◆ ささはると百錬
午前五時五十分、ささはるは跳ね起きた。彦一の夢にうなされ汗びっしょりだ。目覚まし時計がなる時間まで、まだしばらく間があったが、汗を吸った寝巻きが気持ち悪かった。家族を起こすのに気兼ねして、物音を立てないように、ごそごそと起き出し、静かに朝食をとる。
学校の準備も整ったので、ずいぶん早いが家を出た。遠回りだが関帝廟に寄っておきたかったからだ。いつもと同じ道を歩き、同じ風景を見ているが、今日のささはるは何かに縛られてあまり気が晴れない。足元に散ったサクラばかりが目に付くのは、普段より視線が落ちているからだろうか? 百錬がデンデラ龍の件に対して、しつこく重要と言っていた意味がなんとなく解ってきた。
あれはとんでもなく怖ろしいものだ。今、この現代に現れたとしたらどうなるのだろう? 現代の軍事や、兵器に知識の乏しいささはるにはそこから先が予測できない。それにしてもあれほど凶悪な事件の記録がなぜ現代に残っていないのだろう? 今まで聞いた事もない事件だ。ささはるは夢によって疑似体験したデンデラ龍の記憶や、百錬の口から聞かされた話しを統合して繋げていくが、想像の範疇を超えていてうまくつながらない。ささはるに向かって「あなたはどうして人のために死ねるの?」と言った事と、どういった関係があるのかも解らない。
通学路をはずれ、関帝廟へ足をむけようと信号にさしかかった途端、後ろからの声に驚かされる。
「ささはる、関帝廟は八時からしか入れないわよ」
ギクッとして振り返ると、落とした視線の先に百錬がいる。相変わらず突然の出現に腹がたったが、それ以上にこちらも聞きたい事があったので、とりあえずは矛を収める。
「おはよう百錬、あんまり急に出てこないでくれ。もっと普通に声をかけてくれれば、こっちも驚かずにすむ」
「あら、私はずっとささはるの後ろを歩いていたわ。ささはるこそ、なぜ気がつかないの?」
「ずっとってどこからだよ? その辺からひょいと出てきたんだろう」
「ささはるが家を出てからここまで、ずっと一緒に居ました!」
こうやって、とんでもない事をさらりと言われても対応に困る。四十分も足早に歩く後ろを、こんな華奢な女の子が、すいすいとついてこられるものか。そもそもなんで百錬がうちを知っている。
「百錬、そういうささいな嘘をつくと、本当の事を言っても信じてもらえなくなるぞ。ただでさえ突飛も無い事ばかり言ってるんだから、ちょっと慎め」
怒気を込めて言い捨てる。普段のささはるなら他人に向かってこういう乱暴な発言はしない。まして相手が女の子なら尚更だ。しかしささはるは昨日のやりとりや、夢の件で高まった感情を抑えられずにいた。
「ささはるは家を出て、大学の横の道を選んで公園前まで出てきたわ。途中、コンビニの前の信号が点滅したのでダッシュして渡った。映画館前の信号で一回引っかかった。学生服の後ろからは、ずっと白いシャツが出たまんま! どうして私が嘘を言ってると決め付けるの?」
キッと、ささはるを睨みつけるように下から突き上げてくる。
「!……」
ささはるは言葉が出なかった。本当に百錬は、ささはるの後ろを一緒に歩いてきてたのだ。途端にひどく失礼な態度をとった自分が恥ずかしくなる。
「ゴメン、百錬。本当に気がついてなくって、てっきり嘘だと思った」
「ならいいわ。でも憶えておいて、私はささはるに嘘はついていないし、これからもつくつもりはないわ」
今まですぐ後ろを歩く人に気がつかないような事は身に覚えが無い。本当に思考のほとんどを、デンデラ龍に持っていかれてたんだろう。
「本当に疑って悪かった。そして覚えておくよ」
ささはるは素直にこの華奢な女の子にあやまった。
信号が変わり、通行人達がいっせいに歩き出す。通学前に関帝廟に立ち寄れない事がわかったので、ささはるは行く先を戻しそのまま学校へと向かう。さっきの件でちょっと気まずい思いがあったので、今度はささはるが後ろにつき、百錬の速度に合わせ歩いていく。
