◆ 師傅(シーフー)
ぎぃぎぃと車輪が軋む。
……荷馬車に揺られ、目的地に着いたのは昼をとうに過ぎた頃だった。村からあまり離れたことの無い白蓮は途中で目に付いた大きな河や、広い畑が眼に楽しく、あまり時間の経過を感じてはいない。
たどり着いた目的地は辺鄙な町外れの小屋。小屋には大きなカマドがある、いやこれはカマドの周りに壁を作り小屋にした物だ。たくさんの薪と炭が詰まれたその小屋は炭小屋と鍛冶の工場を兼ねたような造りで、一人の老人が住んでいた。老人は上半身だけが異様にたくましく、下半身は細く頼りなげに身体を支えている。このちぐはぐな体躯と顔一杯に刻まれた無数の皺、そして皺の間には影を強調するように、煤が濃い黒色を線引いていた。
小屋の中は真っ黒な煤で染められ、かまどには火が煌煌と燃え盛っている。辺りにはものものしい兵たちがたむろし、その小屋が何か重要な施設だという事を知らせていた。
「じいさん、連れてきたぜ」兵隊が白蓮を荷馬車から降ろし老人に引き渡す。白蓮は自分や両親の予想していた神社やお宮ではなく、この炭小屋につれて来られた事にひどく狼狽した。あわてて馬車御者の袖にすがり叫ぶ。
「ここはどこですか? 何かの間違いではないでしょうか! 私は関羽さまの霊を祭るために来たんです!」
御者はにべもなくそのまま白蓮の腕を振りほどき、逃げるようにその場を立ち去った。白蓮は残った兵にあわてて駆け寄って、再び袖にすがるように叫ぶ。
「兵隊さん、ここはどこ? 何をする所?」
「悪く思うなよ娘さん、お前はここで関羽を祭る神剣の生贄になるんだ……」
途端に白蓮は目の前が真っ暗になり、へなへなと腰を落としてしまう。兵はその隙にさっと居なくなり、残ったのは老人と白蓮の二人だけになった。
白蓮はようやく自分が騙された事に気が付き、小屋の外に飛び出し懸命に駈けた。まさか偉いお役人が自分を騙すなど考えてもいなかっただけに、すっかり頭が混乱している。しかし小屋を遠巻きに見張る兵隊に捕まり、顔をガツンと殴られ小屋に連れ戻されてしまう。およそ十人ほどの武装した兵隊が小屋を見張っている……どうしようもなかった。
(なんでこんな事に? おっとう、おっかあ、私は殺される……)
「おじさん! 助けて! おじさん!」
小屋の老人にすがりつく白蓮。しかし老人もどうする事も出来ないようで、ただ静かに首を振るだけだった。逃げる事も叶わなくなった白蓮は、小屋で大声を上げて泣いた。
「うわーーん、うえーーん」
兵隊に殴られた鼻の痛みで更に悲しさが増す。
「うえーーん……」
鼻血と涙で顔をくしゃくしゃにして、恥も外聞もなく泣きじゃくる。
小屋を囲む兵たちは白蓮の鳴き声に、眼と耳を反らし近付こうともしない。ただ老人と白蓮を逃がさない、という強い意志だけは感じ取れた。
兵が近付いて来たのは夕暮れ過ぎ、食事を運ぶ時だった。一向に泣き止まない姿を見かね、老人が粥を手渡す。その手はゴツゴツとして、やさしい村人たちと同じ手だった。
「娘っこ、名前は?」
「白蓮……」
「そうか、白蓮、私に話を聞かせてくれないか?」
白蓮は自分に起った出来事を老人に語り始めた。
「ヒック……ヒック……」
涙が止まらず話もまとまらない。それでも老人は静かに、白蓮の話を聞いてくれた。
ずいぶんと時間が経ち、白蓮が話を終えた時、パチン、とかまどの火が爆ぜる。事情を聞き終わった老人は白蓮の境遇にひどく同情していた。そしてゆっくりと自分の事を話し始める。
「ワシは刀鍛冶の張、皆からは老 張と呼ばれとる……もういい年じゃ、おそらくこの仕事が最後の仕事になるじゃろう……ワシは自分が生きてきた証に、これから造る神剣に全身全霊をかけるつもりじゃ……」
老人は伏し目がちに言葉を続けていく。彼にしても百蓮に向けるべき表情を探しかねているのだ。
「白蓮、こうなってしまってはワシに出来る事はいくつもない、せめてこれをお前さんのために使わせてはくれないか?」
老人は小屋の奥のたくさんの鉄塊の中から、コロンとこぶしの半分ほどの金塊を取り出した。
「これは細工物を作る時のためにコツコツと貯めた銭で得た金じゃ……しかし、もう細工物を作る機会もないじゃろう……」
