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■7.猫は撫でると止まらない


「先生。ものすごく小さな扉を見つけたのですが……」


 居間の壁、棚と棚の間に見つけた、端的に「避」と書かれた小さな扉。林檎を二つ重ねたくらいの大きさで、とても人は通れそうにない。


 私の問い掛けに、長椅子に寝そべって読書をしていた先生は面倒そうに顔を上げた。


「ああ。それは避難用の部屋だ。狭くて暗くて頑丈な場所でじっとしたくなる時に使う。雷の日とか、雷雨の日とか、雷雲が近い日とか」


 荒地にぽつんと建つ高層建築を自宅にしている割に、先生は雷が嫌いらしい。


「はあ……。でも、こんなに扉が小さくて、どうやって避難するんですか? 通れるのは猫くらいですよ」


「だから猫になるんだよ」


 先生の姿が、ぽんっと一瞬で猫に変わった。


「!」


 驚く私に構わず、黒猫になった先生はぴょんっと長椅子から飛び降りた。

 そして立ち尽くす私の前をとことこと横切り、小さい扉をぐいっと頭で押して潜り抜け、避難部屋からひょこっと顔を出して、私を見上げた。


「どうだ。お前には入れにゃいだろう。羨ましいか」


 声はそのまま先生のものだったけれど、発音が少し猫々(ねこねこ)しかった。


「一度変身するとしばらく戻れにゃいのが欠点だが、それでも動物に変身できる魔術師は少にゃいんだぞ」


 小さい扉から小さいお顔だけを得意げに出し、真ん丸のおめめでこちらを見上げる、お耳が三角の生き物。「な」の発音が「にゃ」。


 私が震えながら黙っていると、先生はとことこと足元にやって来て、猫ながら不満そうな表情で見上げてきた。小さな顎をつん、と上げて。


「おい。にゃんとか言ったらどうだ。人がわざわざ高度にゃ変身魔術を見せてやっ……」


「にゃ……」


「にゃ?」


「にゃんですかその可愛さは!」


 堪えきれず、先生をひょいと抱き上げ、ぎゅっとした。小さい頭に頬擦りをする。先生が「ひっ」と息を呑んだような気がしたが、そんなことよりもすべすべの毛並みが素晴らしかった。


「えー……、もう、可愛……えーっ……。これは反則」


 四肢を突っ張った状態で固まってしまった先生を掲げ、やわやわのお腹に顔を埋めた。ぶわっと先生の尻尾が膨らんだ気がしたが、そんなことよりも顔面がとろけそうな柔らかさが素晴らしかった。


 が、固体と液体の中間に猫体を定義すべきであるという非常に哲学的な思考に没頭できたのも束の間、先生が後ろ足で高速連続蹴りを私の肩に叩き込んできたので、あえなく手を離してしまった。


 ぼてっと着地した先生は、目にも止まらない速さで私から距離を取った。


「せ……先生。そんな、逃げなくても。怖くない怖くない。おいでおいで」


 そーっと先生に近づく。先生は三角のお耳をすっかり後ろに寝かせて、「しゃーっ!」と威嚇をしてきた。猫々しい。駄目だ。可愛い。


 怯える猫をはあはあ言いながら壁の隅に追い詰める不審人物に成り果ててしまったことを自覚した私は、ちょっと咳払いをしてから、努めて知的な声で先生に話しかけた。


「先生。ごめんなさい。我を忘れていました。もう先生に頬擦りしませんから。先生のお腹で深呼吸しませんから。大人しく投降……もとい、落ち着いて椅子にでも座りましょう。ね、先生?」


 こちらが理性的な人間であることを理解してくれたのか、先生は部屋の隅からにじにじと動き出した。私をだいぶ迂回して、もといた長椅子にぴょんと飛び乗り、警戒態勢で私を見る。


「い、いいか。変にゃ真似をしたら呪うからにゃ。絶対だからにゃ。俺の変身魔術が解けるまで近づくにゃ。分かったにゃ」


 自覚がないのか、にゃんとも言えない猫感を発言の端々に漂わせる先生。上がりそうな口角を必死に押さえつけ、大変残念そうな表情を作った。


「えー……。天才魔術師たる先生の高度な変身魔術を間近で見せてくれないのですか? 偉大で、貴重で、素晴らしい、天才の変身魔術の成果を」


「まあ凡人に非凡にゃ才を見せつけてやるのも天才の務めだからにゃ。おいジルどうした早くこっちに来い」


 あっさり手の平(この場合は肉球)を返した先生の隣に、全く下心はないですという清廉そのものの表情で、ゆっくりと腰を下ろす。触る気配を見せない私に、先生は警戒を解いたのか、「完璧に猫だろう?」と、お座り状態のまま誇らしげに胸を張った。


「はい先生。さすがです。先生の魔術は素晴らしいです」


 日頃、私が面と向かって先生の魔術を褒め称える機会は少ないけれど、この時ばかりは心からの賛辞を送った。この毛並み、この造形。私の熱い拍手を受けた先生は、まんざらでもなさそうである。


「先生、猫の姿でも目はちゃんと見えるのですか?」


「当たり前だ、馬鹿め」


「では、ただいま私が立てている指は、両手を合わせて何本でしょう?」


「にゃにゃほん」


「はい可愛い、じゃなかった、はい正解です。猫の姿になれど視力は人のまま。さすがですね」


「ふん。だが耳は人間よりもよく聞こえるぞ」


「それはそれは。その高性能なお耳を少し触ってみてもいいですか?」


「まあ特別に許可してやる」


 獲物を罠に掛けた邪悪な笑みを押し殺し、さも魔術への真摯な態度を維持して、薄くて小さくて三角のお耳にそっと触れる。両耳を同時に揉んでみると、3揉み目で先生はうっとりと気持ちよさそうに目を閉じた。


