■13.破綻
「先生。外れのパンを引きました。黒こげです……」
「自惚れるな。俺はカビ付きを引いたことがある」
いつも通りの朝食を終えて、いつも通りに食後の紅茶を淹れる。数々の厳しい指導を経て、今や私の紅茶は先生が淹れた並みに美味しくなった。
「ジル」
「はい、先生」
「お前が塔に来て、明日で一年が経つ」
「もうそんなに。一年って早いですね」
「何か欲しいものはあるか」
「……それは、お祝い的な……?」
「なんだ、まあ、あれだ、普通の連中は生まれた日を毎年祝うんだろ。どうせお前は自分の生まれた日だって覚えちゃいないだろうから、何か祝うならお前が塔に来た日でいいだろうと思っただけだ」
「先生にも誕生日を祝おうという人並みの概念があったんですね……!」
「分かった祝いの品は牛乳を拭いた雑巾にする」
「嘘ですごめんなさい。欲しいものは……この首飾りだけで、一生分くらいもらった気持ちなのですが」
「それは別に全く別に全然特別な気持ちを込めた贈り物などではなく、ただの単なる雑用係の業務上に必要な備品としての支給だから、祝いの品には計上しない。だからさっさと欲しいものを挙げろ」
「じゃあ、えっと……ベッドとか?」
「ベッド?」
「物置部屋の捜索を続けているのですが、未だに見つからないんですよねー……」
「使ってないベッドなら、確か天蓋付きのやけに豪華なやつがあったはずだ。教えなかったか? 必ず悪夢が見れる感じの」
「悪夢が見れない感じのベッドでお願いします」
「あれ以外だと……うーん……分かった、あとで探してやる。お祝いだからな」
「ありがとうございます。ちなみに、先生の誕生日はいつだったんですか? 何のお祝いもしていない気が……」
「自分が生まれた日など知らん」
「そうですか。だったら、私だけお祝いの品をいただくのは気が引けちゃいますね」
「冬に襟巻をくれただろ。あれでいい」
「先生、あの襟巻すごく気に入ってくれてますね。編んだ甲斐がありました」
「別に気に入ってなどない。他に適当な防寒具がなかったから毎日つけていただけだ」
「ふふ、そうですか」
いつもより少し長い朝食後のやりとりを終えて、それからはいつも通り、洗濯をしたり、掃除をしたりして。
「ジル」
「はい、先生」
「一階に行くぞ」
最初に塔で目覚めて以降、一度も近づくことのなかった一階に、この日初めて、再び降りることになった。
久しぶりに見る塔の一階は、相変わらず殺風景な、がらんと広い空間だった。
ただ前回と異なっているのは、家具が一つだけ増えていることだった。革張りの立派な椅子が一脚、ぽつんと置かれている。
「座れ」
言われた通りに椅子に腰掛けた。肘掛けに手を置けと言われ、やっぱりその通りにする。
「一体なんですか?」
「大人しくしていろ」
先生がすいっと指を動かすと、どこからか帯が現れて、私の手足を椅子に縛りつけた。痛くはないのだけれど動かすことはできない、そんな力加減である。立派で重たそうな椅子だから、私が抜け出そうと暴れたところで倒れやしないだろう。
「せ、先生。どうしたんですか。なぜ私を椅子に縛るのですか」
もしや先生が特殊な性癖に目覚めてしまったのではないかと焦る私に、彼はやけに凪いだ声で、「ジル」と言った。
「記憶を操作する魔術は非常に難しい」
「……?」
「その人間の根幹に関わるような記憶を消すとなれば、なおさらだ。消すと言っても完全な消去などできない。そんなことをしたら精神が壊れる。だから記憶を奪いたいのなら『消す』ではなく、『思い出せないようにする』という方法を取ることになる」
「先生?」
「それでも魔術の効果はせいぜい一年が限度だ。だから、継続して記憶を奪い続けたいなら、一度解除して再び掛け直す作業が要る」
「先生」
先生の様子がおかしい。先生が唐突に魔術の講釈を始めることはよくあることだから、違和感はそこじゃない。
向けられる眼差しが、見たことのない種類のものだった。
嘲るものでもなく、意地悪なものでもなく、憐憫に近いようで、哀悼に近いようで、そのどれでもない種類の。
ふいに、床が淡く光り始めた。そこで初めて、椅子を中心として床に術式が描かれていたことに気が付いた。
「……あの時は準備も何もなしに力技で記憶を弄ったから、綻びができてしまった。お前がすぐに自分の名を思い出すものだから失敗したのかと焦ったし、時々ぼんやりしていたし、いつ記憶が戻るか心配だった。だから今度はちゃんと準備をした」
「何を」
先生は、微かに笑みを浮かべていた。
「なぜ椅子に縛るのかと訊いたな」
そして、私の額に触れた。驚くほどの優しさで。
「記憶が戻った瞬間、お前は俺を殺そうとするからだよ」
***
誰かが塔に侵入した気配に、塔の魔術師は気が付きました。