白蓮は金という物が何かは知っていたが、見るのは初めてだった。小指ほどの金細工の耳飾りでも、何千升もの粟がいるという事だが、この金塊はそれが十ほどは作れるほど大きかった。このみすぼらしいなりをした老人が持っているような物ではありえない。混乱に次ぐ混乱で、自分は頭がどうにかなってしまったのではないだろうかと、白蓮は思った。
次の日、老人は小屋の周りをうろつく兵の一人を小屋に呼び入れる。
「白蓮、この兵はワシの遠い親戚で信用できる男じゃ、お前さんの村の事や今回の事情も良く知っておる。今からお前さんのご両親に、これを届けてもらおうと思うんじゃが……」
老人は懐から昨日の金塊を取り出した。
「何か言付けはないかの?」
「えっ?」
白蓮は耳を疑った。この老人は今まで苦労して集めたこの金塊を、昨日あったばかりの自分にタダでくれようというのだ。一晩、泣いて落ち着きを取り戻した白蓮は、村や両親にこの恐ろしい厄災が及ぶことを心配した。騒ぎが広がると村の人たちまで巻き込む可能性がある……そして、両親に心配をかけたくない想いで一杯だった。
「私は巫女として都で暮らす事にします、もう村には戻らず関羽さまの霊を慰めて生涯を通すつもりです、今までありがとうございました……そう伝えてください……」
その伝言に兵隊は眉をひそめる。今から降りかかるであろう災難を両親に知らせまいとする白蓮の健気な嘘が彼の心を刺していた。兵はかける言葉を知らない。無言のまま老人から袋に入った金塊を受け取ると、そのまま村に向かって歩いていった。
その日、白蓮は老人に生贄として自分の命を捧げる決心がついた事を告げる。
「老張……いえ、張師傅、今から作る神剣に私の命を使ってください」(師傅とは職人に対し敬意を表した呼び方である、現代でも業種を問わず、中華圏ではこの呼び方を好んで使う)
そのために、ここに連れてこられたとは言え、年端もいかない少女を犠牲にすることは老張にとってかなりつらいことであった。白蓮のこの発言で幾分気が楽になったとはいえ、生贄という大儀の下にこの後殺害する少女に対し、どう返答すればよいのか判断しかねた。結局その日、老張は碌に口も聞かずカマドの掃除をしながら一日を過ごす。
翌朝、眠れぬ夜を過ごし眼を腫らせた老張は、朝食の後にようやく重い口を開いた。
「白蓮や、お前の決心、微塵も無駄にはしないよ……ワシも精一杯、自分の仕事をやらせてもらう、決めかねていた神剣の名はお前の名を取って百錬とすることにしよう。百錬とはな、小さなヒケや歪みにも決して妥協せず、何度でも練り直して……そう、百回でも練り直して仕上げようというワシの決心じゃ……」
老張は白蓮と正面から向かい合い、その全ての悲しみを、一身に受ける覚悟でこの話を切り出した。
練るという表現は現在から見ると、いたって当たり前の金属加工の表現だが、当時の主流、『銅』と違い『鋼鉄』を溶かし、叩き上げていくこの作業は気が遠くなるほどの根気と、熟練された技術を要した。その最大の原因が当時の火力にある。鋼鉄を溶かすのに必要な火力を得るために、刀匠は自分だけの技術や知識をもっていたが、その温度を創りだすのに尋常ではない体力と精神力を使う。鋼鉄の剣を一振り作る度に、その高熱と心労にあてられ老張の寿命はすでにずいぶんと縮んでいた。
そうやって完成した剣も完璧ではなく、歪みや反りが無数にある。それでも量産された銅の剣に比べれば、圧倒的な切れ味を持っているため一応の完成とするしかなかった。ここまでの剣ならば老張はすでに何十振りも作ってきた。
そしてそこから先はまだ誰も到達したことが無い領域だった。その歪みを直すためにもう一度、炎で練り直す。目標の歪みは取れるが、それに伴い新しい別の歪みが出てくる。結局どこまでやっても刀匠の求める完璧な剣『神剣』等出来ない、という当時の常識に真っ向から向かい合おうという決心だった。
小屋の中にゴロリと無造作に転がっていた石の塊は、鉄から更に硬度の高い部分だけを抽出した鋼鉄の塊、玉鋼と呼ばれる高価な貴金属だった。古来、鉄はほとんどが武器として使用されたため刃金と呼ばれたが、いつしか鋼という固有文字に変化していく。そしてその鋼の最上級の純度をもった物質がこの玉鋼だった。みかけよりずいぶん硬くて重い。白蓮はよもやこの石ころが神剣になるとは思ってもいなかった。
