知らぬが仏と言いますけれど
王命によって定められた子爵令嬢の婚約者である公爵令息は、令嬢よりも令嬢の妹と懇意にしていた。そうしてついに、子爵が婚約の差し替えを宣言するお話。
「お前をこのゴールズワージー子爵家から除籍とし、リンスコット公爵令息ナイジェル殿との婚約は妹のグレンダと結び直すことにする」
ゴールズワージー子爵家の応接室で、ゴールズワージー子爵令嬢アーリーンは養父である子爵からそう宣言された。
アーリーンの向かいには子爵とその実娘であるグレンダ、アーリーンの婚約者であるはずのナイジェルが並んでいる。アーリーンと三人の間には子爵夫人と子爵の実息である次期子爵が座り、五人ともがこちらを見据えていた。既に五人の中では決まった話なのだろう。
いまのゴールズワージー子爵家当主はアーリーンから見て叔父である。先代の子爵はアーリーンの実父であり、アーリーンの両親が早世したために叔父が子爵家を継ぎ、実親を喪ったアーリーンを引き取ったのだった。
これだけなら美談にも聞こえるだろう。けれど、その実情はそれなりに酷いものだった。
そもそも、正式にゴールズワージー子爵家の血を引いているのは子爵本人ではなくアーリーンの叔母であるいまの子爵夫人だ。子爵令嬢だった叔母が裕福な平民である叔父に嫁いでいたところ、アーリーンの実父母が亡くなったために婿入りに切り替えていまの子爵が当主になったのである。
つまり、子爵はほんの数年前までは貴族を娶れるほど裕福とはいえ平民だったのだ。貴族になったのを機に貴族として必要な勉強をしていれば話は別だったのだが、子爵はアーリーンに貴族としての仕事を押しつけた。
もともとそれなりの商会を持っていたこともあって商売は得意なようだが、貴族として子爵家を支えていたのはアーリーンだ。けれど、養父はそんなアーリーンを追い出すつもりらしい。
「アーリーンも既に十八歳だ。学園も卒業しているのだし、独り立ちしても困ることはないだろう」
養父の言葉を聞いて、アーリーンはなるほどと得心した。一応、世間体を気にしてアーリーンが学園を卒業するまでは追い出さずにいたようだ。
アーリーンとナイジェルの結婚式まではあと半年ほど。婚約を差し替えるのであれば、いましかないと考えたのだろう。
既に五人の中で結論は出ているようだから、反論は無意味だろう。それでも、アーリーンはナイジェルに問いかけた。
「ナイジェル様、わたくしとナイジェル様の婚約は王命です。本当に解消するおつもりですか」
「くどい」
アーリーンの問いかけを、ナイジェルは考慮の余地もないとばかりに切り捨てた。もともとの身分差もあってか、ナイジェルは昔からアーリーンを馬鹿にする態度を崩さない。
「公爵家と子爵家の事業提携のための婚約だ。馬鹿なお前に教えておいてやると、お前の実父母が当主夫妻であった頃ならばともかく、いまのお前はこの子爵家の養女に過ぎず、価値は実娘のグレンダに劣る。ならば、婚約の相手を差し替えたところで何の問題もないのだ」
いろいろと言いたいことを飲み込んで、アーリーンは嘆息した。
「……左様でございますか。では、早急に差し替えの手続きを致しましょう」
手際よく用意されていた婚約の変更書類と子爵家からの除籍書類に、アーリーンは手早く自分の名前を書き込んだ。抜かりなく二部ずつ用意されている書類に名前を書き込んで、子爵家の紋章印で割印を押す。
そのうちの一部を、アーリーンは素早く手元に引き寄せた。
「では、控えはこちらで頂いておきます。原本の王宮への提出はお願いしてもよろしいでしょうか。すでにわたくしは王宮には入ることができませんので」
「心配せずとも今日にでも出すとも。お前はすでに赤の他人、この家から早急に出て行きなさい。自分の部屋にあるものは好きに持ち出すと良い」
子爵の言葉に、隣にいたグレンダが僅かに不満げな顔をした。恐らくは何もかも奪うつもりだったのだろう。アーリーンの実母は大国である隣の帝国の伯爵令嬢だったから、彼女の遺品にはこの小国の子爵令嬢では手の届かないものも多い。
けれどグレンダは、不満な顔をしながらも口には出さなかった。そういう好感度の管理ができる程度には頭の回る女なのだ。
「えぇ、それでは失礼致します。今までお世話になりました、叔父様、叔母様」
