エピローグ:そして、僕の物語が始まる
あの復讐劇から、七年の歳月が流れた。
僕は、大学院で情報科学の博士課程を修了し、今は外資系のIT企業でセキュリティ関連の研究開発に携わっている。仕事は刺激的で、尊敬できる上司や気の置けない同僚にも恵まれ、多忙ながらも充実した日々を送っていた。高校時代に培った(というには、あまりにも歪んでいたが)スキルは、今や世界中の人々の情報を守るための盾となっている。皮肉なものだ。
かつて僕の隣にあった家は、数年前に売りに出され、今では僕の知らない家族が暮らしている。日向家のその後については、詳しく知ろうとは思わなかったが、風の噂で、一家で遠い田舎町へ引っ越していったと聞いた。
日向朱音。
伊集院征四郎。
それらの名前を、僕が思い出すことはもうほとんどない。彼らは僕の人生という物語において、序章で退場した登場人物に過ぎない。彼らの末路がどうなったかなど、興味もなかった。僕の復讐は、彼らを社会的に抹殺したあの日に、完全に終わっているのだから。
「蓮さん、お疲れ様です。次の会議、第一カンファレンスルームですよ」
「ああ、ありがとう、水瀬さん」
声をかけてくれたのは、後輩の女性社員、水瀬さんだ。彼女はいつも明るく、真面目で、少しおっちょこちょいなところもあるが、仕事に対する情熱は人一倍強い。そのひたむきな姿を見ていると、時々、胸の奥が温かくなるのを感じる。
会議を終え、オフィスに戻る途中、僕は水瀬さんと二人きりになった。
「今日のプレゼン、素晴らしかったです。蓮さんの説明は、本当に分かりやすくて……」
「そんなことないよ。水瀬さんのサポートがあったからだ」
「いえ、そんな……! でも、そう言っていただけると嬉しいです」
はにかむように笑う彼女の表情に、僕はふと、見慣れない感情が自分の中に芽生えていることに気づく。それは、かつて朱音に対して抱いていた、燃えるような独占欲や依存心とは全く違う、穏やかで、澄み切った感情だった。
この人と、もっと一緒にいたい。
この人の笑顔を、もっと見ていたい。
そんな、自然で、温かい想い。
「水瀬さん、もしよかったら、今度の週末……食事でもどうかな」
自分でも驚くほど、その言葉はすんなりと口から出ていた。僕の誘いに、水瀬さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐにその頬をぱっと朱に染めた。
「……はい! ぜひ!」
花が咲くような彼女の笑顔を見て、僕は心の底から「嬉しい」と思った。僕の凍てついていた心は、いつの間にか、ゆっくりと溶け始めていたらしい。
その週末、僕たちは初めて二人きりで食事に行った。仕事の話、趣味の話、学生時代の話。他愛のない会話を重ねるうちに、僕たちは自然と惹かれ合っていった。
彼女と過ごす時間は、心地よかった。無理に自分を飾る必要もなく、かといって退屈することもない。穏やかな川の流れのように、時間は静かに、そして確かに流れていった。
数回目のデートの後、夜の公園のベンチで、僕は彼女に全てを話した。僕が高校時代に何をしたのか。なぜ、あんなにも冷徹な復讐に手を染めたのか。僕の過去は、あまりにも醜く、歪んでいる。それを知れば、彼女は僕を軽蔑し、離れていくだろう。そう覚悟していた。
「……最低な話だよな。僕は、自分のエゴのために、二人を社会的に殺したんだ」
すべてを話し終えた僕は、彼女の顔を見ることができず、俯いたままそう呟いた。隣に座る彼女の沈黙が、ナイフのように僕の心を抉る。
やがて、水瀬さんは静かに口を開いた。
「……辛かったんですね、蓮さん」
予想外の言葉に、僕は顔を上げた。彼女は、軽蔑するでもなく、怯えるでもなく、ただ、悲しそうな瞳で僕を見つめていた。
「もし私が蓮さんの立場だったら……同じことができたかは分からないけど、その気持ちは、痛いほど分かります。信じていた人に裏切られて、世界が全部敵に見えて……。蓮さんは、たった一人で、その絶望と戦っていたんですね」
彼女の指が、そっと僕の手に触れる。その温かさが、僕の心の奥深くに残っていた氷の欠片を、完全に溶かしていくのが分かった。
「過去は変えられないです。でも、これからの未来は、蓮さん一人のものじゃない。もし、よかったら……私も、一緒に歩かせてもらえませんか?」
気づけば、僕の頬を涙が伝っていた。あの復讐劇以来、一度も流したことのなかった涙だった。それは、悲しみでも怒りでもない。ただ、救われたことへの、感謝の涙だった。
僕は、彼女の手を強く握り返した。
「……ありがとう」
それからさらに数年が経ち、僕は水瀬さん――美緒と結婚した。今は、都心の少し広いマンションで、二人で暮らしている。
休日の朝、リビングでコーヒーを淹れていると、後ろから優しい温もりが僕の背中を包んだ。
「蓮、おはよう。いい匂い」
「おはよう、美緒。もう起きたのか」
振り返ると、僕の妻が、世界で一番愛おしい笑顔を浮かべてそこにいた。僕は彼女をそっと抱きしめ、その額にキスを落とす。
かつて僕の世界は、日向朱音という一人の少女を中心に回っていた。その世界は脆く、彼女の裏切りと共にいとも簡単に崩壊した。僕はその瓦礫の中で、憎しみを糧に生きる復讐者になった。
だが、今は違う。
僕の世界は、僕と、僕の隣で笑ってくれるこの人を中心に、ゆっくりと、しかし確実に広がっている。それは、誰かに依存する脆い世界ではない。互いに支え合い、尊重し合うことで築き上げた、強くて温かい世界だ。
窓の外では、新しい一日が始まろうとしている。
僕の物語は、復讐を終えたあの日に終わったのではない。過去を乗り越え、新しい愛を見つけた今、本当の意味で始まったのだ。
もう、過去を振り返ることはない。僕の未来は、この腕の中にあるのだから。