この塔には誰も入ることができない強力な魔術が掛けられていましたが、侵入者はそれをすり抜けてきたようです。
彼は大変驚きましたが、同時に、あり得ないことではない、と考えました。
この塔に掛けられた魔術の最も重要な役割は、「出ることを禁じる」という部分です。ゆえに「入る」だけなら、才ある魔術師であれば相応の代償を払えば可能である、というのが彼の見解でした。
相応の代償――才ある魔術師が、その天賦と努力を全て投げ捨て、魔力を失うこと。
そして言うまでもなく、一度入ってしまえば、二度と出られなくなること。
そんな馬鹿なことをする魔術師がいるのだろうか。
彼が塔の一階へ向かうと、はたして一人の少女が立っていました。
桃色の髪をした少女はナイフを手にしており、彼を見つけるや、「アベル」と口にしました。
それは久しく呼ばれていない彼の名前で、彼が今まで聞いたことのないほどの憎悪に満ちた声でした。
そして少女はナイフを構えて、彼に突進してきました。
少女の声と眼差しで、彼は理解しました。
少女は、彼を殺すために塔に入ってきたのです。
魔術師の道を捨てて、これまでの研鑽を捨てて、これからの人生を捨てて。
塔に入るためには人生の全てを捨てなければいけないと分かっていて、塔に入れば二度と出られないことを分かっていて、魔術が使えなくなった魔術師がどれだけ無力かを分かっていて、ナイフ一本で「塔の魔術師」に挑むことがどれだけ無駄であるかを分かっていて、それでもやって来たのです。
彼は魔術でいとも簡単に少女からナイフを奪い、身動きを封じました。
少女が床に這いつくばったまま、「許さない」「殺してやる」「死ね、アベル」と叫ぶ声に、彼はしばらく聴き入っていました。誰かの声を聴くのは本当に久しぶりでした。こんなにも気持ちの籠もった声を向けられたのは初めてでした。
燃えるような殺意を込めた瞳で見上げてくる少女に、「なぜ来た?」と彼は問いました。
少女は、「お前は先生の仇だ」と答えました。どうやら、彼が殺してきた大勢の魔術師の中に、彼女の師がいたようです。
殺した人間の顔など全く覚えていない彼でしたが、少女の方はきっと、師を殺した男を忘れたことなど、片時もなかったのでしょう。
全てを投げ打って無謀な復讐に来た少女に、彼は今まで感じたことのない、言いようのない気持ちを抱きました。
ひどく愚かで、呆れるほどに愚かで、その愚かさが――。
違う、そんなことはどうでもいい。
ただ、もっと、彼女の。
彼は身動きの取れない少女の額に、そっと触れました。少女は師の仇に手も足も出ない悔しさにぼろぼろと涙を零しながら、「殺されたって呪い殺してやる」と、血を吐くような悲痛な声を出しました。少女があまりに見当違いなことを言うものだから、彼は笑って、「お前を殺すわけがないだろう」と返しました。
そして、少女の記憶を操作する魔術を掛け始めました。
「先生、先生……ごめんなさい、先生……」
もっとこの声を聴いていたいと、そう思いながら。
***
「……あ」
奪われていた記憶が戻った少女は、ぼんやりと顔を上げ、目の前の男と目が合った瞬間、激情に言葉を失いました。
それは、あまりに大きな憎悪と後悔と屈辱でした。
復讐するはずの相手を「先生」と呼んで慕う自分は、どれほど滑稽だっただろうかと。
「思い出したか?」
「……っ」
嘲笑を浮かべる男に、少女は荒れ狂う感情を憎悪の一点に収束させ、強い殺意が宿る目で睨み返しました。彼が少女に向ける笑みは、決して嘲りなどではなく、誰が見ても少女を深く慈しむものだということに、当の少女が気付くことはありません。
「……死ね、アベル」
やがて、少女は絞り出すように声を発しました。彼女が目の前の男に望むことはそれだけで、それ以外の言葉は必要ありませんでした。
何も言わない男に、少女はもう一度「死ね」と言いました。
どうしても殺せない、どうしても殺したいこの男に、ありったけの憎悪を込めて。
大切な「先生」の仇を討てず、あまつさえこの男を「先生」と呼んでしまった自分の愚かさに、涙を流しながら。
彼は椅子の前に膝を着いて、とめどない涙に濡れる少女の頬に、優しく手を添えました。彼は「ジル」と穏やかに呼び掛けました。少女は「死ね」と返しました。
「塔に入る奴がいるなんて思わなかった」
「死ね」
「毎日話し相手がいるのは変な感じだった」
「死ね」
「お前はここを出たいなんて一度も言わなかった」
「死ね」
「この塔が楽園だと言われた時には、本物の馬鹿だと思ったよ」
「死ね」
「ジル」
「アベル」
「愛してる」
「殺してやる」
彼は再び、少女の額に触れました。
一番大切な宝物にそうするように、心から愛おしそうに。
「お前の言う通りだった。ここは確かに、楽園だ」
次話、最終回です。




