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■3.塔にはお手洗いがない


 人の家に突如現れたかと思いきや記憶がないと言い出し焼き菓子を平らげ紅茶をおかわりした上でお手洗いを要求。


 と並べると非常に忙しない客人だと自分でも思うけれど、なかなか切羽詰まった尿意だったので先延ばしにはできなかった。一気に紅茶を飲み過ぎたらしい。


 羞恥を感じながらお手洗いの所在を訊ねた私に、先生はきょとんとした顔で「おてあらい?」と返した。あれ。お手洗いでは通じないのだろうか。


「ええと、厠のことなのですが……その、よ、用を足すと言いますか」


「……。……。ああ、そうか。普通の人間には排泄があるのか」


「……先生はしないんですか?」


 まさかと思って問うと、当然と言わんばかりの首肯が返ってきて愕然とした。


「あなたは妖精か何かですか……?」


「誰が妖精だ。そんな魔術師、ざらにいるだろうが。排泄とは摂った栄養を全て活用できない非効率な動物のする行為。栄養を全て魔力に変換できる高位の魔術師であれば排泄が不要となるのも当然だ。また生物おける排泄は食事と交尾と睡眠に並んで非常に大きな隙を有む行為であるゆえそれが不要となることは生存において著しい利点であり」


「わ、わか、分かりました」


 なんだか長い講釈が始まりそうだったので慌てて遮った。


「で、その……この塔にお手洗いは?」


「ない」


「……」


 私はなんて建物に閉じ込められてしまったんだ……。


 今さらながら「よく分からない塔から出られない」という状況に絶望をしていたら、先生の瞳に少しだけ同情の色が宿った。彼の視線が雑多なもので溢れた部屋を彷徨って、隅にある大きめの花瓶で止まる。


「あの花瓶で」


「嫌です」


 食い気味に却下したら、せっかく(たぶん先生なりの)親切心を発揮したのに突っぱねられた彼はムッとした顔になったが、「花瓶は嫌です……」と顔を覆って絶望に呻く私を見て、溜め息を吐いた。


「……分かった。じゃあ、用を足しても問題の無い部屋を探してやる」


 ついてこいと言われ、先生は部屋を出た。大人しく後を追うと、先生は塔の内壁をぐるりと螺旋状に取り巻く、長い長い階段を上り始めた。


 この塔は二重の円の構造になっており、外円と内円の間に各部屋が、内円に一階から最上階までを貫く螺旋階段がある構造のようだ。


 階段には手すりも何もない。見上げれば天井は高過ぎて見えず、覗き込めば最下層が丸見えな仕様だ。幅はしっかりとあるため普通に進めば落ちやしないとはいえ、移動だけで若干の恐怖体験である。


 先生は慣れたもので、足元も見ずにすたすたと上がっていった。一方の私は、限界まで壁際に寄って慎重に歩を進める。


 一つ上の階層に着いたところで、先生は「この部屋でいいだろう」と立ち止まった。


 示された扉には、端的に「森」と書かれており、その表記に偽りはなく、開けた扉の向こうには森が広がっていた。小川さえ流れており、一歩踏み出せば床ではなく地面と落ち葉の感触がする。


「え。あの、ここ、塔の中ですよね?」


「当たり前だろう。ほら、用を足してこい」


 先生は森の出現に驚く私に構わず、ぞんざいにスコップを手渡した。


「お前、見たところ旅をしてきたんだろう。森で排泄くらいしたはずだ。ここで同じことができないは言うまい」


「……。……。はい」


 居間の隅の花瓶よりは遥かに抵抗が少なかったので、先生の言う通り、私は旅の途中に野外で用を足した経験があるのだろう。そして尿意が緩やかに限界に近づきつつあったので、個室がいいなどと贅沢は言っていられなかった。

 まあ、いかに森だろうと塔の部屋の一つには違いないのだから、ある意味では個室とも言えるのだ。うん。


 スコップを手に渋々頷くと、彼はやっと面倒事が片付いたとばかりに背を向けた。


「俺はさっきの部屋にいる。終わったらすぐ戻ってこい。あまり森の奥には行くなよ。迷子になっても助けてやらんからな」


「はい」


 矢継ぎ早に告げて去っていく先生に頭を下げ、扉を閉める。塔の一部なのに迷子になれるほど広い森なのか……と感心しつつ、扉のすぐ近くでするのは憚られたので少し進んだ辺りの木陰に入り、ようやく迫りくる危機を脱した。


