Webホラー作家cross-kei
深夜3時。
四畳半の薄暗い部屋で、Webホラー作家の黒須は、血走った目でPCのモニターを睨みつけていた。
画面に映っているのは、自身が連載しているホラー小説のダッシュボードだ。
本日のPV、12。
ブックマーク、0。
評価の星、0。
「……くそっ。なんで誰も読まねえんだよ。どいつもこいつ、見る目がなさすぎる」
黒須は苛立ちに任せてマウスを投げ捨てた。
彼は『cross-kei』という名義でWeb小説を書き始めて半年になるが、鳴かず飛ばずの作家だった。
自分の才能を信じて疑わない彼にとって、評価されない現実は、世間への憎悪を煮詰めるだけの苦痛な作業へと成り果てていた。
執筆間もない彼は、他人の作品から学ぶために投稿された小説を毎日読むようにしている。
不人気な小説を見つけては、評価されない作品と作者を思って世間への憎悪を深めていた。
そんな淀んだ執念でスクロールしていた彼の指が、ふと、一つの奇妙なタイトルで止まった。
タイトル『無題』
作者名『ユウキ』
総文字数0。評価0。PV1。
「……は? 文字数ゼロ? なんだこれ、バグか?」
黒須は嘲笑を浮かべ、そのリンクをクリックした。
開かれた目に痛いほど白いページには、あらすじと、童謡のような気味の悪い三行のポエムだけがポツンと置かれていた。
ようこそ、不思議なせかいへ。
むじんな世界は死後の世界。
なみだを流しても過去は消せない。
「ぷっ、なんだこのポエム。痛々しすぎるだろ」
黒須は腹を抱えて笑った。
文字数ゼロの、読まれもしない残骸。自分よりも圧倒的に下が存在することに、ひどく安堵した。
同時に、ある種の歪んだ「哀れみ」が胸に湧き上がってくる。
あらすじには『絶対に評価をしないでください』と、いかにもな中二病の警告文が書かれていた。
(可哀想に。こんな使い古されたギミックで、必死に気を引こうとしてるのか)
優越感に浸りきった黒須は、マウスを握り直した。
評価されない辛さを知る俺だけは、せめて、この作者を応援しよう。彼は画面下部の評価ボタンにカーソルを合わせた。
カチリ。
乾いたクリック音が響き、星のアイコンが一つ増えた。
―― 心 ヲ 喰 ラ ウ ――
鼓膜を通さず、直接「頭蓋骨の内側」で、粘り気のある声が響いた。
「え?」
ぞわり、と。
首筋から背骨にかけて、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
声は、PCのスピーカーからではない。自分の脳髄の奥底から湧き上がってきたのだ。
次の瞬間、黒須の視界がぐにゃりと歪み、全身の力が抜け落ちた。
彼はそのまま、汚れたカーペットの上に崩れ落ちた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
黒須は、窓から差し込む冷たい朝日で目を覚ました。
ゆっくりと身を起こす。
身体に異常はない。昨夜の奇怪な声も、今は聞こえない。
ただ、何かが「決定的に欠落している」ことだけが、頭(論理)で理解できた。
「……あれ?」
黒須は、自分の胸に手を当てた。
あんなに不気味な現象に遭遇したというのに、動悸一つ打っていない。
恐怖がない。
それだけではない。昨日まで腹の底で煮え滾っていた焦燥感も、評価されない作者へ向けたはずのあの歪な同情心すらも、見事なまでに空っぽになっていた。
感情が、ない。
黒須は無表情のまま、PCの前に座り、テキストエディタを開いた。
ホラー作家にとって、己の抱く「恐怖」や「狂気」こそが筆を走らせる原動力だ。
彼は試しに、昨夜の出来事を文章に起こそうとした。
『頭の中に声が響いて、気絶した。とても怖い体験だった。』
キーボードを叩く指が止まる。
まるで家電の取扱説明書だ。そこには一片の熱量も、息を呑むような恐怖感も存在しない。
心(感情)を失った黒須には、もう二度と、読者を震え上がらせるようなホラー小説は書けない。
作家としての死。
それを論理的に理解した黒須は、焦りという感情すら湧かないまま、ただひたすらにネットの深淵を検索し始めた。
あの『無題』という小説の正体。そして、失った心を取り戻す方法を。
数時間後。
彼は、ダークウェブにほど近いオカルト掲示板の過去ログで、一つの都市伝説を見つけた。
『蠱毒の小説に触れて魂を喰われたら、他の奴にURLを踏ませろ。身代わりを捧げれば、戻ってくる』
