第三十四話 みずべのしょうねん
目の前の子供と視線がかち合う。
年の頃は十二、三歳くらいの少年だろうか?
色白の肌と長い銀髪から、日の光を受けて輝く水が滴っている。
うっすらと肋骨が浮いて見えるが、瘦せているというよりも、まだ筋肉が未発達な華奢な体型と言った方が適切だろう。
あちゃー、服を着ていないことから察するに、水浴びの最中だったのだろう。
この年頃の男の子は無邪気から恥を知る年齢への過渡期である。女の子と一緒に遊ぶのが恥ずかしくなったり、家族に裸を見られるのが恥ずかしいと感じるようになったりと、カワウソさんにも覚えがある。
そんな、知恵の実を食べた直後のような年代の少年が、水浴びをしている場所に出くわしてしまったわけで。
これは……非常にマズいタイミングでご近所訪問してしまったのかも!
「これ以上近付いたら……射抜きます」
ギリ、と弦を引く力が強まる音が響く。
落ち着け、ご近所付き合いの3つのポイントを思い出すんだ!
ガジガジガジガジ!
まずは笑顔!
ニッコリ笑おうとして、気付く。
そういえばカワウソの表情筋で笑えるのだろうか?
そもそも、今のカワウソさんは魚をガジガジしているわけで、その表情は……お察しである。
1.笑顔……魚を齧る凶悪顔のため『×』
そうだ、挨拶!
ただ挨拶するだけでは信用してもらえない。
ここは危険な物は何も持っていないと示すためにも、ホールドアップで無害であることをアピールせねば!
バッと両手を挙げる。
「ひッ、威嚇⁉」
少年の引く弓が、より大きく歪む。
2.あいさつ……威嚇と勘違いされて『×』
ささささ、最後のご近所付き合いのポイント!
そうだ、プライバシーに配慮……
3.プライバシーに配慮……『覗きの現行犯のため有罪』
ああああああああ!
やってしまったぁぁぁぁぁあ!
違うんだ、誤解なんだ!
慌てて少年に向かって1歩を踏み出した、その瞬間だった。
ヒュン、と弦が空気を切る音と同時に、耳のすぐ傍を高速の物体が突き抜ける風切り音。
それに遅れて、頬が総毛立つ。
今、毛がブワッてなった、ブワッて!
「次は……中てます」
ギリリ、と再び弦が引き絞られる。
あれ?
ここでふと気付く。
少年が引いた弓。そこに矢は番えられていない。
さては、ただの脅しか、さっきのが最後の矢だったか。
命の危機は無いと気付いて、少し落ち着いた。
うん、大事なのはコミュニケーション。
よくよく考えたら、カワウソさん、ご近所付き合いの基本とも言える、言葉のキャッチボールを忘れていたよ。
息を吸って、言葉を紡ぐ。
「すみません、最近この近所に越してきたもので、そのご挨拶に……」
「え、喋っ……あ……」
―――ビィン!
少年の気の抜けた声と、弦が唸る音が同時に響く。
ついでに、ドン、という衝撃がカワウソさんの胸に響く。
その胸元を見ると、細い棒の形状をした、キラキラ光るマナの塊が突き立っていた。
まるで矢のシャフトのような……あ⁉
ひょっとして、矢が『無い』んじゃなくて、『見えなかった』?
視界がぐらりと揺れる。
その薄れる視界に、足音無く駆け寄ってきた少年が、心配そうにのぞき込む顔が映った。
その耳が、妙に尖っているのが印象的だった。
ああ、そう言えば妖精さん。
森に住んでいるのは『年老いた』じゃなくて『歳のいった』親子と言っていたっけ。
白磁のように薄く、透き通るような、白い肌。
うっすらと静脈が浮かぶ様は、青白磁ぼ釉薬が描き出す模様のようにも見える。
そして、繊細な大理石の彫刻のように柔らかく美しい、整った顔立ち。
かつて、妖精と混同されていた曖昧な存在に、元・陸軍中尉の大学教授が、独自の言語体系と明確な姿を与えた。その影響は大きく、以降のファンタジー作品では、彼の思い描いた姿がその種族のスタンダードとなる。
そして……不可視の矢だ。
昔、急な痛みの後に見られる麻痺や、傷の無い突然死を見た人々はこう考えた。これは見えない何者かに、見えない矢を射られたからに違いない、と。恐らく症状から見るに、心筋梗塞や脳卒中を指していたと思われるが……当時の人々はこう呼んでいた。
―――Elf-shot(エルフの一撃)と。
うん、たぶんそうだわ。
暗転する意識の中で、思考が結論付ける。
ご近所さんは、いわゆるエルフの親子だったみたい。




