第十話 さばいばるにっし に
――4日目。
運命の日だった。
その日も手早く食事を済ませ、岩場に寝そべっていた。
食事、睡眠、娯楽。
全てにそこそこ満たされて、案外、野生もチョロいと思い始めていた。
さて、今日は何して……⁉
ピクッとカワウソさんのヒゲが震える。
この忌々しい臭いは……
首を動かして全周囲を警戒する。
カサッ!
かすかな足音を耳が拾う。のっそりとした歩み。ヤツだ!
音と臭いに向かって身構える。
一瞬、数日前の抉れた木が脳裏を過ぎるが、大丈夫だ。
四つ足で走れば逃げ切れるし、泳ぎもこっちが得意。そして何より、今のカワウソさんはマナを扱えるのだ!負ける気がしない!
向こうもこちらを感知したのか、足音が真っ直ぐ近付いて来る。
確か、動物はマナを感知するんだったか。隠れても無意味なのだろう。
ジワリと近付き、お互いを視認する。
コアリクイの長い鼻の向こうに、敵意剝き出しの黒目が光る。
そのまま立ち上がり、威嚇のポーズ!
相変わらず爪が濡れたような黒光りしていらっしゃる。
こちらも毛を逆立て、
「キィイイイイイイイイイッ」
歯を剥き出しにして、威嚇で応える。
それが合図となり、瞬時にコアリクイが爪を一閃。
大振りに振り下ろされた鈎爪が、しかしカワウソさんは飛び退っており、岩場に叩き付けられる。
おい、今、岩がゴッソリ削られなかったか⁉
コアリクイに関する常識を放り投げたような破壊力である。
コアリクイの鼻から、フン、と怒りを孕んだ音が漏れた。
すかさずその素早さを活かしてコアリクイの側面に飛び込むカワウソさん。
よし、ここでマナを使った魔法を!
魔法……を?
はた、と静止する。
カワウソさんが会得したマナを使った魔法。
・声を出しておしゃべりできる
……以上である。
どどどどど、どうすんだよ、これで⁉
シュン!
「え?……あ」
素早く振られたコアリクイの爪が、カワウソさんの無防備だった肩の辺りを掠める。
本能的にその瞬間、体を沈めたお陰で、掠り傷で済んでいた。
ありがとう、本能さん!ほんとヤバかったわ。
「ハァ…ハァ…」
そのまま距離を取ってコアリクイを睨み付ける。
これは……撤退だな。野生下では生き残ることこそが勝利であり、命を張る場面ではない。
コアリクイ目掛けて飛び込む振りをして、さあ、川に向かって疾走……しようと前脚に力を入れた瞬間だった。
ガクン……
転んで腹が地面に着く。
傷付いた肩に力が入らない、というか痺れている?
あと、気付いたが息が苦しい。空気を吸っても、体が更に酸素を欲している。
これって、まさか!
コアリクイの前足を凝視する。
返り血で少し赤く染まった前足の先。
てらてらと黒光りした鈎爪を伝い、ドロッとした液体が滴っていた。
「毒……なのか?」
いや、まさか!少なくともカワウソさんが知っているコアリクイは、毒なんか持っていないはずだ。岩を削り取る破壊力など以ての外である。
今まで軽く受け入れていたが、このコアリクイは『おかしい』。
突然変異にしても、このような元の性質を無視した形は、科学の常識的に『有り得ない』。
コアリクイの眼が、ニヤリと笑った気がした。
そのまま動きの鈍ったカワウソさん目掛けて、爪を振り下ろす。
四つ足を細かく動かしてなんとか避ける。
更に爪を振り下ろす。
今度は尻尾に力を入れて、反動で跳ぶ。
そのまま後足を蹴り出し、コアリクイの喉元に喰らい付く。
魚を頭の骨ごと嚙み砕く顎の力だ。
これで嚙み切……れない⁉
コアリクイが体を強く振って、払い飛ばされた。
地面に叩き付けられる。痛い。傷付いた右肩が重い。
必死に打開策を模索する。
顎という武器が使えない以上、魔法しかない。
言葉、喋る、声、音響……音は波……
本能で体を動かしながら、思考は深く潜る。
思いつくまま、左右1対の疑似声帯を限界まで引っ張り伸ばす。
「——————ッ」
異常な高音。つまり、高周波の音だ。
一瞬、コアリクイが不快そうに頭を振る。
よし、あとは声の大きさだ。
振われる鈎爪を避けながら、考える。
声量を増やすには、疑似声帯を通過する空気の量を増やす必要があるが、肺活量は有限。
であるなら、体内の膨大なマナに体積と質量を持たせる。
意識するのは常温下で1molあたり約24.8ℓ、質量約28.8gのパラメータ。
一気に変質させると肺が破裂するため、疑似声帯を通過する際に、マナの塊に体積と質量を持たせるイメージを固める。
鈎爪を避けながら機を伺う。
イライラしたコアリクイがトドメ、とばかりに大振りし、すんでのところでそれを躱す。
ここだ!
地面に叩き込まれる大爪。
その前足に跳びつき、下半身ごと尻尾を叩き付ける。
そのまま上体を崩したコアリクイの、その頭部の側面に全身でしがみ付く。
目の前にはコアリクイの小ぶりな耳。
頭を振って振り解こうとするが、決死の覚悟でホールドする。
舌がムチみたいにバチバチ叩き付けられて、ちょ、痛ッ!
一気にマナを咽喉に移動させて、口を開く。
あ、忘れずに耳閉じとかなきゃ。
変質したマナが一気に疑似声帯を通過、振動させて——
「ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!」
コアリクイの耳に、甲高い、大音響を叩き込む。
言うなれば、ライブハウスのスピーカーに耳を押し付けて、黒板を爪で引っ搔く音を大音量で浴びせられたような状態だろうか。
チラッと流し見した覚えのある音響兵器と呼ばれる概念を、無理矢理マナで再現した形だ。
コアリクイはクラっと上体をふらつかせると、そのままズシリと仰向けに倒れた。
その耳からは赤い血の混ざった、ドロリとした脳漿のようなものが止め処なく流れ出していた。
目を開いたまま、口から舌を放り出してピクリとも動かない。
その目に一切の光や意思は無い。
「ゲエ、ガハッ……」
言い知れない気持ち悪さにえづくカワウソさん。
耳は塞いでいたが、あれだ。脳を揺らされた感覚だわ。
それと多分、動物を手に掛けた事実が、脳に負担を掛けているのだろう。
動物愛護の社会で育った身としては、脳が目の前の現実との齟齬を解消するのに少し時間がかかりそうだ。
日が傾いた頃。
ようやく動けるようになり、川で傷口を洗う。
良かった、少し痺れが弱まっている。
幸い毒は一時的なものであり、すぐに肝臓で代謝されて無毒化できそうだ。消失半減期は1、2日といったところだろう。
それにしても、疲れた。
しばらくは緩めにダラダラ過ごそう、そうしよう。
あー、コアリクイの死体、どうしよう?




