■2.私には記憶がない
頭が痛い。
目を開けると、石作りの床が広がっていた。私は床に寝転がっているらしく、冷たい石に押し付けられた頬がひんやりしている。
のろのろと身を起こす。周囲は薄暗いが、視界に問題はない。円形の広い空間。石の壁には燭台がぽつぽつと取り付けられているだけで、窓すらない。家具らしきものもない。牢獄のような建物である。
床に座り込んだまま、ぼんやりしているうちに、段々と頭痛が治まってきた。
「おい」
「ひっ」
唐突に声を掛けられて肩が跳ね上がった。見上げると、傍らに青年が立っていた。黒いローブを纏った黒い髪の青年は、冷え冷えとした眼差しでこちらを見下ろしている。
青年は眼差しと同じくらい冷たい声で、私に問いかけた。
「お前は誰だ?」
当然答えられるはずの質問に、私は首を傾げた。
「えっと……。分かりません」
黒髪の青年は「塔の魔術師」と名乗った。
その昔、色々あって人々に嫌われた彼は、なんやかんやあって自宅であるこの塔に閉じ込められ、かれこれ十年が経つのだと説明した。
たくさんの魔術師たちが総出で、誰も出入りできない強力な縛りを塔に掛けたので、最強で偉大な天才魔術師である彼にもお手上げなのだと言う。
「だからお前を発見した時には驚いた。誰も入れないはずなのに」
「はあ……」
「お前、自分がどうやってこの塔に入って来たのか、本当に覚えていないのか?」
「それが全く……」
「自分がどこから来たのかも覚えていないと?」
「そうみたいです……」
ちなみに私は今、目覚めた場所とは打って変わり、ちゃんと生活感のある部屋にいる。
もう少し正確に表現すると、整理整頓の概念を彼方へ置いてきたというべき、これでもかと物の詰め込まれた乱雑な部屋にいる。
牢獄のように殺風景だったのは、私が倒れていた一階(彼曰く「玄関」)だけらしく、ここは一つ上の階層にある部屋の一つであり、居間にあたるらしい。
で、居間に通された私は、温かい紅茶と美味しそうな焼き菓子が置かれた卓を前に、椅子代わりに出された木箱に腰掛けていた。向かいのやけに豪華で高級そうな長椅子に座った青年は、髪と同じ黒色の瞳をこちらに向け、睨むように私を観察している。
「塔の出入りを禁じる魔術が消えたのかと確認してみたが、特に変わりはなかった。お前がこの塔に入った経緯はともかく、一度入った以上、お前も二度と外には出られないということだ」
「二度と」
「そうだ」
ぎゅいおおぉぉ……と、お腹が鳴った。
青年に呆れた眼差しを向けられたが、自分のこともよく分からないままよく分からない場所に閉じ込められてしまったという大変な状況に対する実感よりも、空腹の方が切実に身に迫る問題だったので許して欲しい。
「た、食べてもいいですか?」
おずおずと皿の焼き菓子を指して問うと、「好きにしろ」と返答がきた。自分が置かれた状況を把握することを一旦放棄して、目の前の皿に手を伸ばす。
ぱくぱくと焼き菓子を平らげ、用意された紅茶も飲み干してしまった私に、青年は「飢え過ぎだろう」と呆れた声で言った。それから面倒と言わんばかりの仕草で、ついっと指を動かした。どこからか葡萄の載った皿がふわりと飛んできて、卓に着地する。期待の眼差しを向けると、彼は黙ったまま顎で皿を示した。
「ありがとうございます。いただきます」
ぶっきらぼうな話し方と気難しそうな雰囲気から受ける印象に反し、「塔の魔術師」は意外にも親切な青年のようだ。彼に感じていた緊張をすっかりなくし、いそいそと葡萄に手を伸ばす。
「いいか。この塔の主は俺だ。お前は不法侵入者だ。つまりお前は俺に何をされても文句を言えないわけだ。入念な拷問の末にいっそ殺してくれと懇願をした辺りで更に三時間くらい粘ってからようやく殺されても文句を言えないわけだ」
とても凄惨な予告をされた。やっぱり親切な人ではないかもしれない。葡萄を口に入れたまま恐怖で固まっていると、彼は「だが、まあ」と続けた。
「お前が俺の言う事をよく聞き、俺の邪魔をせず、身の程をわきまえて大人しくしていると誓うのなら、別に危害は加えない」
葡萄を飲み込み、こくこくと頷いた。
「誓います、誓います」
「いいだろう。雑用係としての滞在を許可してやる」
彼は腕を組んで長椅子にふんぞり返った。実に尊大な態度が良く似合う男である。
見た目は二十代半ば程だが、実際は何歳なのだろう。強い魔力の持ち主は不老な上に長命であることは常識なので、最強で偉大な天才魔術師という言を信じるならば、かなり年上でもおかしくはない。
