第二十七話 ばとる おーぶぁ れいくさいど
浮遊感、と言うには少々激し過ぎる力で宙を舞う。
やったよ、妖精さん。カワウソさんもとうとうお空を飛べたよ……って違う!
咄嗟に尻尾ハンマーを地面に叩き付ける。が。
「ふおおおおおッ⁉」
尻尾の接地面を軸にして、身体がぐるんと空中をスイングバイ。そのまま半円を描くようにして湖の浜の方に投げ出された。
遠心力で首がグインってなったよ、グインって!
ずざざざざー、と砂浜を滑る。
良かった、ちゃんと首ついてた!……明日はムチ打ち症状で苦しむかもしれないけど。とにかく明日の事より今だ、今。遅れて飛んできた帽子をキャッチして、被り直す。
チラリと森の方に視線を送るが、リスさんは見当たらない。ちゃんと森の方に逃げ込んでくれたようだ。
ブルブルと体を振って砂を払う。
砂煙の先からは身体をゆさゆさと揺らしながら、悠然と近寄って来る巨大レッサーパンダの姿。強者の余裕とでも言うべきか、獲物に逃げられるとは微塵も思っていないような歩みであった。
蔦のホルスターからナイフを引き抜いて口に咥え、四つん這いになって重心を低くして構える。
4メートル。
3メートル。
2メートル。
ここでレッサーパンダが巨体を持ち上げて、両前足を振りかぶ……った、今!
一気に股の間へ駆け込んで、摺り抜けざまにナイフの刃を足首に滑らす、が、浅い。
すかさず尻尾のヒレを振り抜いて足首の内側を裂く!
レッサーパンダが振り返る前にターンして逆足の腱!
更にターンを繰り返して脛、膝裏、足首と縦横無尽に足の皮膚を裂いて、5回目でそのまま駆け抜けて距離を取る。
レッサーパンダは両脚の体毛を血で濡らしているが、出血量はそこまで多くないようだ。
人間で言えば、剃刀で皮膚を裂いたような感じだろうか?後ろ足で立ったままであることを考えると、筋肉までは傷付いていないだろう。
しかしその巨体がカワウソさんのちょこまかとした素早い動きに対応できていないことは確認できた。
……よし、当初のパンダ対策を実行に移す!
左右にターンを繰り返しながらトップスピードで駆ける。
そしてすれ違いざまに、今度はホルスターの杭を引き抜き、レッサーパンダの膝裏に押し当て、尻尾のハンマーを叩き付ける。
叩き付ける反動で、クルリと宙返りしながら鼠径部、脇腹、水月、腋下と皮膚の薄い部分に次々と杭を打ち込んでいく。
「グルアァッ!」
「あっぶな!」
首筋に杭を打ち込もうとしたところで両前足を振り回されたため、慌てて肩を蹴り、着地と同時にダッシュして距離を取った。
レッサーパンダの杭を打ち込んだ箇所からは、狙い通り血がタラタラと滴って、砂浜に黒いシミを作り始めている。
更にもう一度、と走り出そうとしたところでレッサーパンダがストン、と前脚を下ろして地面に着けた。カワウソさんが足元を駆けるのを防いで、こちらに同じ行動をさせないようにと考えたのだろうか?
いや、違う!
前足にグッと力を入れた様子でレッサーパンダの上体が沈み……一気に地面を蹴り出した。そのまま数歩駆け、一気に加速して突っ込んでくるその巨体は大型トラックさながらであろうか。
これを細かいステップで横に避ける。
すれ違う瞬間に相手の力を利用して、左前脚に持った杭をレッサーパンダの肩口に押し当てた。
よし、上手く刺さった……が。
「あ……れ?」
すぐさま2本目の杭を掴もうとした前足が空を切った。おかしい。
チラリとそこに視線を向ける。
カワウソさんの、左肘から先が無くなっていた。
「ッくああああああ⁉」
その事実を認識した途端に、灼け付くような痛みが襲ってきた。
焦りの感情が脳内を支配する。
痛みよりも、前足が無くなったことによる動揺で心音が逸り、思考が滑り続ける。
どうしようどうしようどうしようどうしよう!
