■6.やっぱり先生は素直じゃない
塔での暮らしが始まって、ひと月ほどが経った。
起床、身支度、朝食の用意。先生を起こして、一緒に朝食。後片付け、洗濯、掃除、その他諸々。
仕事が一段落したら、塔の探検に繰り出すのが日課になっていた。
塔には先生に案内された部屋の他にも、妙な部屋がたくさんあって、興味が尽きない。塔の中を自由に歩く許可はもらっているので、水筒を提げて階段を上り、各階の面白そうな部屋を探す。
何も書かれていない扉、つまり空き部屋の方が少ないようで、少し歩けば「本」やら「布」など、端的に内容が示された部屋に出会う。
また、一つしかないと思っていた物置部屋は、実は複数あるようで(すでに十は見つけた)、発見次第入ることにしていた。「物置」の扉を開けてカーテンや椅子を見つけては、せっせと自室に持ち帰る。最初は毛布とクッションしかなかった私の部屋にも家具が増え、すっかり生活感が出てきた。
「あとはベッドが欲しいんだけどな……」
今は布部屋で見つけた厚手の布を重ねて寝床にしており、ふかふかして寝心地は悪くないのだけれど、やっぱりベッドが欲しい。
新たな物置部屋を探して未踏破の階を探検していたら、端的に「乳」と書かれた扉を見つけた。乳。
「い、いやらしい部屋だ……!」
盛大に先生を見損なった。
先生め。こんな部屋を作るなんて。乳に関するあんな品こんな品があるに違いない。あんな涼しい顔をしておいて。きっと巨乳派なのだ。憤懣やるかたない思いである。
己の慎ましい胸を張って、勇ましく扉を開けた。
牛乳が無限に湧き出る壺がある部屋だった。
穏やかな気持ちで部屋を出た。
ベッドは見つからなかったけれど、牛乳部屋の発見という成果は上がったので、本日の探検はここまでとし、居間へ向かう。雑用や探検で塔をうろちょろする私と違って、先生はだいたい居間にいる。
案の定、先生は長椅子に寝そべって本を読んでいたので、さっそく牛乳部屋のことを報告した。
「先生。牛乳が飲み放題の部屋がありましたよ」
「ああ、ある」
素っ気なく肯定されてしまった。私は塔における牛乳の入手先が分からなかったので、食事部屋にある牛乳を使い切った後は、もう二度と飲めないものだと思って悲しんでいたというのに。
「もう、そんなに便利な部屋があるなら早く教えてください」
「あの魔具は常に新鮮な牛乳が湧き出る便利な品だが、如何せん協調性がないから、他の魔具と一緒に置くと乳の出が悪くなる。だから専用の部屋に隔離している。言ってなかったか」
「言ってないです。てっきり食事部屋の保管壜にある牛乳が全てなのだとばかり……。相当な貴重品だと思って、惜しみ惜しみ使っていたんですからね」
「その割には紅茶に欠かさず入れていたと思うが」
「紅茶に牛乳は絶対なんです。ああでも、これで気兼ねなく牛乳が飲めますね。お風呂上りの牛乳は最高ですからね」
「なんだ、ジルは牛乳が好きなのか?」
先生が本から顔を上げ、なんだか意外そうに問う。「はい」と応じると、先生は長椅子から立ち上がり、彼の胸元に頭の先がやっと届くくらいの背丈の私を、しげしげと見下ろした。
「ちっ……さ」
ものすごく溜めて言われた。
「なっ……」
「牛乳を飲むと背が伸びると聞くが……。お前、本当に牛乳が好きなのか? その割にはチビ過ぎないか?」
心底不思議そうに問う先生。どうやら悪気がないようなので心を鎮め、努めて大人の対応を心掛け、「いいですか、先生?」と極めて冷静に先生を見上げる。
「牛乳を飲むと背が伸びる、というのはただの俗説です。頑丈な身体作りには役立つでしょうけれど、一概に身長の増長に寄与するものではありません。あと私の背はこれから伸びるところです。今から本気を出そうと思っていました」
私の丁寧な説明に、先生は「いやもう成長期過ぎてるだろ」と率直な意見を述べ、それから視線を徐々に下げ、私の胸元をじっと見て、納得したように頷いた。
「なら、牛乳が胸の発育に貢献するという話も嘘だな。だってお前、どう見ても貧にゅ」
無言で腹を殴った。
「うっ」
「誰が清貧を体現した乳、略して清貧乳ですか!」
鳩尾への不意打ちの打撃はそこそこ効いたようで、先生は「せ、せいひんにゅう……?」と呻いて腹を押さえた。
その様を見て溜飲を下げたのも束の間、顔を上げた先生に殺意満載の目で睨まれ、「よくも殴ったな」と相当に低い声を出されて戦慄した。怯えながら後退る。
