記のページをめくっていると、その間に細い革の栞が三本挟まっていることに気づいた。そこへちょうど、巡察を終えたアルベール様が東屋へと歩み寄ってくる。
「体調はどうだい、セシリア。その本は退屈ではなかったか?」
「いいえ、とても楽しく拝読しております。……あの、アルベール様」
わたくしは栞が挟まれたページを開き、美しい挿絵で描かれた湖と、その下に記された題字を指さした。
「この『北の鏡湖』へ、行かれたことがおありなのですか?」
アルベール様は少しだけ驚いたように目を見張り、それから照れたように口元を緩める。
「いや。いつか行こうと思って、印だけつけてある」
「三か所も?」
「ああ。国境警備の任務に就いてからはなかなか遠出ができなくてね。行きたい場所が増える一方なんだ」
三日後、再びアルベール様が中庭を訪れた時だった。
わたくしは書庫の植物図鑑から書き写しておいた一枚の紙を、そっと差し出す。
「これは?」
「先日おっしゃっていた北の鏡湖について、書庫の本で調べてみたのです。あちらの湖畔では、秋になると水面と同じ銀青色の小さな花が咲くそうですわ。夕暮れ時には、空と湖の境目がなくなるほど美しいと記されておりました」
アルベール様は紙面に目を落とし、それからハッとしたように顔を上げてわたくしを見た。
「……ありがとう、セシリア。私がただ印をつけて眺めていただけの場所が、君の話を聞いたら、今すぐにでも見に行きたくなったよ」
そう言って微笑んだアルベール様の表情は、初めて出会った時よりもずっと柔らかかった。
やがて夕暮れの鐘が鳴り、アルベール様が任務へ戻るために立ち上がる。その背中に向かって、わたくしは思わず声をかけていた。
「あの……明日も、こちらへいらっしゃいますか」
アルベール様が振り返り、優しく首を傾げる。
「何か必要なものが?」
わたくしは首を横に振り、胸の奥の温かな鼓動を感じながら微笑んだ。
「いいえ。今日のお話の続きを、聞きたいのです」
一瞬、アルベール様は息を呑んだように言葉を失い、やがてその紺碧の瞳に深い歓びの光を灯した。
「……ああ。必ず来るよ。明日も、その次の日も、君が飽きるまで話をしよう」
遠ざかる背中を見送りながら、わたくしは胸元で旅行記をそっと抱きしめる。
明日は何をお話ししよう。
わたくしは旅行記を開き、まだ尋ねていない二本目の栞に指をかけた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
そうして城館で穏やかな時間を重ね、救出されてから三週間ほどが経った頃だった。
執務室へ招かれたわたくしの前で、アルベール様は金糸の紋章が入った一通の招待状を机の上に置いた。
「牢の奴隷商たちがすべてを自白し、君の妹――ロゼッタ嬢との取引記録も押さえた。王国の国王陛下へは、私の名で極秘裏に親書と自白調書を送ってある」
アルベール様はそこで一度言葉を切り、わたくしの顔を気遣わしげに見つめた。
「来週、王都で開かれる建国記念祭に、私宛ての招待状が届いている。……セシリア、もし君が二度とあの国の土を踏みたくないというなら、私一人で赴いて決着をつけてくる。君が無理をして、自分を傷つけた者たちの前に立つ必要はないんだ」
どこまでもわたくしを優先してくれるその言葉に、胸が温かく震えた。
少し前までのわたくしなら、恐怖にすくんで首を横に振っていたかもしれない。けれど今のわたくしには、この城館でいただいた温もりと、守りたい誇りがあった。
「……いいえ、アルベール様。わたくしも、ご一緒させてください」
「セシリア……いいのか?」
わたくしは背筋を伸ばし、アルベール様の紺碧の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「はい。わたくしはもう、誰かに利用されるための人形ではございません。それに、亡き母が遺してくれた誇りと、『セシリア』という名前だけは、妹に奪われたままにしたくないのです」
