第二話 そうなん?
一旦冷静になってみよう。こういった逆境でも焦らずクールに次の行動を決めるのが、オジサンの目指すハードボイルドな男ってものだ、うん。
現状、オジサンは手つかずの自然の真っ只中にいる。巨石が転がる川の様子から恐らくは山中と思われる。人間が一晩で移動できる距離なんてたかが知れているため、人の可住地域からはさほど離れていない位置であると推察できる。そういった場所であれば、弱いながらもスマホの電波が届くエリア内のハズである。
いい大人が少々恥ずかしくはあるが救助を呼ぼう。昨今はスマホにGPS機能もあるし、とんでもない額の救助費用が請求されることも無いだろう……確かヘリコプター飛ぶと、一緒に数十万単位のお札も飛んで行くって聞くし。
まずはスマホを……手がツルっと太腿を滑る。あれ、ポケットが無い。と言うか、布の感触が無い。
ついでに、心なしか体の全身に余すことなく心地良いそよ風を感じる気がする。なんだろう、この解放感。
お股がスースーしてる。
………。
………………。
裸?マッパ?ネイキッド?
ひょっとしてオジサン、いい歳して大自然を全身(裸)で感じちゃってる?
NOOOOOOOOOOOO!
え、マズいよね?スマホあってもレスキューじゃなくて、手錠を持った濃紺色の制服の皆様が来ちゃうヤツじゃん!全裸のまま手錠を隠す布だけられたオジサンの報道映像とか誰得だよ⁉ご近所や職場で「ほら、あの人全裸で山をうろついて逮捕された……」とか噂されるのオジサンとても耐えられない。
くっ、救助要請は絶望的か。
ここはクレバーに、頭を救助要請から自力下山へと切り替えよう。そのためには飢え、渇き、体温低下が大きな敵となる。幸い、目の前には川があり水源は確保できている。最悪2日は食事を摂らなくても死ぬことは無いだろう。その辺は年齢と共に少しずつ溜まってきた内臓脂肪がカロリーを捻り出してくれるはずだ。目下の敵は全裸な現状だわ、うん。
どうにかしてお股がスースーしない布製品を確保した上で、人が居そうな建物を探して電話を借りるとしますか。日本という国は可住面積が極端に狭いため、仮に酔った足で森に迷い込んだとしても、数時間歩いた程度で道路なり電線なりの人工物に巡り合えることは必至。あとはそれを辿ればいい。
右手の川下を見る。
川、岩、土手、森。
その先も、以下同文。
さら先には……あ、なんか川が途切れてゴーゴー音がしてる。ダメだ、この先は川も陸も垂直にフリーフォールする未来しか見えないわ。川沿いを移動する場合は川下に向かって移動するのが人里を目指す上でのセオリーであるが、滝で濡れた岩場は苔や藻で人を滑落させる天然の罠である。
気を取り直して左を見る。
川、岩、土手、森。
その先の景色も変わらない。もっと先へと目を凝らす。
川、岩、土手、コアリクイ、森。
……ぱーどぅんみー?
コアリクイ?南米の?
先端の細い独特のフォルムをした頭部に、くりくりとした黒目がちなお目め。口先では細長い舌がチロチロと踊っている。前足の長い爪を内側に向けて、甲の部分を使ってのっしのっし歩くフォームは、間違いなく先日アニマル動画で見たミナミコアリクイさんにしか見えなかった。
ユーはなぜ日本の山奥に?ひょっとしてペットとか動物園の飼育個体が逃げ出したのだろうか?
そのコアリクイさんがこちらに気づきーの……あ、目が合った。
ゆっくりと警戒しながら近づいてきたソレは、こちらを油断なく観察する。
そして、おもむろに立ち上がると……
両前足を広げて威嚇のポーズ!
