第二十八話 もりにひそむもの
トントン、と両脚と尻尾でとび跳ねながら、湖に向かう。
水に後ろ足を浸けて、手近な石でべたべたを削ぎ落とそうと奮闘するが、なかなか落ちないので、ナイフに持ち替えて体毛ごとジョリジョリ剃り落とした。
よし、これで歩ける。
肘を覆っていた帽子を外す。
傷口は塞がって、もう僅かに肉が形成され始めていた。妖精の傷は治るのが早いというのは本当だったみたいだ。
問題は完全に元に戻るかどうかであるが、不思議と元通りに戻りそうな気がしている。
うん、ダメだった時に備えて、千切れた前足の型だけでも取っておくか……いや、それよりも。
いそいそと中折れ帽を成型し直して頭に乗っけた。
片前足で作業したため少々不格好な形になってしまったが、これはこれでくたびれた感じがして、カワウソさんの渋い大人の魅力が増強されている……といいなぁ。
さて。ここからだ。
さっきからヒゲがピリピリ震えている。
鼻もそれらの臭いを嗅ぎ取っている。
このヒゲが震える感覚は、巨大ウサギや巨大トカゲ、それからさっきの巨大レッサーパンダに殺意を向けられた時にも味わったものだ。
いるのだ。こちらの様子を窺がっている生き物たちが森の中に。
中にはこの疲弊した瞬間を狙っているモノもいるのだろう。そうした敵意をカワウソさんのヒゲが敏感に感じ取っているというわけだ。
まずい。今の疲弊した状態で他の捕食動物に襲われたら、カワウソさんは何もできずにモグモグされちゃう。
さて、ウサギと言う生き物がいる。
あ、こっちの世界のデカい奴じゃなくて、元の世界のカワイイ方ね。
静かで大人しいことからペットとしても人気が高いのだけど、飼育中、病気に気付きにくいという欠点がある。それ知って、カワウソさんはペットとしてお迎えするの諦めたんだよね。
野生下において、被食者は弱い者ほど狙われる。だからウサギは自身が弱っていることを悟らせないために、疾患に蝕まれている様子を見せないと考えられているのだ。
今のカワウソさんは弱ったウサギと同じ。
虚勢でもハッタリでも何でもいい。強者を装って一切の隙を見せないようにしなければ、一巻の終わりなのだ。
更に言えば、強者が縄張りを手に入れるという森の絶対的なルール下にいる以上、カワウソさんはこの湖の周囲を牛耳っていたレッサーパンダを倒した強者を演じる必要がある。
そうしなければ、せっかく苦心して手に入れたこの縄張りに、これから何度も要らぬちょっかいを出されかねない。
よし、演じ切る覚悟は決めた。
堂々と砂を踏みしめ、躯となったレッサーパンダの元まで歩く。
むんずとレッサーパンダさんの頭を掴むと、新たに形成した『トラさんのお口』で首を完全に噛み千切り、ゴロンとその辺に投げ捨てた。
そのままドッカリとレッサーパンダの死体に腰かける……あ、しまった、脚が短くて組めないや。膝に右肘を付き、顎を乗せる。
背中を丸めた半跏思惟像のような格好だ。
イメージ的には時代劇に出てくる、強者感バリバリの牢名主のつもりなのだが……見た目がプリティなカワウソさんなのはこの際忘れておこう。いいね?
生き物たちが隠れていると思しき場所をゆっくりと睥睨し、
「グルルッ……ギィィィィイイイイイイイイ‼」
大音量の『高周波ボイス』で威嚇した。
シンと静まり返る森全体に劈くような声が響き渡る。
んー、怯んだ気配は多いんだけど、4つほど、まだ敵意を感じる。
あとは……動物にも伝わるように、思っていることを強く言葉に載せて喋ってみよう。
リスさんに言葉が通じた事例もあるし、ある程度は伝わるかもしれない。
「この湖を独り占めしていたレッサーパンダはカワウソさんが倒しました。今日からこの湖の周りは、このカワウソさんの縄張りです」
グッと1つの敵意が強くなる。
おうふ、言葉は伝わったようだけど、嬉しくない反応が返ってきちゃったよ。
まずい、何とか軌道修正しなきゃ!
仮に言葉の前半部分に対する怒りなら、レッサーパンダを倒した時点で既にこちらに襲い掛かってきている筈だ。となると問題があったのは後半の縄張り主張の部分だろうか。そうであるならば、敵意の主もこの湖周辺を利用したいと考えている可能性が高い。
「た……ただし!この水場を使ったり、草を食べたりするのは構いません。みんなで仲良く利用しましょう」
強くなっていた敵意がスッと消えた。
良かった、1/2の賭けに勝てた。緊張の汗がやばい。
「ですが、明日よりこの湖の周りで動物を狩ることは一切禁止します」
他の3つの敵意がビリビリとヒゲに伝わってきた。
膝がガクガク震えそうになるのを、無理矢理肘を押し付けて耐える。あー、胃がキュって縮んで重いよ……。
狩られたら困る動物にはカワウソさんやリスさんも含まれている。その身の安全を確保するためにも、この条件だけは譲れない。
……いや、別に、安全だったらリスさんみたいな可愛いモフモフがこの湖に集まってきたりするんじゃないかな~とか考えて譲れない訳ではない。断じて!
恐らく3つの敵意や殺意は、動物の肉を糧にしている生き物なのだろう。そういった者達からすれば、動物が集まる水場は絶好の狩場とも言える。
だがしかし!モフモフたちの楽園化計か……ゲフンゲフン、カワウソさんの縄張りを、喰うか喰われるかのディストピアにするわけにはいかないのだ!
仕方ない。野生動物を石で追い払う感覚で、傍にあった石を尻尾で弾く。ギャ、と声がして敵意が1つ消えた。うんうん、上手く追い払えたようだ。
残り2つの敵意は互いに近くにいる。
また石を拾って尻尾ハンマーで弾くが、尻尾にくっ付いたまま離れない。
げ、これさっきカワウソさんの脚をジョリジョリしたナイフじゃん!レッサーさんの粘液がべっちゃり着いてるし⁉
慌てて尻尾を勢いよくブンブン振り回すと、先っちょにナイフをくっ付けた粘液がビヨンビヨン伸びていく。それがブチンと千切れて、残り2つの殺気の方に猛スピードで突き飛んで行った。
うん、結果オーライ!
およ、尻尾ブンブンで砂が舞って……あ。
「ぴゅえっくちゅん!」
またもくしゃみで『トラさんのお口』が飛んで行く。
突き進んでいった先から「グルアアアアッ」と猛獣っぽい野太い叫び声が聞こえた後、急に静かになった。
お、なんか完全に周囲から敵意が無くなったや、ラッキー!
「じゃ、明日からここではみんな仲良く。カワウソさんとの約束ですよ」
そう告げると森の中にあった気配が、まるで波が引いていくように消えて行った。
これは、カワウソさんが湖周辺の縄張りの主として認められたってことでいいのかな?うん、特に襲ってくる動物も居なかったし、いいってことにしよう。
「あー疲れた……」
大きく息を吐いて、レッサーパンダの体から滑り落ちるようにして地面に座り込む。
この疲労感はあれだ、学会の発表で専門の中年クラスの研究者達から手加減無しの質問攻勢を受けた時と同じ感じだわ。正確には、その質問攻勢をのらりくらりと躱し切った時の充足感と同じとも言える。
さてと。
ちゃっちゃと尻尾に着いた粘液を洗い落として、レッサーパンダさんの骨を取り出しますかねぇ。