わたくしは左頬の薄い傷痕にそっと指を添え、静かに微笑んだ。
「それに……これから先、アルベール様の隣で胸を張って生きていくためにも、過去の鎖はわたくし自身の足で断ち切りたいのです」
わたくしの言葉を聞いたアルベール様は、しばらく眩しそうに目を細め、やがて深く頷いた。
「……分かった。君の覚悟、確かに受け取ったよ。ならば当日は、私の隣に立つ女性として、誰よりも誇り高い装いで迎えに行こう」
その言葉通り、出発の前日にわたくしの部屋へ届けられたのは、あの『北の鏡湖』に咲く花と同じ、澄み切った銀青色のドレスだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――セシリア、お前、この外交文書の要約はどうなっているのだ?」
王宮の控えの間で、俺――王太子カミルは、白紙のまま放置された羊皮紙を見て深く眉をひそめた。
正直に言えば、以前のセシリアは、俺にとって「優秀だが面白みのない婚約者」に過ぎなかった。
公爵家の長女として礼法も実務も完璧にこなすが、いつ見ても背筋を伸ばして控えめに微笑むばかりで、男心をくすぐるような華やかさがない。こちらがどれほど急な課題を押しつけても、「承知いたしました」と翌朝までに仕上げてくるから、それが当たり前だと思っていたのだ。
だからこそ、一ヶ月前に双子の妹・ロゼッタが野盗に攫われるという事件が起き、その直後からセシリアが別人のように甘えてくるようになった時も、最初のうちは悪くないと思っていた。
しかし、公務に復帰してからの彼女は、さすがに様子がおかしすぎた。
「え、ええと……カミル殿下、その古語は文字が細かすぎて、まだ目がチカチカしてしまいますの。やはりロゼッタがいなくなった悲しみで、頭が働かなくて……」
目の前のセシリアは胸元の大きく開いた深紅のドレスを着飾り、強い香水を振りまいて俺の腕に絡みついてくる。その左の鎖骨の下に、以前は見た覚えのない小さな黒子があることに俺は違和感を覚えた。
違和感はそれだけではなかった。
「殿下、セシリア様の魔術実践の結果が届いておりますが……」
側近の騎士が困惑した顔で差し出した報告には、信じがたい事実が記されていた。
かつて王立学園を首席で卒業し、揺らぎのない『白銀の灯火』を操ることで知られていたはずのセシリアが、初歩的な灯火魔術の制御に失敗し、赤黒い炎を暴発させて訓練場の絨毯を黒焦げにしたというのだ。
確かに、戦争などで心に深い傷を負った者が、正確に魔術を使えなくなるという話は聞いたことがあるが――それでも、セシリアの変化には違和感を感じずにいられなかった。
「セシリア、お前、魔術の鍛錬はどうしたのだ。それに、近衛の若い騎士たちに不躾な視線を送っているという苦情まで上がっている!」
「やだ、殿下ったら細かいことばかりおっしゃるんですから! 少しぐらい息抜きをしたっていいじゃありませんか!」
セシリアが頬を膨らませて足を踏み鳴らした瞬間、控えの間の扉が荒々しく開かれた。入ってきたのは、血の気を失い、蒼白な顔をしたヴァーミリオン公爵だった。
「お父様、どうなさったの? そんなに怖い顔をして」
公爵は無言で歩み寄ると、懐から数枚の羊皮紙と、焼け焦げた銀細工の髪飾りの破片を取り出し、机の上に叩きつけた。
「……先月、帝国国境で摘発された奴隷商一味の取引先が判明し、昨日、王国の治安騎士団によって王都の隠れ家が捜索された。そこから押収された証拠品を、私が内密に引き取ってきたものだ」
公爵の声が、怒りと恐怖で激しく震えている。
「そこには、我が家の『ロゼッタ』が男奴隷を買い漁っていた売買記録とともに、一ヶ月前、双子の姉を隣国へ売り飛ばすための前払い金の証文が残されていた……! そして郊外の礼拝堂からは、ロゼッタの未熟な火炎魔力の痕跡と、亡き妻がセシリアに遺した銀細工の髪飾りの焼け焦げた破片が見つかった!」