ふと、レッサーパンダが駆け抜けた後に飛び散っている血の跡が目に入った。
そうだ、この小さい体で血を失うのは拙い。
帽子を取って素早く噛み、マナを抜いて柔らかくする。左肘を覆うようにキツく巻き付けながら『トラさんの口』を形成して、マナを流し込み硬質化させた。
血液が減ったせいか、頭が冷たく感じる。
オーケイ、丁度いいクールダウンだ。カワウソさんが憧れるハードボイルド小説の主人公。彼らはこういった場面で決して動じない。
走るトラックや電車に向かって手を伸ばしたらどうなる?答えはその巨大な質量に腕を持っていかれる。そんなの当り前じゃないか。ああ、未知は恐怖であるが、理解できればどうということは無い。
思考する視界の向こうではレッサーパンダが大きく弧を描きながら方向転換し、更にこちらに突進しようとしているのがコマ送りで見える。
考えろ……今この場で活かせる、カワウソさんにあって、ヤツに無いモノ。小回り、魔法、道具、水掻き……冷静になって考えろ。冷静、冷……
目の前にレッサーパンダの巨体が迫る。
ああ、そうだった。
あったじゃないか。得意なこと。
3本になった足で、レッサーパンダに背を向けて我武者羅に砂を蹴る。
背中に巨体が迫るのを感じながら、ひたすら前へ、前へと。
そうして湖へ体を滑り込ませる。
顔を水面に出して後ろを振り返ると、レッサーパンダは律儀に追いかけてくれていた。
浅瀬から次第に深みへ。
敵は犬かきのようにゆっくり泳いで追って来るが、やがて、足が底に着く浅瀬へと引き返して行く。
レッサーパンダは『泳ぐことができる』が、決して『得意ではない』。
すぐに潜水して1本になった前足で水を掴む。レッサーパンダの脚が見えたところで水中から飛び出し、両の膝裏に立て続けに杭を打ち込み、直ぐまた水の中へスルリと潜る。
ヒゲがバシャバシャと水が揺れるのを感じながら、死角から今度は腹に。
ヤツの前足が届かない下半身を中心に、次々と杭を打ち込んでいく。
水中から、レッサーパンダの脚が更に浅瀬へと藻掻くように戻って行くのが見えた。それを追ってカワウソさんも浅瀬に上がり、後ろ足で立ち上がる。
互いに息を切らせながら睨み合う。しかし目の前の獣はどれだけ吸っても足りないとばかりに、大きく肩を揺らしながら苦しげに喘いでいた。
それはそうだろう。
水の中で血が凝固しにくい状況で止血もせずにあれだけ動いたのだ。さぞ多くの血液が流れ続けただろうさ。酸素を運ぶ赤血球を失った分だけ、余計に酸素を取り込もうとして身体は息を荒げる。
さすがにこれ以上苦痛を強いるのは忍びない。
マナで『トラさんの口』を形成して、その喉元に喰らい付くべく狙いを定める。
そうしてジャンプしたところで、おもむろにレッサーパンダが立ち上がり、上半身を大きく振って何かを吐き出した。避ける術もなく両後ろ足が絡め取られる。
そのまま前足の一振りで薙ぎ払われた。
「ぐあッ!」
砂浜の方に飛ばされて、ゴロゴロ転がる。
立ち上がってすぐに湖へ戻ろうとして、はたと足を止めた。いや、正確には粘着性の物質が絡み付いて、後ろ足が動かせなかった。
おいおいおいおい!
この土壇場に来てそんな能力アリなの⁉
動けないまま『トラさんの口』を大きく広げて構える。
対するレッサーパンダは前足を砂浜に叩き付けながら、ヨタヨタと歩を進めていた。失血で目が見えていないのだろうか?しきりに鼻を動かしながら、しかし着実に近付いて来る。
何度も後ろ足に力を入れるが、ベタベタが外れない。
待って!あんなデカブツにストンピングされたらカワウソさん、おせんべいみたいになっちゃう!
振るわれたレッサーパンダの前足が、次々と砂塵を巻き上げる。
体が冷えている状態でこんなに砂煙を吸っちゃうと……うにゅ、鼻がムズムズしてきた。
あ……ダメだ。
「へっくち」
命の瀬戸際でくしゃみが出た。
同時にマナがゴッソリ引き抜かれる感覚。
その瞬間、信じられない物を見た。
カワウソさんの口の周りを覆っていた『トラさんのお口』。
それがくしゃみと同時にガバッと開いて飛んで行ったのだ。
昔何かのギャグマンガで見た、くしゃみと同時にお婆ちゃんの入れ歯が飛んで行くみたいな感じで、こう、スポーンと。
『トラさんのお口』はそのままシュイイインと直進して、前足を振り上げたレッサーパンダの咽喉を抉るように食い破ると、彗星のように尾を引きながら真っ直ぐ湖の彼方へと消えて行った。
後に残されたのはドサリ、と力尽き伏すレッサーパンダ。
「………………。」
そして、あまりの結末に居た堪れなくなったカワウソが1匹。
縄張りを広げ始めてから、初めてのまともな縄張り争いだった。
痛い思いもした。
絶体絶命のピンチも迎えた。
もうね、お互い命を削るような血で血を洗う、かなり緊迫した展開だったハズなんだよ、うん。途中の思考シーンから打開していく様なんてもう、我ながら超ハードボイルドだったと思うんだ。
それが……たった1つのくしゃみで吹き飛んだ。一瞬にして。
あのー、すみません!どなたか、カワウソさんの渾身のシリアスシーンを拾われた方はいらっしゃいませんか⁉いきなり目の前から消えちゃって、カワウソさんとても困ってます!