 小川で手を洗って森部屋を出ると、居間に戻ると言ったはずの先生が、廊下を行ったり来たりしていた。先生は私が扉から出てきたのを見るや、こちらを睨みつけて「遅い」と文句を言った。


「先生、戻っていたのでは……」


「戻ろうとした。だがお前が視界から消えた途端、さっきまで俺が話していた存在は何らかの幻覚ではないかという疑いが生じてきて腹立たしくなり、実在だとしても森で迷子になって戻って来ないんじゃないかという危惧を抱いて腹立たしくなったから、扉の前で待っている方がマシだった」


「……えっと、なんか、すみません。この通り、ちゃんと実在です」


 とりあえず謝ると、先生は機嫌の悪そうな顔のまま踵を返し、すたすたと先に行ってしまった。先生の歩幅は私よりだいぶ大きいので、もたもたすると置いて行かれる。慌てて後を追い、一緒に階段を降りる。


 さきほどの居間に向かうのかと思えば、先生はその扉を素通りした。


「先生、どこへ?」


「せっかくだから、今日から雑用係であるお前に必要な部屋を案内してやる。一度で覚えろよ」


「は、はい」


 こうして唐突に、塔の案内という大事な行事が始まった。



 まず、端的に「食事」と書かれた扉。

「食事はここで用意しろ。道具も食材も自由に使って構わない」

「塔では鶏でも飼っているんですか?」

「そんなうるさい生き物は飼っとらん」

「では、この籠いっぱいの卵は一体どこから……?」

「卵が無限に尽きない籠がある」

「何ですかその便利な籠は……。このパンは先生が焼いたのですか?」

「蓋を開けると無限にパンが出てくる箱がある」

「そんな夢みたいな箱まで……。じゃ、じゃあ、このお野菜も」

「それは家庭菜園だ」

「野菜だけ普通」



 次は、端的に「湯」と書かれた扉。

「風呂はここだ」

「広いですね。こんなに大きな湯船なら泳げそうです」

「泳ぐなよ。溺れても助けてやらんからな」

「泳ぎませんよ。溺れませんよ。私をいくつだと思っているんですか」

「風呂は好きに使え。汚れた身体でうろつかれては敵わないからな」

「……あの、お風呂を使わせていただけるのはありがたいのですが……」

「なんだ」

「私が入浴している間、廊下で待たないでくださいね?」

「そんなもん当たりま……。……。……」

「待たないでくださいね?」



 続いて、端的に「部屋」と書かれた扉。

「俺の部屋だ」

「ベッドしか置いてないんですね」

「寝るだけの部屋だからこれで充分だ」

「あの居間の状態から見ると奇跡のように片付いていますね」

「以前は物を置いていたが、寝ている時に崩れてきて生き埋めになって死にかけたから、ベッド以外は置かないと決めたのだ」

「整頓の理由が切実ですね」



 最後に、何も書かれていない扉。

 そこは空っぽの部屋だった。いままで見てきた部屋に比べるとずいぶん狭く、カーテンのない窓からは暮れかかった空が見える。


「ここをお前の部屋にしてやる。寝起きはここでしろ」


「えっ、いいんですか?」


 私用の部屋をくれることに驚いた。お手洗い代わりに花瓶を勧める感性の持ち主だから、てっきり廊下で寝ろと言われるのだと思っていた。


 だけど考えてみれば、不法侵入をしてきた記憶喪失の怪しい人間にお菓子と紅茶を出してくれる時点で、だいぶ面倒見のいい人なのだ。


「雑用係の分際で部屋を与えられたことに感謝しろ」


「はい、先生。ありがとうございます」


 思わず感動の面持ちで先生を見上げたら、ものすごく渋い顔を返された。


「どうせどんなにお前が邪魔臭くても、この塔から追い出すこともできないんだ。それなら空き部屋に押し込んでおいた方がマシだからな」


 先生が何かを引き寄せるように指を動かすと、どこからか毛布とクッションがふわりと飛んできて、部屋の隅に収まった。今夜の私の寝床が完成である。


「他にいるものがあれば自分で勝手に見つけてこい。物置と書いてある部屋のものは好きに使え。探せば大体の物はある」


「はい」


 仕上げとして、扉には魔術で文字が刻まれた。端的に「ジル」と書かれた扉の前で、先生は尊大に私を見下ろす。


「改めて誓え。お前は俺の雑用係だ。俺の言う事をよく聞き、俺の邪魔をせず、身の程をわきまえて大人しくしていろ。いいな、ジル」


「はい、先生」


 こうして「塔の魔術師」こと「先生」との、塔での暮らしが始まった。


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