老人は昨日、掃除を行い綺麗になったカマドの奥から順に、形、大きさの異なる炭を配置していった。炭が詰まれた部分もあれば、地面が露出した部分もある。張師傅に言わせると、この段階である程度の温度が決まる重要な配置だそうだが、初めて眼にする白蓮にそれは理解できなかった。
半日ほどかけて緻密に炭を配置して、ようやくカマドに火が入る。この作業で二人は煤にまみれ、体中が真っ黒になる。順に裏の小川で汗と煤を落とした頃、小さな火種は次第に大きくなり火となっていた。張師傅は長い火吹き竹を豪快に吹きながら、それを炎へと変えていく、その間一時も目が離せない。
「ここでな、気を抜くと、もうカマドの温度は上がらない、もっと上げるにはここからが大変なんじゃ……」
食事も取らず、一心不乱にカマドをいじる張師傅に白蓮は献身的な世話を始める。蒸し風呂のような小屋で、汗だくになりながら作業を続ける張師傅に、必要な物が何かを考えながら黙々と働く白蓮。
何度も小川から冷たい水を汲んでは張師傅に渡す。飲んだ水はそのまま汗になって出てきてるのではないかと思うほど張師傅は大汗をかく。小屋に放られた布切れを水に浸しては汗をぬぐう。カマドの炎が業火に変わったのは日が暮れた後だった。
真っ赤になった鉄の塊をカマドから火箸で取り出し、平らな鉄台の上に添え、鎚で叩く。
カン、カン、そして時には強く、ガン、ギン、と叩く。鉄の塊は少しづつ平たくなりながら火花を散らす。
「この火花はな!」
ガン!
「鋼の中に入っていた他の脆い金属じゃ!」
ガン!力を込めた作業中は口調も強くなっている。
「こうやってこの鋼の形を変えながら弱い部分を追い出してるんじゃ!」
ガン!
そしてまたカマドに戻す。白蓮にも暗くなるにつれ、真っ赤だった炎の色が変わっていくのが解った。見たことも無い緑色の業火でひたすら焼いている。そして鉄の塊は何度かカマドと鉄台を往復するうちに細長い棒へと変わっていった。
白蓮はほぼ一日カマドの火を見つめていたため、眼がおかしくなっていた。それでもカマドと鉄台に視線を行き来させながら、張師傅の終わらない作業を見つめていた。
カン、カン……ガン!
月の無い真っ暗な闇の中でカマドの中だけに存在する明々とした業火、静寂な林の中に時折響くカンという金属音。この奇妙な空間でいつしか白蓮はウトウトと眠り込んでしまう。
「……おい、娘!爺さん!」
若い男の声で飛び上がるように目覚める白蓮。空はすでに白んでおり朝を迎えていた。
張師傅はというと火の落ちたカマドの前で力尽きたように眠っていた。そしてその傍らにはくすんだ色の刀身。声をかけたのはこの小屋を遠巻きに見張る兵の一人だ。
「……おい爺さん!朝飯だ!」
土間にゴロリところがった張師傅がムクリと起き上がる。目覚めて真っ先に視線を向けたのは、昨日打った刀身だった。スッと刀身を拾い上げ、舐めるように撫で回す。撫で回す途中、何度か険しい表情になった、おそらく不本意な箇所がいくつかあったのだろう。
「兵隊さん、ワシと娘さんに着替えを二枚づつ、あと玉鋼を一つもらってきてくれ、それとな夜には魚を出してくれ、日が暮れても仕事は続くから、出来るだけ遅めにな」
兵が用意した粥をすすりながら、ちょっと考え込んで注文を言いつける。張師傅はその日も昨日と同じようにカマドの掃除と炭の配置を黙々と始めた。昨日の仕事の流れでカマドの整備は地味だが、重要だと言う事が白蓮にも良く解っていた。
「張師傅、奥は私がやる」
狭いカマドの奥に老人の手は届かない。白蓮は率先してカマドにもぐりこんだ。意識が剣に集中しているのだろうか? 白蓮は、老人の口数が少ない事が気になった。しかし老人は老人で、白蓮の境遇の事を考えただけで言葉が出なくなっていた。
白蓮にとって神剣の完成は自分の死を意味する、にもかかわらずこの少女の健気に尽くす態度が、不憫でならなかった。
午後までかかり、また地獄のような業火を創る。汗だくになりながら業火と共に剣を叩く。
カン、カン!