俺は息を呑み、目の前の女を見た。女は一瞬にして顔から血の気を失い、後ずさる。
「……貴様、まさか」
「ち、違うわ! わたしはセシリアよ!」
「嘘をつけ! セシリアの左の鎖骨の下には、そのような黒子などない! なぜ今まで気づけなかったか……貴様、セシリアではなくロゼッタだな!?」
公爵が怒鳴りつけると、ロゼッタは一転して開き直り、金切り声を上げた。
「そ、そうよ! わたしがロゼッタよ! だって、お姉様だけカミル殿下に嫁いで、わたしが北の田舎の年寄りを婿に取るなんて不公平じゃない! だから奴隷商に頼んで、お姉様の顔を焼いて隣国へ売ってやったのよ!」
「なっ……!? 貴様、自分の姉に何ということを……!」
あまりの凶行に、俺はめまいを覚えた。だが、ロゼッタは悪びれる様子もなく、不敵に唇を歪めて俺と公爵を指さす。
「でも、今さらどうするの!? そのことを公表してみる? 『本物の婚約者は奴隷商に売られ、一ヶ月もの間、王太子も実の父親も偽物だと気づかずに可愛がっていた』なんて知られたら、公爵家はスキャンダルでグズグズに、カミル殿下だって国中の笑い者になって廃嫡されるに違いないわ!」
俺と公爵は、雷に打たれたように凍りついた。
――一理ある。
すでに俺は、この一ヶ月間、ロゼッタを「セシリア」として幾度もの公式行事に同伴させてしまっている。もしここで「実は妹の成り代わりでした」などと発表すれば、王家の権威は地に堕ちるだろう。
何より、一介の令嬢の陰謀にすら気づけなかった無能な王太子として、俺の立場は完全に終わる。
「……殿下、いかがいたしましょう。今からでも極秘に帝国へ捜索隊を――」
「待て、公爵!」
俺は冷や汗を拭い、必死に頭を回転させた。
「本物のセシリアは顔を焼かれて奴隷商に売られたのだろう? ならば今さら見つけ出したところで、傷物の顔では王太子妃として表舞台に立たせることはできん。ましてや、二人の娘が揃えば入れ替わりの事実が露見する!」
「し、しかし、ではどうなさるおつもりですか!?」
「……隠すしかない。この事実は、我々三人の胸のうちに墓場まで葬り去るのだ」
俺は震える拳を握りしめ、次代の王としての威厳を保つために低い声で命じた。
「セシリアの捜索はただちに打ち切れ。そしてロゼッタ、貴様は今日から死ぬまで『セシリア』を演じ続けろ! 王家の体面を守るため、婚約は維持し、婚礼は予定どおり執り行う!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
だが、その決断からの一週間は、まさに地獄だった。
「えーっ、こんな分厚い典礼の教本なんて覚えられないわよ! カミル殿下が代わりにやってちょうだい!」
建国記念祭を目前に控えた打ち合わせでも、ロゼッタは平然と教本を投げ出した。
「いい加減にしろ、ロゼッタ! 建国記念祭までに、古語の祝辞の暗記を済ませなければ、周囲に怪しまれるのだぞ!」
「だって無理なものは無理だもの! わたしを叱るなら、夜会の大広間で『実はわたし、妹のロゼッタなの』って叫んでやるわよ!」
弱みを握られている俺と公爵は、ロゼッタを強く叱責することすらできない。
しかも、控え室の外へ出た瞬間、書類を受け取った事務官が冷ややかな目で俺を見た。
「……殿下。差し出がましいようですが、最近のセシリア様がお出しになる書類は、以前とは筆跡も文面もまるで別人のように荒れております。宮廷の文官たちの間でも、妙な噂が立ち始めておりますぞ」
「う、うるさい! セシリアはまだ体調が万全ではないだけだ!」
俺は声を荒らげて誤魔化したが、側近は深く息を吐いて去っていった。
あの本物のセシリアが、どれほど膨大な実務と調整を一人で黙々とこなしていたのか。