そのまま俺と同じ目線を維持したまま、マズルをヒクヒクさせている。そう、『俺と同じ高さの目線で』である。
え?君ちょっと成長し過ぎじゃない?姿はコアリクイなのにオオアリクイサイズって、種としてのアイデンティティどこに投げ捨ててきちゃったの?日本の山中の環境が見事にマッチしちゃって異常成長したとでもいうのだろうか。
コアリクイさんがオジサンと同じサイズで爪構えていらっしゃる構図に、某エルム街のフ〇ディーさんが重なって見え、戦慄した。くわっと開いた長い爪が黒く怪しげに光っている。
『コアリクイVSおっさん』
字面だけなら大人げないオジサンの動物虐待であるが、実際はこう。
『両手に長い4本の鈎爪を持つ獣VSオジサン(全裸)』
うん、戦ってしまったら生き残れない!
というわけで、わき目も振らず逃走を選ぶ。さっきの穴蔵は……ダメだ、おんなじサイズのコアリクイさんに追い詰められて爪でガリガリ蹂躙される。川に飛び込めば逃げられそうだが、生憎とオジサンは泳げない。
瞬時に判断して、足が縺れそうになりながら森へ向かって駆け出した。
頭の中でイメージしているスピードに足が着いて行かない。完全に運動不足から来る『運動会のパパ』現象である。まずいと思って振り返るが、どうやらコアリクイさんも走るのは不得手らしく、超スローな駆け足で追い掛けて来ているのがちらりと見て取れた。
それにしてもこの森はやたらと木が大きい。その分だけ根っ子も上下に大きく波打っており、気を抜くと躓きそうになる。慌てて手を付いてそのまま四つん這いで駆ける。恥?外聞?知ったことか!
後ろからは鈎爪を振り回す風切り音と、切り払った枝葉が四散し周囲に打ち付ける音が響いてくる。それに追い立てられるかのように木の根を掴み、少しでも前へ、前へと体を伸ばす。意外と四つん這いの方が走りやすいようで、思ったよりもスムーズに景色が後方に流れてゆく。
気が付けばコアリクイさんは遥か後方で木に爪をガツン!と叩き付けて、そのまま踵を返して行ってしまわれるところだった。やー、助かった……。
そこでふと気が付いた。これ、水源に戻れないじゃん。
多分、戻ったらコアリクイさんの爪の制裁が待っている。さっき木に叩き付けた時に物凄い音がしていたから、恐らく熊のそれと同じような破壊力と見て間違いないだろう。野生化したコアリクイ恐るべし!
立ち上がって手の汚れを払い、周囲を見渡す。
木木木林。圧倒的な巨木密度である。富士の樹海って、きっとこんな感じなんだろうな。因みに、周囲に命を大事に系の看板や目印のビニール紐なんかは見当たらないことから、ここが富士の樹海では無さそうだということは解った。
ん?今気づいたが、所々の地面から、何かキラキラしたものが立ち上って見える。間欠泉みたいに噴き上がる感じではなく、えーと、あれあれ。おもちゃのスノードーム?あんな風にキラキラした小片が、ゆっくりとゆらゆら立ち昇る感じが近いかな。
地中のガスが鉱石でも巻き上げながら舞っているのだろうか?これが天然ガスや希少鉱石だとすると……うん、無事に帰れたら土地を押さえて調査するのもアリかもしれない。日本の山奥に希少資源を発見、いやー、お金の匂いがする浪漫だね。
トテトテと歩きながら、そんな場違いで幻想的な風景に見とれていると、そのキラキラの向こう側に巨木が途切れて拓けた部分を見つけた。
森の中に不自然なまでに拓けた空間。そんなもん、人の手で切り拓いた土地に決まっているじゃないか。きっと建造物とか畑なんかの人工物がオジサンを待っているに違いない……
再び四つん這いモードで木の根を掴みながら前へと進む。インドア派のおじさんにとってこれ以上進むのはしんどいが、希望が手足を動かす。光が差し込む方に少しでも前へ、前へと。
眩しさに目を眇め、手をかざしながら、オジサン今、ゴール……