焼けた剣を、水の入った桶に突っ込むとじゅわっという音と共に小屋中に蒸気がこもる。暑さも極限に達している。
カンカン、カン。
一日中休む事無く、手が止まらない。辺りが暗くなってきた頃、老人は壁に立てかけた巨大な鎚をもつ。今まで使っていた小さな鎚ではなく、一振りで小屋でも壊せるような大きな鎚だ。老人の身体に力がみなぎる。
「うーーーん、よいしょぉ」
白蓮の耳を今まで聞いた事の無い、音質の高い激音が襲う。
ガギーーン!
無理も無い事だ、白蓮のような農村の女の子には、高価な鋼が激しくぶつかり合う音など聞く機会はない。
ガギーーン!
一振りごとに輪郭のぼやけていた剣が鋭くなっていく。まるで轟音が剣の形を整えているかのようにも見える。そして大槌を振るう張師傅の姿はとても老人には見えなかった。
ガギーーン!
何度目かの振り下ろしでようやくその手は止まる。
じゅわっと桶からまた蒸気が吹き出る。目の前にいるはずの張師傅が見えなくなるほど大量の蒸気に小屋中がつつまれる。今日の作業はここまでのようだ。おぼろげだった刀身ははっきりとした剣の形になり始めていた。
「爺さん、飯と着替えだ」
待ち構えたかのような間で兵がやってくる。朝の注文どおり魚も準備してあった。
「おぉ、すまんな、フーーーーッ」
張っていた気が抜けたかのように張師傅の表情が緩む。
「白蓮や、お前も今日は大汗をかいただろう、裏手の川で汗を落としてきなさい。新しい着替えもそこにある」
老人に促されるまま行水に向かう白蓮。近くに兵たちがいるが、林の影に隠れた裏手の川は覗くことは出来ない。それでもためらいがちに煤だらけの着物を脱ぐと、ゆで卵のような白い肌が顕になる。白蓮は均整の取れた体つきでふくよかでもあり充分に女性だった。小柄で華奢な印象が、張りのある乳房や美しい腰の線を曇らせている。白蓮が真っ黒になった手を白いお腹に重ねるとずいぶん汚れていた事が分かった。同じ人間の身体だとは思えないほどに明暗がはっきりしている。
そして白蓮はもうこの身体が自分のものではない事を思い出した。生贄にしろ巫女にしろ汚れたままでは役に立たない。まだ水がひんやりとした季節だったが火照った身体を冷ましたかったのでゆっくりと川に浸かっていく。真っ黒な手足を月明かりで確認しながら丁寧に流していった。
暗がりの中で思う存分、体を洗い一日の汚れを落とす白蓮。兵たちが用意してくれた着替えは今までの着物に比べるとずいぶんと上質で肌触りが良かった。
行水を終えた白蓮と入れ違いで、張師傅も川へ向かう。
「今日も一日がんばったなぁ……ハーッ……」
一息つきながら、未完成の剣に眼を向ける白蓮。まだおぼろげな印象しかないが、ずいぶんと今まで見た剣と趣が違う。なにしろ大きい。
これがどういった剣に仕上がるのか想いを巡らせていると、張師傅も行水を終え帰ってきた。手には見慣れぬ瓢箪をもっている。白蓮の視線に気が付いた張師傅が照れくさそうに言った。
「ふふ……向こうの兵から、ちょっとばかし酒を分けてもらったんじゃよ」
魚を箸でつまみながら瓢箪を傾ける張師傅がポツリポツリと話を始めた。
「関羽さまというのはな、それは身体の大きな人だったらしい……普通の剣では一振り、二振りもすれば曲がってしまうほど力も強かったそうな……その関羽さまを慰めるための剣じゃ、ワシは関羽さまに負けないくらい、大きくて硬い剣を造るつもりだったんじゃ、しかし白蓮、お前さんを見てちょっと考えが変わったよ……」
「えっ?」
急に自分の名前が出てきたので白蓮はちょっといぶかしんだ。
「いや、なに、この剣を大きくて硬いだけじゃなく、お前さんみたいに美しくしようと思ってな……」
「まぁ、巫女冥利……いや生贄冥利につきますね」