俺と公爵は毎晩徹夜でその穴埋めに追われ、目の下に濃い隈を作って建国記念祭の当日を迎えた。
王宮の大広間には国王陛下をはじめ、国内外の有力貴族が顔を揃えている。俺の隣には、王宮の予算を勝手に使い込んで仕立てさせた豪奢なドレスをまとい、「公爵令嬢セシリア」として得意げに微笑むロゼッタが立っていた。
ただ、玉座に座る父――国王陛下の表情が、今朝から妙に険しいことだけが気にかかっていた。
(今日さえ乗り切ればいい。本物のセシリアさえ永遠に戻らなければ、この秘密は誰にも暴かれないのだ)
俺が自分にそう言い聞かせた、まさにその時だった。
「――グランツ帝国皇弟、アルベール・フォン・グランツ大公殿下、ならびに大公家のご同伴者様のご入場です!」
儀典官の声が響き、大広間の扉が重々しく開かれる。
漆黒の礼装をまとったアルベール大公の隣に、淡い銀青色のドレスに身を包んだ一人の女性が並んで歩いてきた。その顔を見た瞬間、大広間全体が水を打ったように静まり返る。
「なっ……!?」
俺の隣で、ロゼッタが扇子を取り落とした。アルベール大公に手を引かれていた女性は、ロゼッタと寸分違わぬ顔立ちをしていたのだ。ただ一つ、左頬に残る薄紅色の火傷の痕を除いては。
会場の貴族たちが騒然とする中、玉座の国王陛下は驚くことなく、重苦しい声で口を開いた。
「……やはり、大公殿下の親書にあった通りであったか」
「ち、父上……? どういうことでございますか!?」
俺が狼狽して問いかけると、国王陛下は氷のような目で俺と公爵を見下ろした。
「一週間前、大公より親書と自白調書が届いた。私はあえて貴様らには知らせず、騎士団に命じて内偵を続けさせた。……まさか、真実を知った後でさえ、体面のために罪を隠そうとするとはな」
俺と公爵の顔から、一気に血の気が引いた。
アルベール大公が陛下の前で優雅に一礼し、よく通る声で告げる。
「本日私が伴ったのは、先月、帝国国境にて奴隷商の檻から救い出した貴国の公爵令嬢――本物の『セシリア・ヴァーミリオン』嬢です」
会場中から、どよめきと悲鳴のようなざわめきが上がった。
「う、嘘よ! わたしがセシリアよ!」
ロゼッタが顔を真っ赤にして叫び、セシリアを指さす。
「そいつは野盗に攫われて頭がおかしくなった妹のロゼッタよ! だって、その醜い火傷の顔を見てよ! そんな傷物が誇り高い王太子殿下の婚約者であるはずがないでしょう!? 証拠でもあるっていうの!?」
すると、アルベール大公の隣に立つセシリアが、静かに一歩前へと進み出た。
「お久しぶりですわね、ロゼッタ。あなたが付けたこの左頬の火傷の痛み、一日たりとも忘れたことはございません」
――まずい。
そう考えた時には、全てが遅かった。
セシリアは真っ直ぐにロゼッタを見据え、澄み渡った声で提案した。
「証拠をお望みでしたら、今この場で、二人同時に『灯火魔術』を灯してみせましょう。ヴァーミリオン公爵家の長女セシリアが修めた『白銀の灯火』は、王宮の皆様もよくご存じのはずですわ」
周囲の貴族たちから「そうだ、セシリア嬢の白銀の灯火なら一目で分かる!」と賛同の声が上がる。
「くっ……! いいわよ、そのくらいの魔術、わたしにだって出せるわ!」
追い詰められたロゼッタが右手をかざし、ありったけの魔力を練り上げた。だが、その指先に噴き出したのは、白銀とは似ても似つかぬ不安定な赤黒い炎だった。制御を失った炎が暴発し、近くの円卓の布を黒焦げにして黒煙を上げる。
「きゃあっ!?」
さらに宮廷魔導師長が前へと進み出た。
「陛下。今の魔力は、先ほど診察したセシリア嬢の傷に残る魔力痕と一致いたします」
続けて、セシリアが静かに右手を掲げた。
その指先に、一点の揺らぎもない清らかな『白銀の灯火』がふわりと浮かび上がる。温かい白銀の光は大広間の天井の魔導灯と美しく共鳴し、会場全体を幻想的な輝きで満たした。