だが、なんというか、こうして偉ぶる様子はむしろ子供っぽいので、実年齢と精神年齢の乖離が疑われるところだ。なお、強い魔力を持つ魔術師ほど奇人変人が多いのも常識である。
「どうせ俺もお前も、永遠にこの塔から出られないんだ。お前を虐めて憂さを晴らしたところで何も変わらない。それなら雑用係が増えた方がマシだからな」
彼は忌々しげにそう言って、それから急に口を噤んでしまい、手持ち無沙汰気味に紅茶に口を付けた。そうしながらも、私から鋭い視線を離さない。見てくる。ものすごく見てくる。
そう言えば、私は自分の名前どころか、姿も覚えていない。魔術師に対する一般的な見解や、紅茶に牛乳を入れると好みの味になるということは覚えているのに。
「……あの。私、そんなに見つめるほど、変な姿なんでしょうか?」
「ああ」
秒で肯定されて著しく凹んでいると、「そんな色の髪は初めて見た」と続けられ、きょとんとした。
「ああ、そうか。自分の姿も忘れているのか」
彼が億劫そうに手を挙げると、立派な姿見がふわりと飛んできた。自分の目で確かめろとのことらしい。青年に頭を下げてから、恐る恐る鏡の前に立つ。
映るのは、くたびれた旅装をした、十代後半くらいの少女だった。一番の特徴は、肩ほどの長さの髪が、淡い桃色をしていることだろう。
「うわあ……」
自分で自分の髪を見て抱いた感想が「目立つ色だなあ……」だったから、この色彩が非常に珍しいものだという常識も、ちゃんと私にはあるらしい。ちなみに瞳は薄い青色で、これは別段珍しい色ではない。だが、髪色だけでも奇異な印象は充分だ。
これ地毛かなあ、地毛だなあ、と鏡を見つめていると、ふと、懐かしいような声が蘇った。
――素敵な色の髪だね。妖精みたいだ。
――よし。妖精みたいに可愛い君には、とびきり勇ましい名前を与えよう。
――魔術師は舐められちゃいけないからね。
――ジルガルド。無駄に強そうでいいだろう。え、嫌?
――大昔に国を荒らした超強い邪竜から取った名前なんだけど。え、もっと嫌?
「あ」
「なんだ」
「私の名前、ジルガルド、みたいです。今思い出しました」
青年の表情が、なぜか強張ったように見えた。
が、それは一瞬のことで、すぐに彼は怪訝そうに「本当か?」と訊き返してきた。
「女に付ける名じゃないだろ。いや男でもどうかと思う」
記憶が確かであれば「超強い邪竜」とやらの名前らしいので、彼の反応は真っ当な部類だろう。
「その意見には私も賛同したいですけれど……。あと、私、魔術師かもしれません」
ただでさえ不機嫌そうな表情をしていた彼は、さらに眉間の皺を深くした。
「人並み以下どころか魔力皆無のお前が魔術師など、適当も大概にしろ」
「ですよねー……」
魔術や魔力が何たるかという知識は思い出せるけれど、使った記憶は欠片もないし、魔力が身体に宿っているという感覚もなかった。だから名前の方はともかく、自分が魔術師であるというのは思い違いかもしれない。
「……。他に思い出したことはあるか?」
「うーん……」
鏡に映る私は、先述の通りに旅装をしている。だが、旅の途中にしては手荷物がない。一階で目覚めた時点でこの身一つだったのだ。
結局、どれほど自分の姿を見つめて唸ったところで、これ以上の記憶は掘り起こせなかった。諦めて木箱に座り直す。
「駄目です。何も思い出せません」
「そうか」
彼は素っ気なく返すと、私から視線を外して、再び紅茶に口を付けた。何か思案しているようで、全く喋らない。今度は見つめられていないので、先程よりは気楽な沈黙である。安心して瑞々しい葡萄を味わい、紅茶のおかわりを注いだ。この人の淹れた紅茶はなかなか美味しい。
「ジル」
と、おもむろに呼ばれた。
ガルド部分を早々に放棄された形だが、ジルという響きは妙に耳馴染みが良かった。記憶を失う前も、そう呼ばれていたのだろうか。
「は、はい」
緊張しながら返事をすると、彼は呼んでおきながら意外そうな顔をして、ちょっと神妙な顔に変わって、それから尊大な顔で言った。
「何か喋れ」
「……」
「何か面白いことを喋れ」
「お、面白いこと……ですか」
「早くしろ」
「えー……」
なぜ私は、記憶喪失の状態で初対面の人間に面白い話をせがまれるという、非常に難易度の高い注文をされているのだろうか……。
しかし言うことを聞くと誓ったばかりの身なので、多少の無茶振りにも応える義務がある。不法侵入らしいのにお咎めなしにしてもらい、あまつさえ焼き菓子と葡萄を出してもらった恩もある。