自分の口から咄嗟に出た『生贄』という言葉の生々しさが場を包んだ。生気を失っていく白蓮を気遣う様に、張師傅は話を続けた。
「美しい剣というのはな、人によっていろいろ捉え方があるじゃろうが、ワシは機能的な美しさが一番じゃと思っとる。例えばそこの魚がのった皿、美しい皿というのは、第一に使い勝手がかなっているかどうかが重要じゃ、その皿を美しくしようと、宝石や金をちりばめてもそれはすでに皿ではない、その皿に盛られた料理は、色を失ってしまい意味がないのじゃ。剣も同じじゃ、御神剣といえどもなまくらではいかん、岩でも切り裂く位の力強さがないと、ただの飾りじゃ。キラキラと輝く煌びやかな剣ではなく、どこにでもありそうだが、一目見ただけで眼を引き付けて離さないような美しい剣……」
酒が入り饒舌になった張師傅は御神剣に対する思い入れを熱く語った。
そこへ突然の来訪者が現れる。
「老張、白蓮、今戻った!」目の前には埃と泥にまみれた兵。白蓮の両親を訪ねに行った兵だ。馬を使えるほど高い身分ではなく、徒歩での行程のため時間を食っていた。
「おっとおは? おっかあは?」
突然、白蓮の口をついた言葉に気おされながらも、落ち着いた口調で対応する若い兵。
「白蓮、お前さんのご両親も村も無事だ、むしろ何も無かったかのように平穏だった。おそらくはこれからも……」
ホッと胸をなでおろす白蓮、今まで毅然を装っていたが、兵を見た瞬間、右手が自分の胸を押さえていた。無意識に動悸を押さえるその動作から、白蓮がずいぶんと両親を心配していた事を張師傅は痛感した。
「あの金塊は無事、渡せた。お父さんもお母さんも眼を白黒して驚いてたよ、大事に使うから白蓮によろしく伝えてくれ、と言付かっている」
「それとこれを預かったので渡しておく……」
兵はそういって欠けた茶碗と竹片を懐から取り出した。荒く削られた竹は紙の代用品として使われたものだ、削られた白地に、形の揃わない文字が記されている。『謝謝白蓮』と、だけ書かれている。兵はこの竹片を白蓮の父が書き上げる時の様子をつぶさに語った。隣村の商人に墨を借りに走ったり、博識な老人に文字を習ったり、この竹片の前に何度も書き損じをしてずいぶんと時間がかかった事等を、まるでその場に父がいるかのように克明に白蓮に伝えた。
母にいたっては、白蓮に与えてあげられるものが何も無いことを恥じながら、この欠けた茶碗を持たせたという。白蓮が実家で両親と使っていた粗末な、そして見慣れた欠けた茶碗。
茶碗と竹片を胸に抱きながら、ボソッとつぶやく白蓮。
「私は……何もいらないのに……」
うつむいた両眼からは、はらはらと涙がこぼれていた。
両親の無事とひたむきな思いやりに感極まった白蓮が張師傅と兵に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます。縁もゆかりも無い私のためにこんなに良くしてくれて本当にありがとうございます」
他にも何か言っていたが涙としゃっくりに邪魔され言葉になっていない。張師傅も眼を潤ませながら白蓮の言葉にうなづいている。この時、白蓮は自分だけでこの不運を絶ち切ってしまわなければならないと思った。決して村や両親に危害を及ばせてはならない。生贄としての大役を果たしきり張師傅の役に立って死のう、と心に誓う。
翌日から白蓮は更に積極的に張師傅の鍛冶仕事に従事する。
ガン!カン!キン!
毎日違う音色を叩き出しながら作業を続ける。剣を叩くうち飛び散る火花の量が減っていく、刀身内の不純物が以前に比べ格段に減っているようだ。そして毎日おこされるカマドの業火で炭小屋の蓄積がどんどん減っていく、一体この一本の御神剣を造るのにどれだけの炭が消費されるのだろう?
