◆ 翁百錬
どのくらいの時間が経過したのだろう。ささはるは見覚えのない一室、ソファーの上で目覚める。薄暗い部屋、窓の外で派手なネオンがチカチカと光っている。
記憶が支離滅裂だ。一体、今のは何だったんだろう?夢にしてはやけにリアルだ。踏みつけられた痛みまで覚えている。ささはるはぼうっとしながら、さっき体感した夢の記憶を整理する。
(あの怪物は一体なんだろう。……! そうだ、僕はあの女の子に刺されたんだ)
まだ死んでいない事に驚きながらも、寝たままの姿勢でおそるおそる刺された胸をなでてみる。全く痛みを感じない。それどころか制服に傷すらついてない。
ガバッとソファーから体を起こし、改めて胸回りを点検するが、制服にはなんの損傷もない。ささはるは立ち上がり、制服を脱いで自分の胸を確認する、小さな傷も痛みもない。べっとりとした寝汗が皮膚に絡んでいる。
解らない事だらけで疑問は残るが、ようやく落ち着きをとりもどしたささはるは生きていた事に対し安堵のため息を吐く。
「ふーーっ……」
そして室内にいる、さっきの小さな女の子に気がついた。
彼女はこの十二畳ほどの部屋の角にある簡素な椅子に座り、こっちを見つめている。
「お前は一体何なんだ!」
彼女の顔を見た瞬間、ついささはるは怒鳴ってしまった。しかし女の子はそれに対して、どうという風もなく、ただ一言「彦一とデンデラ龍には会ったの?」、とだけ答えた。
ささはるはギョッとした。たった今、自分が見た夢の内容を知っている、この女の子は何者なんだ。疑問が疑問を呼び、混乱したささはるはそのままさっきまで自分が寝ていたソファーにドサッと腰を落とす。
右手の親指を眉間にあてて眼をつぶる。これはささはるが落ち着きを取り戻そうとする時、無意識にやってしまう癖だ。
(僕はこの女の子に、胸を刺された……いや? 傷も何もない、本当に刺されたんだったっけ? そしてなんで、俺が見た夢の事を知っているんだ?)
しばらくの沈黙の後、気持ちを落ち着けたささはるが口を開く。
「蛇みたいな怪物に会った、そして僕は、僕じゃあない誰かのようだった」
「そう、その怪物がデンデラ龍よ、佐々良春、あなたは彦一という少年の記憶を体験したの」
(いったいこの女の子は僕の何を何処まで知っている?)いきなりフルネームで名を呼ばれた事に、ささはるは少なからず動揺してしまう。
「ここは何処なんだ、お前は誰なんだ」
「わたしは翁百錬、ここは私の部屋」
翁百錬……変わった名前だ、おそらく華僑だなとささはるは直感する。よく見渡すとベッドや机もありはするが、この事務所のような場所が自分の部屋だとは、およそ女子学生らしくない。ひどく無機質だ。
「なんで俺の事を知っている? 翁百錬」
「百錬でいいわ。私は佐々良春が生まれる前から、あなたの事を待っていたの」
「僕の事も『ささはる』でいい、話がややこしくなりそうだから、順を追って聞きたい。なぜ俺を刺した?」
次から次に疑問は出てくるが、ささはるは最初の出来事から尋ねてみる事にした。
「あれは刺したんじゃないわ、ささはるに私の魂を触れさせたの、それがイメージとして刺されたように錯覚したんでしょうね。だって体には傷ひとつないでしょう?」
「馬鹿言うな、あれは確かに本物の剣だった」
「信じる、信じないは、ささはるの勝手よ」
(僕と百錬の会話は、ちゃんと言葉のキャッチボールになっているんだろうか?僕からの質問には、間をおかずにすっと返答してくれてはいるが、その内容が一々理解できない。
そして僕の胸に突き刺さった剣の感触は、非常にリアルで……いや実体験そのものだった……ように思える。しかし外傷は全くない。信じられないが百錬の言うように、錯覚だったのだろうか?)ささはるは自問を繰り返すが自答には至らない。
「なら次だ、彦一とあの世界は一体なんだ? 百錬」
ささはるは自分の言葉が荒くなっているのがわかった、納得のいかない変な怒りと疑問がごちゃまぜになり、言葉を制御できなくなっている。
「彦一は過去に実在した人間、あの世界は三百年前のここ、長崎市よ」
「ということは、あの事件は本当にあった事なのか?」
「ええ、彦一の実体験をあなたに感じてもらったの」
さらりとすごい答えが返ってくる。そして相変わらず話がかみ合っていない。
「あの怪物はなんだ?」
「ちゃんと覚えて、重要なことよ、あの怪物はデンデラ龍。聞いた事があるはずよ」
「デンデラ龍?悪いが妖怪には詳しくない、せいぜい子供の頃に聞いていた童歌が、そんな感じだったって事くらいしか知らない」
「そう、その童歌がデンデラ龍よ」
「別にあの歌は怪物の事なんか、何も歌っちゃいない」
「ささはるその歌、歌って見せてくれる?」
なんでこんなイライラする状況で、僕が馬鹿みたいに童歌を歌わなくてはいけないんだ?
「何を言ってるんだ?まだ話が終わってない、はぐらかすのは止めてくれ」
カチンときたささはるはまた怒鳴ってしまう。
「これは重要なことなのよ、ちゃんと覚えてるの? あの歌を?」
デンデラ龍というキーワードに関して、百錬は過敏に『重要』と反応してくる。しかしささはるにとっては、今日の出来事は不可解でしかない。
「ささはる、あなたは……私と共に、あのデンデラ龍と戦わなくてはいけないの……」
真剣な顔つきで百錬が核心に迫った話を切り出した。真っ直ぐにささはるを見つめる視線には嘘や駆け引きのような、邪な意志は感じられない。だからといって『はいそうですか』、と言える様な内容でもない。ささはるはこの言葉を黙殺する事で彼女の意志を拒否した。
これ以上話を続けてもあまり意味を見出せないように感じたささはるは解散を提案する。少しは食い下がってくるかと思われた百錬だったが、すんなりとその提案を受け入れる。
部屋を出ると、さっき感じた予感は的中していた。ここは中華街にあるビルの中の一室、三階までは高級中華レストランで、四階以上が居住区になっている、百錬の部屋はその一角にあった。
百錬が華僑の娘なのは間違いないだろう。大通りの喧騒の中、自宅まで送るという百錬の申し出をささはるは辞退して歩いて帰路につく。ささはるは周りの暗さから、二時間程気を失っていた事を知る。彼にとってそれはひどく内容の濃い、理解しがたい二時間だった。