■12.ここが楽園に違いない
「んー……んうー……」
届かない。
先生に「本部屋にある赤い棚の一番上の黒い本を持ってこい」と命じられてやって来たものの、手が届かない。限界まで背伸びをしてみたけれど、ふくらはぎを鍛えるに終わっただけだった。
本日の先生は朝からどこか落ち着きがなく、しかし妙に物静かで、ほとんど私に話しかけないまま、夜になってしまった。
いつも何やかんやと私を呼んでは雑用を命じる先生が今日は何も言わないものだから、私も一日中そわそわしていたのだけれど、夕食後にやっと「本を持ってこい」と言われて、張り切って取りに来たわけである。が、届かない。
手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねていたら、本部屋の扉がバンと乱暴に開かれて、「遅い」と不機嫌な声が飛んできた。
「本を一冊取るのにどれだけ時間を掛ける気だ、このナメクジめ。いやナメクジに頼んだ方が早いくらいだ。ナメクジ以下め」
「ナ、ナメクジ以下」
あんまりである。やっとまともに話しかけてくれたと思ったらナメクジ以下扱いである。振り返り、腕を組んで不満そうに私を睨む先生に文句を返した。
「だって、本棚が高過ぎるんです。こんなの誰だって届きませんよ。先生はどんな場所にある本でも魔術でほいほい取れるからって……」
先生は無言で私の隣に立つと、普通に腕を伸ばして、普通に目当ての本を掴み、普通に棚から抜き取った。
「魔術がなんだって?」
「……。いえ」
単に己の背が低いだけだったという事実に打ちのめされて俯いた。
と、普段ならここで「俯いてどうした? つむじが右巻きか左巻きか確認して欲しいのか? それなら別に俯かなくてもいい、お前のつむじなら普段からよく見える。小さき者の特権だな」くらいの追い打ちを滑らかに掛けてくる先生が、何も言わない。
先生は無言のまま、その場で本を開いた。けれどすぐに閉じて、元の場所に戻す。
その本が読みたかったのでは……と首を傾げていたら、先生は咳払いをして、それからいつも通りの不機嫌そうな顔で、尊大に私を見下ろした。
「ジル」
「はい」
「魔具ができた」
どうやら朝からそわそわしていたのは、これを切り出す機会を窺っていたらしい。
私に本を取りに行かせたのも、たぶん心構えの時間が欲しかったのだろう。私があまりに帰って来るのが遅いので、痺れを切らしたみたいだけれど。
先生はローブのポケットに手を突っ込んで、中のものを私に押し付けるように渡した。受け取った魔具を見て、「わあ」と感嘆の声が出た。
それはとても綺麗な首飾りだった。細い金色の鎖の先に、蝶の形をした桃色の石が付いている。石を照明にかざすと、中にたくさんの星が詰まっているかのように、きらきらと光の粒が輝いた。
「可愛いです! すごいです! 可愛いです!」
首飾りを掲げて興奮する私に、先生は「うるさい黙れ見た目なんてどうでもいいだろ」と、早口で言った。
「嬉しいです。私、とんでもなく奇怪な呪物のごとき首飾りが出来上がるんじゃないかって、半分くらいは諦めていたんですけれど、先生にこんなに可愛らしい首飾りを作る感性があったなんて……!」
「分かった。とんでもなく奇怪な呪物のごとき首飾りに作り直す。返せ」
「嘘ですごめんなさい先生を信じてましたさすがです先生」
奪われる前に、急いで首飾りを身に着ける。留め具でもたもたしていたら、見かねた先生が手伝ってくれた。胸元にとまる綺麗な蝶が嬉しくて、思わず顔がにやけてしまう。
「……そんなに嬉しいか」
「桶いっぱいのプリンを作りたいくらいです」
「言質は取ったからな。作れよ」
そこで先生はようやく微かな笑みを見せて、それから私の手を取って、すたすたと歩き出した。先生に手を繋がれるのは初めてだと思いながら、手を引かれるままに階段に出る。
「動作確認だ。浮かんでみろ」
動作確認。そうだった、可愛らしさに浮かれていたけれど、この魔具が作られた目的の一つは「私が飛行魔術を使えるようにするため」なのだ。