改めて白蓮は御神剣とは途方も無い物だと感じた。
遠雷の響く、ある夜更け御神剣は一応の完成を遂げた。張師傅にとっては今後も無数に続く修正を考慮しているため完成という認識は全く無い。だが白蓮にとってはこの形はまさしく剣であり一つの完成形であった。この大振りで力強い形、張師傅がすらりと鞘から抜くとその滑らかな刀身からは表現できない艶やかな気品のような物を感じる。これが張師傅の言っていた美しさという物だろうか? 何の装飾も無いこの剣から不思議な魅力が伝わってくる。
しかし張師傅の表情は険しいまま晴れてはいない、親指の腹で表面をなでながらため息を何度もついていた。
「関羽さまは青龍偃月刀という大きな槍のような刀を持っておられた。きっとご自身が清い龍のようにありたいと思っていたんじゃろう」
白蓮は時折、張師傅が話す関羽さまの話でこの部分が好きだった。まるで自分が龍を鎮める、刀を抱いた巫女のようではないか。
白蓮は張師傅が神剣を練り上げるように、少しづつではあるが御神剣への生贄としての精神状態を高めていった。折角、張師傅が素晴らしい御神剣を造ってくれても肝心の自分の気持ちに不純物が混じっていては全てが台無しになってしまう。生贄として天に召す瞬間まで関羽さまを鎮める事のみに意識を高めようと決めていた。
次の日、張師傅の振る大鎚に更に力がこもる。
ガギーーーン!
御神剣の真ん中をまるで今からへし折るんではないだろうかと言うほど思いっきり叩く。修正と呼ぶよりむしろこれからが本番のような雰囲気だ。張師傅は何度も何度もすごい力で刀を叩いていく。
ガギーーーン!
ガギーーーン!
なぜだろう? 耳を劈くような甲高い金属音を聞きながら百錬は思った。鎚で叩く度に形が整っていく。あんなに力任せに打ち付けても歪ませる事しか出来ないはずだ。しかし目の前の現実はそうではない、面は少しづつ平らに、線は少しづつ真っ直ぐに修正されていく。整っていない部分を見分ける眼、そこへ正確に、必要な分だけ力を与える感覚。それをこの熱気の中でこなしているのだ、きっと途方もない集中力と経験だけが成し得る高度な技術に違いない。その張師傅の力を吸収するように、どんどんと鋭さと力強さを増していく御神剣。まるで鬼のような形相で一心不乱に大鎚を振るう張師傅に白蓮は声をかける事も出来なくなっていた。張師傅もまた白蓮と同じくこの御神剣に命を吸い取られているのだった。
小屋を取り巻く木々の色が紅く変わり始める。季節がまた変わり始めていた。もう何度、御神剣を打ち直したのだろう? すでに当事者である白蓮にもわからなくなっていた。炭小屋につまれた炭はなくなる度にまた山と詰まれそして無くなっていく。もう小さな丘が出来るくらいは炭を消費したんではないだろうか? 冗談のような錯覚を感じるほど叩き直しは続いた。張師傅は毎日、御神剣をなでながら落ち込んだり機嫌が良くなったりと御神剣の微妙な変化を感じていた。
張師傅はこの半年でずいぶんと痩せた。しかし眼光は以前より鋭くなりまるで地獄の餓鬼のような風体に変わりつつあった。そして御神剣は次第に生気を感じるほどに鍛え上げられていた。
半年もの間、職人を雇用し、小屋を取り巻く兵を雇用する。資材、食料、経費をふんだんに使うこの任務を遂行させているのは呉王の関羽に対する恐れだった。それだけに時間に対しては苛立ちを隠さない。呉王は一刻も早くこの御神剣が必要だったのだ。この作業が始まって一月ほどした頃から役人が間を空けず御神剣の完成を催促に来る。
張師傅はその度に眼を剥いて追い払っていたものだ。しかし半年にもなるとそうもいかない、役人も自分の生命に関わる事なので必死になっている。脅したり、なだめすかしたり様々な手段で御神剣の完成を急がせる役人。しかし張師傅は決して妥協をせず身を削るような想いでこの剣を造っている。職人が一振りの鋼の剣を造るのに要するのがおよそ三日。御神剣とはいえ、まさか半年も時間がかかるなどと役人は思ってもいなかった。
あせる呉王の勅令に震え上がる役人、しかし張師傅は一切の妥協をしない。役人は連日むなしく子供の使いのような報告を重ねる事しか出来なかった。いよいよ何人か役人の首が飛ぶのではないかと思われた時、初めて張師傅から完成予定が知らされた。報告を受けた役人が張師傅の鍛冶場まで飛んできた。