前を歩く百錬を、改めて見てみるとすごく小さい。百四十二~三センチぐらいだろうか?ささはると頭一個以上の差がある。その女の子が足早にキビキビと歩く姿と、大柄の男がモタモタと進む姿は、さながらコント映画の一シーンのようだった。
校門をくぐり教室に向かおうとする時、小さな疑問がささはるに浮かぶ。
「なぁ百錬は何組なの?」
「三組よ」
「え、同じクラスだったの!」
「私は二年生です」
「え!」
驚くささはるの表情に、眉をしかめる百錬。
「ささはる、関帝廟にいくんでしょう、帰りに迎えに行くわ」
そう言うと百錬は二年生の教室へと進んでいった。
その日の昼休み、ささはるはクラスで話題の中心だった。何人かの生徒が朝から百錬と通学するささはるを目撃したことが原因だ。生徒間の情報にあまり関心がないささはるは知らなかったが、百錬はこの学校のアイドルのような存在だった。 今まであまりぱっとしなかったささはるの周りにクラスの女子が集まって興味津々に百錬の事を問い詰める。男子だけではなく、女子にまで人気があるとは驚きだ。
「翁さんと登校してたって本当?」
「ああ、途中で会ったから」
「いつから知り合いなの?」
「昨日」
「翁さんって綺麗よね、中国の人って皆あんなに綺麗なのかしら?」
「え、そうかな? よくわからないや」
「翁さんってすごいお金持ちのお嬢様なんでしょう?」
「いや、知らない」
ささはるの気の無い返答に女子たちもだんだん興味をなくしていく。もともと気の利いた返答をするような性格でもないし、実際ささはるは百錬について、何も知らないので答えようが無かった。結論として同伴通学は偶然一緒に歩いてただけだという事に落ち着き、放課後になる頃にはささはるはまたウドの大木としてのポジションに戻っていた。
ホームルームが終わり、ささはるが帰り支度を始めていると、ざわついていた教室が急に静かになる。机の中の教科書をかばんに詰め込んでいるささはるの前に誰かが立ち止まった。
「ささはる、準備は終わったの?」
視線を上げると、百錬が帰り支度を終えて、ささはるを迎えに来たのだ。昼休みに女子から聞かれた事を思い出しながら見返すと、確かに人気が出そうなルックスだ。最近見かけなくなった、真っ黒で艶のある綺麗な長い髪が、更に存在感を際立たせている。
「えーささはるだってー!」
「え、翁さんがなんで?」
好奇心を抑えきれず、何人かの女子がボソッとつぶやく。その言葉が耳に入り百錬は困った表情になる。
「うん、行こうか」
ささはると共に教室を出る百錬。退出際、ドアの真下でくるりと教室の方に向き直り「皆さん、さようなら」、と軽く会釈をする。静かだった教室がどっと湧く。ささはるの予想をはるかに超えた人気ぶりだ。
「すごい、可愛い」
「びっくりするほど綺麗ね」
様々な声がここまで聞こえてくる。ささはるは明日からの学校生活に一抹の不安を感じながら下駄箱へと向かっていった。
関帝廟に向かう道、だまったままささはるの前を歩く百錬。速度が違うため、二度ほどささはるは百錬のかかとをコツンと蹴ってしまった。その度に百錬は足を速めるが、気を付けないとすぐに追いついて又かかとを蹴りそうになる。
足元ばかりに注意が行ったささはるは、信号で立ち止まった百錬の背中に突き当たってしまった。
「あっと、ゴメン……」
頭一個分以上の身長差、百錬の頭がささはるの胸に当たる。微かに漂うお香のかおリ……ささはるはその時百錬に巫女のイメージが重なった。関帝廟の巫女、翁百錬。なるほど百錬は関帝廟の巫女だったのだ。ささはるの中でいろいろな合点が噛みあい始める。ささはるはうっかり信号待ちの間、百錬の背中に密着したまま考察を続けていた。
信号が変わり、歩き出す人々。正面から渡ってくる初老の婦人がささはるに口をとがらせる。
「昼間っからベタベタしなさんな」
(しまった!)