その圧倒的な魔力制御を前に、誰が本物のセシリアであるか、もはや疑う者は一人もいなかった。
玉座の国王陛下が、怒りに全身を震わせて立ち上がった。
「騎士団からは、公爵が証拠を持ち帰った後、捜索中止の命が下ったと報告を受けている。カミル、その命令には貴様の署名があるな」
「ち、父上、これはその、王家の威信を思えばこそで……」
「黙れ、この愚か者めが! 目の前の女が妹のロゼッタであると気づいていながら、体面のために本物のセシリア嬢を見捨て、犯罪者の妹と結託して隠蔽を図るなど、王族の風上にも置けん!」
絶体絶命の状況に、ロゼッタが半狂乱になって俺の腕にしがみついてきた。
「カ、カミル殿下! わたしを守ってよ! わたしが『セシリア』として王太子妃になるって約束したじゃない!」
「離れろ、この疫病神が! すべて貴様が姉を売ったせいだろうが!」
俺がロゼッタを突き飛ばすと、ロゼッタは派手に床へと転がり、ドレスの裾を乱して泣き喚いた。
「いやよ! わたしはセシリアよ! 公爵令嬢なのよ! こんな傷物の姉なんかに負けるはずがないわ!」
だが、周囲の貴族たちから向けられたのは、氷のように冷たい軽蔑の視線だけだった。
「衛兵! そのロゼッタなる罪人をただちに引っ立てよ!」
国王陛下の怒号が響き渡り、近衛兵たちがロゼッタの両腕を乱暴に拘束する。
「いやあああっ! 離して! わたしが王太子妃になるのよ! お姉様、助けてよ!」
ロゼッタは胸元から黄金の婚約ブローチを取り上げられ、『セシリア』の名も、王太子妃となる望みも、公爵令嬢としての身分もすべて失って、泣き叫びながら引きずり出されていった。
「カミル! 貴様は本日をもって王太子の位を剥奪し、離宮にて無期限の謹慎を命ずる! ヴァーミリオン公爵も領地半減の上、ただちに隠居せよ! 公爵家の後継はこちらで指定する!」
「ち、父上……! そんな……!」
俺は膝から崩れ落ち、公爵とともに衛兵に囲まれて冷たい床へと額を擦りつけた。
国王陛下はセシリアの前へと歩み寄り、深々と頭を下げた。
「セシリア嬢。我が息子の不徳と公爵家の大罪、弁解の余地もない。王命をもって、貴女とカミルとの婚約はただちに白紙・解消とし、貴女には王国より最大限の賠償と自由を保証する」
国王陛下の手によって、婚約証書の御印がその場で砕かれた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
御印が砕け散る音を聞きながら、わたくし――セシリアは静かに息を吐いた。
すると、床に膝をついていたカミル殿下と父が、すがりつくような目でわたくしを見上げた。
「ま、待ってくれ、セシリア……! 俺が悪かった! お前がどれほど俺を支えてくれていたか、この一週間で痛いほど分かったのだ! 顔の傷など気にしない、もう一度やり直そう……!」
「セシリア、お前は我が公爵家の長女であろう! 私の娘なら、陛下に減刑を嘆願してくれ……!」
あまりに身勝手な言葉に、わたくしが口を開くよりも早く、アルベール様がわたくしの肩をそっと抱き寄せ、二人の視線から庇うように前に立った。
「――それ以上、彼女に気安く声をかけるな」
冷たく威圧的な声に、カミル殿下と父が喉を鳴らして怯む。
わたくしはアルベール様の隣へ進み出て、二人を見据えた。
「お断りいたします、お父様、カミル殿下。『役に立たない者に居場所はない』とわたくしに教えてくださったのは、お父様ご自身ですわ。そして、わたくしが生きているかもしれないと知りながら、捜索を打ち切らせたのは、お二人なのでしょう」
胸の奥には、もう悲しみも怒りも残っていなかった。
「わたくしにとって、あなた方はもう、何の関わりもない他人でございます。……ごきげんよう」
わたくしが淑女の礼をすると、アルベール様は国王陛下と諸侯へ向かって高らかに告げた。