グレンダは恐らく、気に入らない義姉の婚約者を寝取ってやったとでも思っているのだろう。グレンダの得意げな顔と、他の四人の冷ややかな視線を背にして、アーリーンは応接室を出た。
アーリーンが子どもの頃から影のように付き従う侍女が、そっと耳打ちしてくる。
「既に荷物は回収しております。どうぞこのままお屋敷をお出になられませ」
いまの話し合いの最中に何もかも済ませたのだろう。この侍女の言葉を疑う理由はなく、アーリーンは着の身着のままで子爵家の屋敷を出ることになった。
屋敷を出る寸前に、ほんの数秒だけ足を止める。もちろん高位貴族の屋敷に比べればささやかではあるけれど、大切な、実父母との思い出深い、思い入れのある屋敷だった。
庭に出れば、最初から何もかも判っていたように馬車が用意されている。扉を開ければ、座席には実母の遺品の中でもいっとう思い入れの深い、母方の祖母から継いだのだという宝石箱が置かれていた。
「他の荷物は全てこちらの魔道具に入っております。本日中に国境を越えたいので、国境まで連続で転移陣を通過する予定です。お体に負担がかかりますが、申し訳ありませんがお耐えくださいませ。気持ち悪ければ吐いてしまっても構いませんから」
一緒に乗り込んできた侍女が言うのに頷いて、アーリーンは宝石箱をそっと撫でた。
アーリーンが本当に本当に小さかったころ、この宝石箱の価値を知らなかったアーリーンは、実母の部屋から宝石箱を勝手に持ち出しておもちゃ箱にしていた。あとから大層叱られたけれど、まるでお姫様が持つような宝石箱の輝きが忘れられなくて何年もずっとおねだりをしていたら、アーリーンが十二歳になる誕生日に、社交界デビューの記念として実母から贈られたものだった。
「……悔しいわ」
馬車の窓から遠ざかる屋敷を眺める。乗っている馬車は見た目は子爵家相応だが、幾つもの魔法がかけられていて、その気になれば普通の馬車の何倍も速く走ることができる。
「あんな奴らにお父様とお母様が守ってきた屋敷を奪われるなんて」
「では奪い返しますか?」
こともなげに問われて、アーリーンは侍女を振り返った。
侍女はいつも通り、スンとした表情でアーリーンを見ている。この侍女は、笑っているのも怒っているのも判りづらい。
「ちょっと手間はかかりますが、我が国の魔法力をもってすれば屋敷を丸ごと移動させるくらいは簡単にできますよ。アーリーン様が欲しいのであれば、慰謝料の一環としてあの屋敷も請求しましょう。あまり広さはありませんが、別荘の一つにでも良いかも知れません」
とくだん冗談を言った風でもなく、侍女は言った。この侍女は、本来であれば小国の子爵令嬢であったアーリーンに仕えるような身分ではない。
震える声で、アーリーンは問うた。
「……良いのかしら? そんなお願いをして。わがままと思われたらどうしましょう」
侍女は頷いた。本当に判りにくいけれど、もしかしたら笑ったのかも知れなかった。
「この程度はわがままの内にも入りません。そのためにも、まずはこの国から出なければいけませんね」
チチッ、と可愛らしく鳴いて、一羽の小鳥が窓から飛び込んでくる。その小鳥と何やらやり取りをしてから、侍女はアーリーンに向き直った。
「必ずお国まで無事にお送り致します、姫様」
***
さて、その後のアーリーンは、隣国である大陸随一の大帝国の皇弟一家の養女として迎え入れられることになった。
なぜかと言えば、アーリーンがこの帝国の皇族の血を引く先祖返りであり、皇族の血筋に稀に顕れる真実を見通す魔眼を持っているからだ。
貴族というのは王族や貴族同士で結婚を繰り返していることが多いので、令嬢が皇族の血を引いていること自体はそこまで珍しいものではない。けれど、皇族の直系ですら顕れるのは多くて二割程度であるという魔眼持ちが遠縁に生まれるのは非常に珍しいことなのだった。
そのためにアーリーンは、生まれは小国の子爵令嬢という身分でありながら、同時に帝国から皇族と同等の権利を持つ特別な称号を与えられているのだ。
もともと故国の王甥であり公爵令息であるナイジェルと王命による婚約が結ばれていたのも、アーリーンの特別な事情によるものだ。どうしてだかナイジェルは、事業提携による婚約だと思い込んでいたようだけれど。
アーリーンは本来は、皇家の紹介で帝国の宰相令息との婚約が決まりかけていた。アーリーンが王国から出ることを嫌がった故国の国王が、ほとんど割り込むような形でアーリーンに自分の甥っ子との婚約を命じたのだ。