「あと一週間ちょうどだ、これから仕上げの化粧研ぎに入るからこの小屋に近付くな」殺気立った張師傅に、この答えをもらいようやく役人たちは首が繋がった気がした。
化粧研ぎ、剣の製造における最後の仕上げだ。ここに来るまでに張師傅も白蓮もすでに疲労の極限に達している。ただ疲労の溜まった白蓮を生贄に使う事は一流の刀匠としてはばかられた。ここからは化粧研ぎと白蓮の養生が中心となる。
シャーッ……シャーッ……
ゆっくりと刀身を研いでいく、もう鎚を振り回したり火をおこしたりする作業はない。只静かに丁寧に刀身を研いでいく。
張師傅と同じように土間に腰掛け、開け放された外を見つめる白蓮。すでに小屋の周りは紅葉が始まり、落ちていく様とその色合いが白蓮にもこれから訪れる死を感じさせていた。
シャーッ……シャーッ……
近頃めっきり口数が少なくなっていた張師傅が珍しく口を開く。
「白蓮、ここから先はもうお前さんに手伝ってもらう事はない、最後の瞬間までゆっくりと養生しておくれ……」
「はい……」
シャーッ……シャーッ……
話し辛い内容なのだろう、張師傅は作業をしながら、白蓮の方を向かずに言葉を続ける。
「この剣は最後にな……お前さんの魂を吹き込んで……完成するんじゃ……ワシはこの仕上げが終わったら、この剣でお前さんの胸、心臓を突く……」
「はい……」
張師傅の手がゆっくりと止まる。
「ウッ……ウッ……く、苦しまないように……ひ、一突きで殺して……殺してみせる……ウッ……」
「張師傅?」
「ウオォーン……ウオォーン……」
途端に大声で泣き始める張師傅。
「どうして……お、お前さんのような良い娘が……死ななくてはならんのじゃ……それもワシが殺さなくてはならない……ワ、ワシは、こんな、こんな事のために鍛冶職人になったんじゃない……ウオォーン……」
張師傅の悲しみも極限に達していた。
「張師傅……私は誰も恨んだりしていません、ただ関羽さまの魂を弔う事だけが私の望みです……ですから……私を殺す事を気にしないでください……」
老人の心の叫びに白蓮はただ素直に自分の心境を伝えた。それから老人は時折、むせび泣く事もあったが、一心不乱に研ぎの手を止めなかった。
五日を経た後、御神剣の化粧研ぎが終わった。結局この五日というもの、張師傅も白蓮も口を開く事無く、お互いの役目に従事していた。しかしそれも、この作業の終了でその沈黙も終わりを告げた。
「白蓮、これが……これが今からお前さんの魂を吸う御神剣、百錬じゃ……最初の約束どおり、この剣にワシは一切の妥協をしておらん、すでに叩きなおした数は百を超えておるじゃろう……よく見ておくれ、ワシが命の半分ほども捧げたこの剣を……」
張師傅は白蓮の目の前で御神剣を抜く。その刀身は愚直なまでに真っ直ぐで、わずかな反りもヒケもない。この時代、正確な直線に加工する技術はいかなる素材でも存在しない。しかし目の前にあるこの御神剣は妥協のない直線と凛とした平面で出来ている。時として職人と呼ばれる人間の能力は現代社会の精密機器の性能を越える事がある。その表面は鏡のようにつるつると馴らされており僅かな凹凸もない。そして不思議な色気を感じる……この剣は兵器としての鋭さと、造り手のやさしさが両立していた。なんという事だろう、白蓮はその生涯でここまで完成度の高い造形物を見た事がない。そして張師傅もまた見た事がなかった。
(これが張師傅の言う、美しさという物だったのか……死ぬ前に本当の『美』を知る事が出来て良かった)
白蓮は心底、陶酔し、感動した。
その日、張師傅は小屋の掃除をし、土間に簡素な祭壇を作った。九本の細い支柱を円状に組み、その中心に白蓮を座らせる。白蓮はこの日のために用意された白装束を纏っていた。
「準備は……良いか?」
涙が枯れ、眼を腫らした張師傅が、小さな低い声で白蓮に問う。
「はい……短い間ですが、今まで良くしていただきありがとうございました……」
正座したまま深く頭を下げる白蓮、張師傅は眼をつぶり、うなだれながらその言葉を聞いていた。
「……」
