■8.塔の暮らしも悪くない
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塔の魔術師は面倒くさがり屋だったので、買い物のために出掛けることが嫌いでした。けれど、特に意味もなく街を歩くことは、割と好きでした。
本日の塔の魔術師は暇だったので、自宅である塔から王都まで、昼寝をしに出かけました。知らない民家の屋根に寝転び、野良猫をお腹に乗せて昼寝をするのが、最近の彼のお気に入りです。
昼寝を終えた塔の魔術師は、野良猫をひとしきり撫でてから、目的なく街を歩き始めました。「塔の魔術師」の存在自体は有名でしたが、地味なローブを着て暇そうに街を歩く年若い青年がその「塔の魔術師」だとは、誰も夢にも思っていませんでした。
少し歩くと、パン屋の女の子がパンをくれました。
この女の子は以前、梯子から落ちた時、たまたま通りかかった塔の魔術師に、目の前に落ちてこられたら邪魔だという理由から、浮遊の魔術で助けてもらったことがあるのです。
以来、女の子は彼を大変に敬っていて、彼がパン屋を通りかかる度にパンを渡すのでした。
見習いの女の子が作るパンはあまり美味しくないのですが、自分を敬う者に寛容な塔の魔術師は、いつも尊大な態度でパンを受け取り、「食えないことはない」という感想を伝えます。女の子は嬉しそうな笑顔で、塔の魔術師を見送ります。
また少し歩くと、花屋の男の子が花をくれました。
この男の子は以前、朝から店先で眠る酔っ払いに困っていた時に、ちょっと虫の居所が悪くて何でもいいから吹き飛ばしたかった塔の魔術師に、酔っ払いを吹き飛ばしてもらったことがあるのです。
以来、男の子は彼を大変に敬っていて、彼が花屋を通りかかる度に花を渡すのでした。
塔の魔術師は花に薬用以外の用途を見出していないので、観賞用の花を一輪もらったところでただの手荷物なのですが、やっぱり自分を敬う者に寛容な塔の魔術師は、やっぱり尊大な態度で花を受け取り、「飾る以外の使い道がない」という感想を伝えます。男の子は嬉しそうな笑顔で、塔の魔術師を見送ります。
街歩きを終える頃には、塔の魔術師の手荷物はかなり増えていました。
全てくだらないものです。無限に卵が尽きない籠や、無限にパンが出てくる箱などの貴重な品に比べれば、無価値も同然のものです。
塔の魔術師はたくさんのくだらないものを塔に持ち帰り、全て部屋に並べてよく眺め、全く以ってくだらないものばかりである、と腕を組んで頷きました。
そして、また街に行こう、と思うのでした。
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「先生。準備が出来ました」
「ん」
サンドイッチにプリン、紅茶入りの水筒やその他諸々を詰めた籠を提げ、先生の傍らに立つ。先生は片手に丸めた敷物を、もう片手に私を抱え、とんと床を蹴った。たちまち上昇が始まる。
以前は先生の腕一本に身を任せるしかない飛行に恐怖を感じたけれど、塔での暮らしが始まって半年ほどが経った今では、すっかり慣れた。サンドイッチたちが崩れないようにと、籠を水平に保つことに専念する余裕すらあるくらいだ。
私が大人しく抱えられていれば、先生の方も腕が疲れたから離したいとか背中が痒いから離したいとか意味はないが離したいとか言い出さないので、安全な空の旅である。
ほどなく屋上に着いた。さっそく敷物を広げ、籠の中身を並べる。
今朝、屋上での食事を提案した私に、先生は心底面倒くさそうな顔で「心底面倒くさい」と言った。が、私が悲しそうな顔をすると、「水遣りのついでだからな」と了承してくれたのだ。
本日は晴天、絶好の屋上日和だ。張り切って昼食を作った甲斐がある。
「今回のサンドイッチは豪華ですよ。干し肉部屋で見つけた干し肉を挟んでみました」
「ああ、あの部屋か。何かの仕事の報酬に貰った百年分の干し肉を保管して、すっかり忘れていた」
「忘れ……。よく腐りませんでしたね。少なくとも十年以上は経過しているのでは」
「食糧を置く部屋には時間を固定する魔術を施してある。何年経とうが腐らん」
「時間を操作する魔術は禁術の類だったと思うのですが、ほいほい使っちゃってるんですね……。それにしてもこの干し肉、美味しいですね。何のお肉なんですか?」
「……」
「え、なんで黙って目を逸らすんですか。え、何のお肉なんですか。先生!」
楽しい食事を終え、食後の甘味として苺ジャムを載せたプリンを出す。これまでも色々なお菓子を作って来たが、先生の中で不動の一位はこれらしい。黙ったまま嬉しそうに食べている。
「そうだ、先生。今朝起きた時にですね、重要な記憶を思い出したんですよ」