「お聞きの通りです。晴れて自由の身となられたセシリア嬢は、これより我がグランツ大公家が責任をもって帝国へお迎えいたします」
静まり返った大広間で、誰も言葉を返せないまま貴族たちが静かに道を開ける中、わたくしはアルベール様にエスコートされ、一度も背後を振り返ることなく会場を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
王都を離れた帰路の馬車は、国境に近い街道をゆっくりと進んでいた。
「――セシリア。城館へ戻る前に、少し寄り道をしていこうか」
向かいの席で、アルベール様が優しく目元を和らげる。
「寄り道、ですか?」
「ああ。君が調べてくれた、あの銀青色の花が咲く北の鏡湖だよ。あの日の話の続きを、今度は湖畔でしよう」
馬車が森を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには、夕暮れの空をそのまま映し出したような広大な湖が広がっていた。書庫の本で読んだ通り、夕陽に照らされた湖畔には、水面と同じ銀青色の小さな花が絨毯のように咲き誇っている。
「まあ……なんて美しいのでしょう……!」
馬車を降りたわたくしが思わず歓声を上げると、隣に並んだアルベール様が微笑んだ。
「本当だな。本で眺めていた景色を、君と一緒に見られるとは思わなかった」
アルベール様はそこで足を止め、懐から小さなビロードの箱を取り出した。
「セシリア。これを君に」
開かれた箱の中に収められていたのは、繊細な白銀の細工に、この湖と同じ銀青色の宝石があしらわれた髪飾りだった。
「これ……わたくしに、ですか?」
「君が母上から受け継いだ品に代わるものにはならないかもしれない。だが、過去を断ち切ったこれからの君の髪を飾る品を、私自身の手で贈りたかったんだ」
アルベール様が近づき、わたくしの髪へそっと髪飾りを留めてくださる。
そしてそのまま、銀青色の花が揺れる湖畔でわたくしの前に片膝をつき、わたくしの手を取った。
「もう怖がらなくていい、セシリア。私が君の居場所になる。……我がグランツ大公家の唯一の伴侶として、私と結婚してくれるか」
夕暮れの光を映す紺碧の瞳が、ただわたくし一人を真っ直ぐに見つめている。
わたくしは溢れそうになる涙を堪え、今度こそ何の迷いもなく微笑み返した。
「はい、アルベール様。わたくしのすべてを、あなたとともに」
わたくしの返事を聞いたアルベール様は、嬉しそうに目を細めて立ち上がると、わたくしの左頬に残る傷痕へ、宝物に触れるかのように優しく唇を寄せた。
ひやりと澄んだ湖畔の風の中で、頬に触れた唇の温もりだけが、甘い熱となって胸の奥まで広がっていく。
「……ありがとう、セシリア。君がここに来てくれて、本当によかった」
穏やかに微笑むアルベール様を見上げ、わたくしは留めていただいたばかりの髪飾りにそっと指先を触れさせた。
「わたくしの方こそ、ありがとうございます。……ですがアルベール様、これで終わりではございませんわ」
「ん?」
首を傾げたアルベール様に、わたくしは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「あの旅行記には、まだ二本目の栞が残っておりますもの。……次は、どこへ連れていってくださいますか?」
アルベール様は一瞬だけ目を丸くし、それから声を立てて幸せそうに笑った。
「そうだな。城館へ戻ったら、さっそく二人で計画を立てようか」
重ねた掌の温もりを確かめ合いながら、わたくしたちは夕暮れの湖畔を並んで歩き出した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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