「手触りも猫そのもの。さすがです、先生」


 耳揉みを続けながら称賛すると、「うん……」と短くも夢見心地な声が返ってきた。7揉み目で先生はごろごろと喉を鳴らし、9揉み目で溶けるように伏せの体勢になり、とどめに顎の下をこしょこしょと撫でたら、ごろんとお腹を見せた。


「お利口さんですねー。可愛いですねー。可愛いの天才ですねー」


「うん……」


 お腹を天井に向けた状態で、されるがままの先生。普段の威厳は見る影もない。わざと撫でるのを止めてみたら、べしべしと腕を叩いて催促される。撫でる。可愛い。可愛いから撫でる。幸せな永久機関の出来上がりである。


「先生、一等賞です。可愛い選手権一等賞です。先生はすごいですねー」


「うん……」


 そーっと抱き上げて膝に乗せても、先生は特に抗議をしなかった。

 これはもう、頬擦りかましてお腹で深呼吸をしても許されるのではあるまいか。


 などと不埒なことを考えながら熱い視線で先生を見つめていたら、なんと先生の方から、頬擦りを望むように私の両肩に前肢を乗せて、こちらを見上げてきた。


「せ、先生……!」


 あまりの愛らしさに感動した瞬間。


 先生の姿が、ぽんっと一瞬で人に戻った。


「……。……。ジル」


 綿のような軽さで両肩に置かれていた肉球は、結構な圧力で長椅子の背凭れに私を押さえつける大きな手に変わり、こちらを無邪気に見上げていた真ん丸のおめめは、こちらを呪殺しそうな勢いで見下ろす凄まじく不機嫌な眼差しに変わった。


「せ、先生……?」


「……よくも、弄んでくれたな」


 先生が大変怒っていらっしゃることがありありと分かったので、思わず引き攣った笑みになった。先生は私を跨いで長椅子に膝立ち状態なので、体重は掛けられていないはずなのだけれど、大変な重圧を感じる。


「え、えーと……」


「よくも可愛いだの何だのとふざけたことを抜かして、無遠慮に撫で回してくれたな」


「せ、先生も後半はノリノリだったじゃないですか。お腹見せてごろごろ言ってたじゃないですか」


「うるさい黙れ。よくも……よくも俺に『一生猫のままでいいかも』などと……屈辱的なことを思わせたな。絶対に許さない」


「お、落ち着いてください先生。ねっ、先生」


「どこかの物置部屋に拷問道具一式を保管してあったはずだ……半額だったから買って放置してたやつが……」


「先生は半額に弱過ぎませんか」


 大変だ。このままではお得に買った拷問道具一式で凄惨な目に合されてしまう。奥の手(甘味)を使うか……いや、ここは。


「い、いやー、さすが先生ですね!」


 一か八か、宥める方向から称賛の方向に切り替えた。

 先生がぴくっと反応する。


「あの『演技』、感服いたしました。まさに猫。猫そのもの。変身魔術も完璧なら、人に撫でられて喜ぶ猫の演技まで完璧なんて、先生は天才過ぎます。演技力も兼ね備えた至上の変身魔術を前に、うっかりこの猫は先生だということを忘れて無心で撫でてしまうほどでございました。さすが先生。名演技」


「……」


 先生は私からすっと身を離し、何事もなかったかのように隣に腰を下ろし、とても神妙な顔で腕を組んだ。


「そうだ、演技だ。撫でられて夢見心地だったとか全然そういう気分ではなかったが猫らしくお前にじゃれついてやったわけだ。この演技に騙されて可愛い可愛いとはしゃぐお前は非常に滑稽だったな」


「お恥ずかしい限りです、先生」


「全くだ。これだから凡人は。変身魔術はなんたるかということを教えるのも一苦労だ」


「はい、お疲れ様でした先生。お礼にもなりませんが、今からおやつの用意をさせていただきますね。新作です。葡萄のゼリーです。ゼリーの説明はのちほど」


「うん」


 こうして私は危機を脱した。葡萄のゼリーは好評だった。


 そしてこの日以来、先生は雷が鳴ると、黒猫の姿になって私によじ登ったり、私の寝床に潜り込んだりするようになった。


 その際、先生はすっかり耳を寝かせて怯えた様子ながら、声だけは居丈高に「自分で歩くのが面倒ににゃっただけだ。抱っこされたいわけではにゃい」とか「にゃんかベッドの寝心地が悪いからお前の寝床を奪いに来ただけだ。抱っこされたいわけではにゃい」と、平たく言うと抱っこの要請をしてくる。もちろん拒む理由はないので、喜んで雷雲が過ぎるまで応じることにしている。


 先生が苦手な雷に見舞われた際に、暗くて狭くて頑丈な場所よりも、私の腕の中を選んでくれることは、なかなか嬉しいことなのだった。



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ねこに変身できる先生はとても偉大な魔法使いです…!!そんな偉大すぎる先生に避難場所としての役割を仰せつかったジルは、それはそれは光栄に思っているでしょうね。 ハッと我に返る先生、とても愛おしいです。
チョロインだ…………チョロイン先生だ。 あまりにもひとりの時間が長過ぎたんだろうなあ、言いくるめ抵抗が0になってる………。 ………? あれ? 回想シーンで既にチョロそうだったかも…………。
[一言] 「猫々しい」という言葉と「にゃにゃほん」の罠、最高です。
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