切り出すと、先生は匙を動かす手を止めて、こちらを見た。
「……何を思い出した?」
時々、私が何かを思い出したと言うと、先生は少し表情を硬くする。まあ「私は金目の物を狙って侵入した強盗だったのですよ!」なんて告白されやしないか、警戒するのも無理はないだろう。
「ジャガ芋をなぜジャガ芋と言うのか、という話なのですが」
「聞かせてもらおうじゃないか」
先生はプリンの最後の一口を食べ終えると、興味津々な様子で座り直した。名前の由来ネタが好きらしい。
「それは古に存在した不毛の土地で、ジャガーノーツという男が領主になったことから始まり……」
いつぞやのサンドイッチ話よりも遥かに長いジャガ芋話を、先生は「それで」「どうなった」「悪徳商人め」「やってしまえジャガーノーツ」等々、要所要所で合いの手を入れて聞き入っていた。
「……そしてジャガーノーツが広めた芋、略してジャガ芋は領民の飢えを癒しました。その後もジャガ芋は改良が進められ、ジャガーノーツの仲間たちから名前を取って、メイ女王や公爵芋など、さまざまな品種が生まれたのでした。おしまい」
先生は両手を胸の高さに上げ、ハッとした顔で引っ込め(うっかり拍手をしそうになったらしい)、腕を組んで尊大に「面白くなくもない話だった」と評価した。面白かったらしい。
「それは光栄です」
「他に思い出したことはあるか?」
「うーん、ないです」
「そうか」
お口直しの紅茶を飲みながら、相変わらず見惚れるほどに色鮮やかな花畑を眺める。
こうして広々した空の下で、のんびり紅茶を飲んでいると、「塔に閉じ込められている」という感じは全くしなかった。もとより広い塔なので、屋内にいても閉塞感はないのだけれど。
お腹はいっぱいで、陽射しは温かくて、そよ風は心地良くて、溢れるほどの花が咲き誇っていて、しみじみと穏やかな気持ちになった。
「この塔は楽園ですね」
ぽつりと零した言葉を聞いて、先生はきょとんとした顔でこちらを見た。そして、すぐに不機嫌な顔に戻り、不満そうに言った。
「牢獄の間違いだろう。お前は外の世界を知らないからそんなことを言えるのだ」
「外……」
遠くに視線をやる。美しい花畑の終わりは、塔の壁だ。
壁を見つめる私に、先生が静かな声で問う。
「……お前は塔の外に出たいとは思わないのか? 閉じ込められたら出たいと思うのが普通だろう」
「うーん……。考えたこともありませんでした」
言われてみると、私には外の世界への未練というものが全くなかった。塔の最下層で目覚めてから今日に至るまで、どうにか外に出ようという考えを持つことさえなかった。
部屋の窓を開けることはできても窓の外に手を伸ばすことはできなかったので(見えない壁に阻まれる)、塔は間違いなく魔術的に封鎖されているのだけれど、不便も絶望も、特に感じたことはなかった。
単に記憶がないから、そもそも外の世界へ未練を持ちようがない、というのはあるだろう。
けれど、それ以上に。
私は心からこの塔に来たくて来たような、そんな気がする。
「塔に来る前の記憶がないので、比較対象もないのですけれど……。それでも、ここの暮らしは楽しいですよ。パンも卵も食べ放題で、牛乳も飲み放題で、お風呂も広くて、本がたくさんあって、屋上はこんなに素敵で」
塔の好きなところを挙げていくと、先生は「おめでたい奴」と笑った。
「羨ましいくらいにお気楽な思考回路だな。お前にとっては、確かに楽園だろうよ」
それは今まで見たことのない笑みで、どういう種類のものなのかは分からないけれど、ぞんざいな物言いと裏腹に、嘲笑ではないことは分かった。
「……先生。先生は、ここでの生活が嫌いですか?」
「一方的に閉じ込められているんだ。気に喰わないに決まっているだろう」
「先生は塔から出たいですか?」
「当然……」
先生は即答しようとして、口を噤んだ。
そして何も言わないまま、手を伸ばして、近くに咲いていた桃色の花を摘み取った。手持ち無沙汰気味に花弁を一枚ずつ千切っては、風に乗せて散らしていく。
やがて花弁を全て散らした先生は、「今は別にいい」と答えた。
「今はジルがいるから、塔の暮らしも悪くない」
「……」
私が目を丸くして先生を見つめていると、視線に気付いた先生は「うるさい黙れ雑用係がいると便利だという話だ調子に乗るなジルのくせに」と早口で言って、花の茎で額を叩いてきた。突然の暴力である。武器が武器なので全く痛くないけれど。
「ま、まだ何も言ってないじゃないですか」
「うるさい黙れ」
先生は「昼寝する」と言うが早いか、敷物の上に寝転がって私に背を向けた。勝手に怒って勝手にふて寝を始める、どうしようもない先生である。
その隣に私も寝転んで、陽射しの温かさを感じながら、楽しい気持ちで目を閉じた。