正式な婚約が結ばれる前ではあったし、アーリーンが王国の子爵令嬢であることも事実なので、越権や内政干渉というわけではない。けれど半ば帝国の顔に泥を塗るような、ひどく強引な王命であったことは事実だ。
法に反しているわけではないから引き下がりはしたけれど、帝国としては、内心は面白くなかっただろう。
これで婚約相手であるナイジェルがアーリーンを大切にしていれば、話は違ったかも知れない。けれどその婚約相手は、自分が公爵令息でありながら子爵令嬢と婚約を結ばされたことを不満に思い、アーリーンを軽んじ、挙げ句にアーリーンの義妹を選んだのだ。
「ゴールズワージー子爵一家とナイジェル・リンスコットが死罪になったようですよ。リンスコット家も公爵家から伯爵家に降爵になったそうです」
ある日、いつもと変わらないスンとした表情で、子爵家から変わらずについてくれている侍女が言った。
この侍女は、もともと皇家の腹心である伯爵家の出身だ。皇家の縁者であるアーリーンが害されることのないように、皇家から子爵家に送り込まれていたのだ。
全員を知っているわけではないけれど、子爵家には他にも皇家の配下が何人か送り込まれていた。アーリーンの実父母である先代の子爵夫妻は知っていたけれど、当代の子爵夫妻である叔父と叔母はきっと知らなかっただろう。
もしも、そう、これは本当に、もしものお話だけれど。
例えば、貴族の内実などほとんど知らない叔父が、使用人たちの益体もないお喋りを本気にして、馬鹿な真似をするようなこともあったかも知れない。
もちろん、子爵家とはいえ家門の当主が真偽も判らぬ情報に踊らされたのであれば、それは同情の余地など一つもないのだけれど。
「そう」
大した感慨もなく、アーリーンは頷いた。思い出して問おうとすれば、察したように侍女が口を開く。
「それと王国からアーリーン様への慰謝料の一環として、元子爵家の屋敷も頂きました。転移術式の敷設がありますので二週間ほどお時間を頂きますが、この国に持って来られますよ。どこにお置きしますか」
「本当? じゃあ、少し前に行った湖畔の近くが良いわ。避暑に使いましょう」
「かしこまりました」
実父母との思い出深い屋敷を取り戻せたことを知らされて、アーリーンは喜んだ。侍女が淡々と続ける。
「それから、アーリーン様宛に釣書が届いております」
不思議に思って、アーリーンは侍女を見た。
アーリーンが帝国に移ってからこちら、釣書が山ほど届いているのは知っている。そのほとんどはアーリーンに話すら届かないまま先方に送り返されるので、侍女からそんな話が出るのは珍しいことだった。
「お相手は、宰相家のご長男様です」
驚いて、アーリーンは持っていたカップを傾けそうになった。
宰相家の長男といえば、アーリーンがナイジェルと婚約を結ぶ前に、婚約が決まりかけていた相手だ。
あれから何年も経っているのだから、とうに別の相手と婚約してしまっていると思っていたのだが。
「お会い致しますか?」
「そう、ね……」
思いがけず、声が上擦った。正直なところ、アーリーンの初恋の相手なのだ。
「お久しぶりなのだから、ひとまずご挨拶をしたいわ。お茶会の準備を致しましょう」
知らず浮き立つ心をどうにか宥めて、アーリーンは言った。応えて頭を下げる侍女は、判りづらいけれど、微笑んでいるように見えた。
無知は罪とも申します。
ありがちな姉妹格差の何のひねりもないテンプレ婚約破棄小説を書いてみました。思いついた設定を形にしたいがために書いた。
これはもう元平民の現子爵よりも公爵令息を咎めなかった公爵家がシンプルにお馬鹿さん。たぶん心のどこかで『所詮は子爵令嬢』という驕りがあったのでしょう。
侍女の『姫様』呼びは、厳密な身分を示す言葉というよりは『尊い身分のお嬢様』という意味合いで使っています。まぁ、皇族と同等の身分にあるのも事実なので。
宰相令息は王国での二人の様子を聞いて『ワンチャンある』と思って執念深く待ってました。粘り勝ち。まぁ、帝国からしてみれば婚約は仕方ないけれどその婚約を邪魔しないとは言ってないからね。
【追記20251107】
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