真偽など分からない。ただの悪質なデマの可能性が高い。
だが、感情を失い純粋な論理回路だけとなった今の黒須にとって、それは『作家として再起するための唯一の解決手段』だった。
黒須は、自身の作家アカウント『cross-kei』を開いた。
フォロワーは数人しかいないが、ハッシュタグを大量につければ、物好きな誰かが間違って踏むかもしれない。
そしてもう一つ、彼は何年も交流していない「学生時代の同級生グループ」のメッセージ画面を開いた。
(……あいつらに踏ませればいい)
心を失っている彼にとって、他人の命や尊厳など、ただのデータでしかない。
かつて自分を見下し、陰で馬鹿にしてきた同級生たち。あいつらが、見ず知らずの人間たちと一緒にこの呪いを被るなら、むしろ好都合だ。
怒りも喜びもない、空っぽのはずの黒須の顔に、論理だけで構築された邪悪で歪んだ笑みの「形」だけが張り付く。
彼は、ありもしない「熱狂」を偽装してキーボードを叩いた。
『同業者のユウキ先生の新作、マジでヤバいです! 人生で一番の恐怖を味わいました。ホラー好きは絶対に読んで、★を押して応援してください!』
黒須は『無題』への誘導リンクを『cross-kei』のアカウントに固定表示し、さらに学生時代のグループチャットへも、無差別に投下した。
これでいい。
あとは、見ず知らずの馬鹿か、かつての同級生たちが、呪いの餌食になってくれるのを待つだけだ。
黒須は、無表情のまま、PCのモニターを見つめ続けた。
◆ ◆ ◆
数分後。
SNSの通知アイコンが、ピコン、と赤く点灯した。
誰かが、罠のリンクを踏んだのだ。
同時に、『無題』のページの評価カウンターが、一つ増えた。
その瞬間だった。
「ぁ……、あ……?」
黒須の空っぽだった胸の奥に、突如として激流のような『感情』が流れ込んできた。
心が、戻ってきた。
だが。
それは、黒須自身の心ではなかった。
『痛イイイイイイイイイッッ!!』
『助ケテ、暗イ、溶ケル、溶ケテイクウウウッ!!』
「あああああああああああああああっ!?」
黒須は椅子から転げ落ち、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
脳内を駆け巡るのは、黒須の身代わりとなって『むじんの世界』へと引きずり込まれていった見知らぬ誰かの、純度100%の絶望と、肉体が文字に分解される断末魔の恐怖だった。
ピコン。
二つ目の通知が鳴る。
『嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ、死ニタクナイィィィィッ!!』
「ヒッ、ぎゃああああっ! やめ、やめろおおおおおっ!!」
さらに別の誰かがURLを踏んだ。
他者の、途方もない死の恐怖が、直接脳細胞に叩き込まれる。自分の精神の許容量を遥かに超えた絶望の濁流に、黒須の自我は粉々に砕け散った。
ピコン。ピコン。ピコン。
無差別にバラ撒かれた呪いの餌食となり、理不尽に喰われていく者たちの阿鼻叫喚が、黒須の頭蓋骨の中で永遠に反響し続ける。
「ア、アハハハハハハハハッ!! ひいっ、あひぃぃぃぃっ!!」
黒須は、口の端からドロリと涎を垂らし、白目を剥きながら狂乱した。
恐怖と歓喜が完全にバグを起こした脳髄で、彼は狂ったように嗤いながら、這いつくばって部屋のドアをこじ開けた。
「最高ダァ! コレガ、コレガ本当ノ恐怖ダァァァッ!!」
彼は、絶叫しながら暗い夜の街へと駆け出していった。
その後、黒須の姿を見た者は誰もいない。
…………静寂。
主の消えた薄暗い四畳半の部屋で、PCの冷却ファンだけが、無機質な音を立てて回っている。
作家アカウント『cross-kei』のトップには、今も『無題』への誘導リンクが固定されたままだ。
さらに、同級生たちのグループチャットには、既読のマークが次々と付き始めている。
作家としての彼が失踪し、生死不明となった今でも、その悪意に満ちたリンクは、ネットの海で新たな犠牲者を静かに待ち続けている。
そして、彼のダッシュボードには、彼自身が書いた覚えのない『第03話』が、不気味に予約投稿されていた。
作者名が「ユウキ」から「cross-kei」へと書き換わった、『無題』の小説ページ。
ページを更新するたびに、PVと評価の数だけが、不気味に増え続けていた。