ささはるは特に意識した訳ではない。しかし極端に近い百錬との距離が他人には『ベタベタしている』ように映っていた。
「あ、いや、これは……」
思わず出てくる言い訳じみた言葉は喧騒の中に消えていく婦人には届かなかった。
ささはるは少なからず驚いていた。自分のような朴念仁が、他人の眼にこういう風に映る事など考えた事もなかったからだ。
(まいったなぁ……)
気が付かなかったとはいえ公衆の面前で他人を不快にさせてしまった事を、ささはるは反省した。しかしどう誤解されても現実は違う。
何も聞かない百錬、聞かれた事以外には答えない百錬、二人で一緒にいてもこの距離が縮むことはない。時折、何か重大な事を言いそうなそぶりは見せるが耳を傾けると途端に口ごもってしまう。
この辺りが、ささはるの癇に障る。言いたい事があるのならはっきり言えば良いのにそれをしない。
なんだか百錬は隠し事をしているような風にも見える。ささはるに対して奥歯にものがはさまったような言い方をする。結果としてささはるもイライラして乱暴な物言いになってしまう。
悪循環している二人の関係。
(一体、僕たちはどうなるんだろう?)
小高い丘の中腹、少しづつお香のかおリが強くなっていく。石造りの広い階段を登り、朱色の大きな門をくぐるとそこは外界とは趣の異なる中華の寺、関帝廟だ。
落ち着かない気持ちのままささはるは関帝廟に到着するが、これといった目的があるわけでもない。とりあえず思考を整理するために関羽像に参拝をしたかった。
「ささはる、支度をするからちょっと待ってて」
先を歩く百錬がようやく重い口を開く。彼女にはここに来る目的があったようだ。そのままささはるを残して裏手の建物へ入っていく。
ささはるは髭のない関羽像の前にひざまづいて中華の作法でお祈りしながら行き場のない感情を整えていく。アロマテラピーのようなものだろうか? 辺りに漂うお香のおかげでささはるは眠りに落ちそうになるほど精神を弛緩する事ができた。うすぼんやりと黙祷を続けているささはるの耳に澄んだ声が届く。
「ささはる、準備が出来たわ」
声の主が百錬だという事は分かる、しかし印象が違う。
(よく通る綺麗な声だ……)
視覚を伴わずに純粋に声だけを聞いたささはるは素直に自分の偏見を認めた。ゆっくりと眼を開き声の主に振り返る。
そこにはサラリとした巫女服を着た百錬がいた。その巫女服はささはるが知っている巫女服とは幾分雰囲気が違っている。絹のように光沢があり、しっとりとした柔らかさも見て取れる。赤ではなくオレンジ色が基調になっていて文化の違いを感じさせた。
何よりも帯の位置が日本の巫女服とは違う。ちょうど鳩尾の高さで絞められた帯は百錬の胸回りを強調していた。小柄な少女だったが出るべき所はそれなりに出ているのを実感したささはるは途端に目のやり場に困ってしまう。照れて苦虫をつぶしたような表情になったささはるを見て百錬も慌て出す。
「変……かしら?」
「い、いやそんな事はない、良く似合ってる」
「そう、良かったわ、どちらかというとこっちが本当の私なの」
ぎこちないやり取りの中でささはるは初めて百錬の笑顔を見つけた。
(こういう出会いじゃなかったら案外良い友だちになれたのかもしれない)
ささはるがそう思った時、百錬から差し出された手に気がつく。条件反射でその手を握るささはる。そして、ごく自然に二人は手をつないでいた。
百錬は境内片隅のベンチまでささはるの手を引っ張っていく。引かれるままに従うささはるの手は少しづつ汗ばんでいく。
「じゃあこっちむきに座って」
指示された通り、背もたれのないベンチをまたぐように腰を下ろす。
「背中はピンとして」
「そしてさっきみたいに眼をつぶってリラックス……」
ささはるは言われるがままに眼を閉じてリラックスする。心地良い風と空気、鼻孔をくすぐる優しい香り。ささはるは再び精神の弛緩を感じ始めた。
すっと背中に何かが当たる。ゆっくりと密着してくるそれは百錬の背中。
「百錬?」
「落ち着いて……そのままゆっくりと……意識を整えて…」
ささはると百錬はお互いの背中をもたれ合わせたまま木漏れ日の中でまどろんでいく。ささはるは溶けていくような意識の中で少しづつ百錬の記憶が流れこんで来ている事を感じた。