「な、なぐ、殴ってません。先生の鳩尾付近を狙って然るべき速度で拳を出しただけです」
「……剥いで抉って引き千切る」
「目的語が不明で怖いです」
「それぞれ皮膚、眼球、四肢に決まっているだろうが」
「明らかにされたところで怖いです」
さすがに剥いで抉って引き千切るを実行されないとは信じたいが、寝技で延々と関節を極めるくらいはされかねないので(先生は身体的な武力が不必要な魔術師のくせに足払いからの絞め技が妙に得意で度々実力行使される)、慌てて逃走を図った。
が、先生の指の一振りで、着ていたローブを元の大きさ(つまり先生規格)に戻されてしまい、余った裾を踏んづけて転倒した。
「あう」
ここ一か月の私の尽力により片付いた居間に物は散乱しておらず、ふかふかの絨毯の上で転んだので痛くはなかった。が、今から痛い目に遭うかもしれない。這いつくばる私の傍に立った先生が、邪悪と表現して然るべき笑みでこちらを見下ろしていたからだ。滅多に笑わないのだから、せめて嘲笑か邪笑以外を見せて欲しい。
「逃げられると思ったか愚図め」
「せ、先生、暴力に訴えるのはよくないですよ」
無言で殴りかかった己を棚に上げて道徳を訴えるも、先生は「金槌の尖った方で脚気の検査をしてやる」と恐ろしいことを呟いた。大変だ。このままでは金槌の尖った方で脚気の検査をされてしまう。
「プリンセスチャワンムシを作りますから!」
必死に叫ぶと、こちらに手を伸ばしかけていた先生の動きが止まった。
「プリン……なんだって?」
怪訝そうに訊ねる先生。よし、興味を引けた。
「プリンセスチャワンムシです。古代語で『其は未知なる食感の甘味』を意味するお菓子で、卵と牛乳が主な材料です。とろける舌触りに虜になる人間が続出です。苺のジャムとも合います。本日のおやつにどうですか」
「うん」
先生はやたら素直な返事をして、すいっと指を上げた。先生規格に戻されたローブが縮み、再び丁度いい大きさになる。先生の復讐心はすっかり消え去ったらしい。
以前に苺のジャムを作って以来、先生は私が作る甘味に興味を示すようになった(なおスープの方は毎回微妙な反応をされる)。なので一か八かお菓子で釣ってみたけれど、上手くいったようだ。今後も先生の気を逸らす際にはこの手を使おう。
「プリンが出来たら呼べ」
先生は心なしかワクワクした足取りで長椅子に戻り、再び読書を始めた。セスチャワンムシ部分がなかったことにされてしまったが、まあプリンでも通じるから構わない。ともあれ命拾いである。
ワクワクしている先生の期待を裏切るわけにはいかないので、さっそく食事部屋に向かい、プリン作りを始めた。冷やしている間に諸々の用事を済ませ、もういいかなと様子を見に戻った頃に、先生も「まだか」と食事部屋に顔を出した。
「ちょうど完成したところです。今お茶を淹れますね」
空き瓶に詰めて作ったプリンに苺のジャムを乗せ、匙を添えて先生に出す。先生は紅茶も待たずにさっそく一口食べた。
「どうでしょう」
「別に嫌いではない」
先生の「別に嫌いではない」は「かなり好き」の意なので、どうやらプリンをお気に召したようだ。紅茶を並べ、私も食卓に着いてプリンを食べる。我ながら美味しい。
「先生」
「なんだ」
「私、いまだに自分がどこから来たのかとか、塔に来る前は何をしていたのかとか、全く思い出せないんですけど……。プリンの作り方とか、どうでもいいことはしっかり覚えているみたいです。変ですよね」
妙な記憶喪失もあったものだと思いつつ言うと、先生は「別に変ではない」と返した。
「プリンはどうでもいいことではない。何があっても覚えているべき重要事項だ」
プリンを気に入り過ぎである。
「お前が忘れていることなんて、きっとプリン以下の記憶ばかりだ。だから無理に思い出す必要はない。どこから来たかも、塔に来る前は何をしていたかも、覚えていなくたってここでの暮らしに支障はない。だから気にするだけ無駄だ」
「……励ましてくれてます?」
「寝言は永眠してから言え。事実を述べただけだ」
先生は素っ気なく言って、プリンを食べ終えた。空になった瓶を悲しそうに見つめ、私が食べているプリンを切なげに眺めている。随分と雄弁な視線に笑みが零れた。
「実は作り過ぎてしまったのですが、もう一つ食べませんか?」
「もらってやってもいい」
途端に尊大に応じる先生にやっぱり笑ってしまいながら、用意しておいたおかわり用のプリンを出した。