しばらくの沈黙の後、張師傅が口を開く。
「では、これより御神剣、百錬完成のため最後の生贄の儀式、魂混を行う」
白蓮はそっと目を閉じ、関羽さまを弔う事のみを考える。頭の中には張師傅に聞かされた、青い龍を祭る巫女姿の自分が浮かぶ。その瞬間ずしりという衝撃が左胸に走る。
感触は胸から背中に伝わり胸を貫かれた事が解った。しかし白蓮は眼を開けない。視覚から来る雑念を嫌ったためだ。言葉にならない痛みが体中に伝わる……痛みを感じてはだめだ……関羽さまを弔うことを考えなくては……
「関羽さま、関羽さま、関羽さま……」
次第に意識が薄くなっていく。
「関羽……さま……」
白蓮は関羽の事のみを想ったまま絶命した……
張師傅は絶命した白蓮の遺骸からズルリと御神剣を抜いた。すでに生命活動は止まっているため血が噴出すような事はなく、ただどろりと胸からあふれるだけだった。御神剣を抜いた白蓮の遺骸はそのまま力なくつっぷした姿になり、まるで死後も関羽を弔っているかのようだった。
張師傅は血に濡れた御神剣をそのまま白蓮の遺骸に抱かせ、この形を崩さないように祭壇ごと火床に変えていく。このまま骨も残さず焼き尽くす事でこの儀式は終了する。白蓮が命を投げ出して始めたこの儀式を失敗する訳にはいかない。張師傅は目の前ですでにものを言わなくなった白蓮に話しかける。
「立派な最後じゃ……本当に立派な最後じゃ……」
そう言いながら丁寧に炭をならべ、火床になった小さな祭壇に火をつける。小さな火は次第に炎へと変わり白蓮を焼いていく。つい先日まで、一緒にこの炎を作っていた白蓮の変わり果てた姿に悲しみが止まらない。枯れたと思っていた張師傅の眼から再び涙が溢れ出す。
張師傅の手によって炎は業火へと変わっていく。その作業は深夜になっても終わらない。普段はついぞ見かけることの無い業火は青から紫、そして緑色へとその姿を変えていく。張師傅はそれでもこの作業を止めない。そして空が白む頃、ようやく張師傅の手は止まった。
張師傅はその業火の前で正座して黙祷を始める。最後の日が消えるまで黙祷は続く、夜になり朝が来て、昼になりそしてまた夜になる頃、最後の火は消えた。そして張師傅の永い黙祷は終わる。
「こ、これにて! 御神剣、百錬の生贄の……生贄の儀式、魂混を終了する!」
かすれた声でそれだけ叫ぶと火床の中心部からまだ熱さの抜けない御神剣を取り出し、丁寧にその周りの灰を集める。煤で真っ黒になった御神剣を、集めた灰と水で丁寧に洗い清める。
御神剣を洗いながらこの灰が白蓮だった事を思うとまた涙が出てきた。悲しみを押さえながら、御神剣を洗っていくうちに張師傅はハッとする。
その濡れたような刀身は水のせいだけではない、刀身を拭ってもその表面は常に濡れたように艶やかさを保っている。これこそが張師傅が夢に思い描いた御神剣の姿だった。最後の最後に張師傅の顔に笑顔が戻る。
「や、やった……御神剣に魂が宿った! ご、御神剣に白蓮の魂が宿りおった! うおぉぉ……」
張師傅はたった今、誕生したばかりの御神剣『百錬』を抱きしめて大泣きした。その涙は嬉しい涙なのか悲しい涙だったのか本人すら理解できない複雑な涙だった。
翌朝、約束の一週間目の日、一番鶏の鳴き声と共に、何人もの役人たちが馬を飛ばし、この鍛冶小屋を訪れる。彼らは彼らでこの一週間という時間を一日千秋の思いで待ちかねていたのだ。
コンコンと締め切られた戸を叩く役人。
「老張?御神剣は出来上がったのかい?老張」
「これであんたは自由になれる、早く開けてくれ老張」
なんの返答も無い。
「おい!老張!いないのか?」
戸を叩く音は次第に遠慮がなくなり、ドンと力がこもった音に変わる。そして語気が強くなる役人たち。
「老張!老張!」
それでも返答はない。もしや逃げられたのでは?途端に青ざめ始めた役人はガツンと戸を蹴破った。
「!」
……そこで役人が見た物は胡坐をかき、御神剣を抱きかかえたまま事切れた老張だった。痩せこけ、一滴の水分も出ないほどに干からびている……彼は文字通り命がけでこの御神剣を製造し、絶命していたのだ。その姿は愛しい赤子を抱いているようでもあり、この御神剣を守っているかのようでもあった。