「えっと……サンドイッチという料理をなぜサンドイッチと呼ぶかと言うと、かつて西を支配していた魔王サンドイッチが『勇者と戦いながら片手で食べられる料理が欲しい』と、部下に命じて考案させたものだからだそうです」
有名な雑学なので(こんな知識はしっかり覚えている)すでに知っている話かなと思ったけれど、彼は軽く目を瞠って「……知らなかった」と呟いた。受けたようである。
「他には?」
「えっ」
大変だ、下手に受けたせいでおかわりを求められてしまった。もう面白小話の持ち合わせはないので、「これでネタ切れです」と正直に項垂れると、「退屈な奴め」と罵られた。ひどい男である。
「いいだろう、死ぬほど退屈な話でも許してやる。喋れ」
「そう言われましても……」
だいぶ難易度は下がったけれど、却って何を話せばいいのか。戸惑う私に彼は舌打ちをして(ひどい男である)、「ならこれを音読しろ」と、傍に積まれていた本を見もせずに手に取った。
押し付けられた本の題名は『ぱぱっとできる、手抜き簡単お夜食大全』。なぜお料理本を音読させられねばならないのかと疑問の目で見たが、文句あるかと言いたげな眼差しを返された。もちろん文句を言える立場ではないので、大人しく適当な頁を開き、読み始める。
「まずは手近な山で鹿を仕留め……」
音読しながら、なぜ彼はそんなにも私に話を、いや話す内容は二の次のようだから、とにかく何でもいいから喋らせようとするのだろうかと考えて、ふいに思い至った。
単に、人の声が聞きたいのではないかと。
長い時を生きる魔術師にとって、十年はさほど長い年月ではない。研究のため自宅に数年籠もって出てこない魔術師なんてざらにいる。
けれどそれが、もう二度と外に出られず、誰とも会えない前提で過ごす十年だとしたら。
彼がこの塔で過ごした日々は、どれほど孤独だったのだろう。
「……そして、半日煮込めば完成です」
鹿肉料理が一品完成したところで本を閉じ、まるで尊い魔術書の朗読だったかのように静かに耳を傾けていた彼を見る。
「この本、題名詐欺もいいとこですね」
「俺もそう思う」
私と彼は顔を見合わせて、出会ってから初めて、少し笑った。青年は笑うと気難しそうな雰囲気が一変、無邪気な少年のように見えて、本当にこの人は永遠に閉じ込められるほどの悪いことをしたのだろうかと疑わしかった。
「偉大な魔術師の方は魔術書ばかり読むのかと思っていましたが、料理本も読まれるんですね?」
「そんな俗な本は読まん。それは、なんか半額だったから、つい買ってしまったのだ」
「割と庶民派なんですね……」
と、彼の傍に積まれていた本の山が今にも崩れそうなことに気が付いた。お夜食大全が雑に取られたことで均衡が危うくなったらしい。
「先生、本、危ないです」
「ん。ああ」
彼は本の山を押さえて、私はそれを見届けた。
それから「「先生?」」と、声を揃えて再び顔を見合わせた。
「あ、いや……すみません。変な呼び方をしてしまって」
なぜ「先生」などと呼び掛けてしまったのか、自分で自分が分からない。けれど口にしたその響きは、ひどく心が安らぐものだった。そのくせ「先生」という言葉に付随する思い出は、これっぽっちも出てこない。
「……あの。あなたのことは、何と呼べばいいですか?」
最初に「塔の魔術師」とは名乗られたが、だからと言って「塔の魔術師さん」と呼ぶのはなんだかなあと思うし、いつまでも「あなた」と他人行儀に呼び続けるのも、やっぱりなあという気持ちである。
「好きに呼べばいい。どうせこの塔には俺とお前しかいないんだから、どう呼ぼうが同じだ」
彼は興味がなさそうに言った。まあ確かに、お互いしか人間がいない状況では、究極的には名前が無くても不便ではないのだけれど。
「では、さっきみたいに『先生』と呼んでもいいですか?」
私の提案に、彼はぎょっとした顔で固まった。図々しい申し出だったかなと後悔したが、やがて彼はどうでもよさそうな表情に戻り、「好きに呼べばいい」と、同じことを繰り返した。許可が出たので、さっそく呼び掛けてみる。
「先生」
「……。……。なんだ」
謎の間があったうえにものすごく渋い顔をされたけれど、ちゃんと返事をしてくれた。その様子が、なんだか彼なりの照れであるように感じて、年上の男性に抱く感情として妥当なものではないかも知れないけれど、ちょっと微笑ましかった。
そして微笑ましさ以上に、「先生」という呼び掛けに返事をしてくれる存在がいることに、なぜか堪らない安堵を覚えた。
「先生」
「だからなんだ、ジル」
お互いに呼び方の決まったところで、さっそく先生にどうしても申し出るべきことが発生した。
「……お手洗いってどこですか?」