「えっと……浮かぶって、どうすればいいんでしょう」
「こうだ」
そう言って、先生は私と手を繋いだまま、自分だけふわりと少し浮かんだ。こうと言われても全く分からないのだけれど、なるようになれと思って、ぴょんとその場で跳んでみた。
すると、本来なら重力に従ってすぐに着地するはずの身体が、跳んだ高さのままふわりと維持された。首飾りに目を遣ると、蝶がほんのりと光っている。飛行魔術が無事に作動しているらしい。感動の面持ちで先生を見た。
「浮かびました」
「見れば分かる」
先生は私の手を引いて、ゆっくりと上昇を始めた。塔の中心を二人で昇っていく。
しばらくそうしてから、唐突に「離すぞ」と言われ、「えっ、ちょっ、待ってください」という制止を軽やかに無視して、手が離された。
落下の危険にぎゅっと目を瞑ったけれど、ちゃんと身体は浮かんだままで、上へ行きたいと念じてみたら、ゆるゆると上昇を始めた。少し先を飛ぶ先生を、誇らしげな気持ちで見上げる。
「飛べました」
「見れば分かる」
それから先生はすいすいと、私はゆるゆると上昇を続け、ついに屋上に辿り着いた。広い夜空を見上げる。満天の星が綺麗だった。そう言えば、夜に屋上に来るのは初めてだ。
「お前の飛行速度があまりに遅いから日が暮れてしまった」
「元から日は暮れてましたよ」
「まあ初めての飛行にしては筋が良い方だと思うが」
「それは光栄です」
星明かりに包まれた屋上は、昼間とはまた違った美しさがあった。しばらく夜空を眺めてから、隣に立つ先生に視線を移す。
「ねえ先生、どうして蝶なんですか?」
首飾りに手を添えて訊ねると、先生は少し、決まり悪そうな顔になった。
「初めて屋上を見せてやった時、お前が花の中であっちこっち動き回ったから」
「……?」
「だから、蝶みたいだと思った。……花なんかで馬鹿みたいにはしゃぎ回れるのはお前か蝶くらいだという意味だ。お前を馬鹿にしている以上の意味はない」
先生が私に対して、蝶のように綺麗なものを思い浮かべながら首飾りを作ってくれたのだと思うと、ほんのりと頬が熱くなった。
「そういうわけで別に深い意味はないから、蝶が嫌なら作り替えてやるが」
「いいえ。好きですよ。大好きです」
首飾りをぎゅっと握って答える。私があまりに嬉しそうに笑っていたからだろう、先生はきょとんとして、「ジルはそんなに蝶が好きなのか」と言った。
「はい。だから嬉しいです。ずっと大事にします」
「……当たり前だ。わざわざ俺が作ってやったんだから。久々に魔具を作ったから加減を思い出すのに苦労して、魔術書を引っ張り出したり、追加で材料が必要になるたびにお前が寝てる間に採取したり、大変だったんだからな」
「後半にとても不穏な話があった気がしたのですが聞かなかったことにしますね」
よくぞあの材料とあの怪しい部屋からこんなに可愛らしい首飾りが生まれたものだ……と遠い目をしていたら、先生が何も言わずに歩き始めた。
ついてこいという意味だと思うのでついていくと、先生は花畑の中心で立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「蝶が好きだと言うから」
先生は何もない所へ、片手を差し出した。すると、手の平から光の玉が生まれ、それが蝶の形になって羽ばたいた。先生の手から次々に光の蝶が生まれては、夜の花畑を舞っていく。
やがて、飛ぶものがいないはずの塔の花畑に、蝶が溢れた。
それはとても幻想的な光景で、心を奪うには充分で、いつか昼の屋上でここが楽園だと口にしたことがあったけれど、きっと私はこれから楽園という言葉を想うときには、この光景を瞼の裏に浮かべるのだと思った。
「先生」
「なんだ」
「楽園というのは、とても美しい場所だそうです」
「そうか」
「ここは世界で一番美しい場所ですね」
先生はいつかのように、「お前は外の世界を知らないからそんなことを言えるのだ」とは言わなかった。その代わり、ただ優しく笑って、「そうだな」と答えた。




