第一話 おはよう
ピュイピュイピュイピュイ!
瞼の向こうで何かがけたたましく鳴いている。
ん?違うな。これスマホのアラームだわ……
本日はすこぶる寝覚めが悪いらしい。さっきから意識がエレベーターよろしく上下運動を繰り返しているようだ。いい歳した社会人である以上、下の階へと向かうボタンを押し続けるわけにもいかない。さて、そろそろ。
……上へ参ります、っと。
目を閉じたまま、本日のTo Doリストを思い浮かべる。
まずは昨日までの実験データの報告。昨日のうちに結果はグラフ化まで済ませている。あまり芳しくない棒の並びだったが、検討項目は山のようにあるので気にしても仕方が無い。
それから本日使用予定の試薬と器具、分析機器のチェック。これも昨日のうちに済ませてあるので、今日も焦らず穏やかに仕事を始めるのに支障は無いだろう。朝の余裕は仕事のミスを減らす第一歩なのだ。
あとは……あ、しまった。
早いトコ試薬の購入依頼出さねば、またボスと経理のオバサマに強制飲みニケーションという名の折檻を食らってしまう!健康診断でγ‐GTPのやや高めな数値を見てから、肝臓さんに優しい男でありたいと決意したばっかりじゃないか。これはリストの最初の項目に移動だ。
血の気が引く感覚と共に一気に目が覚めた……が。
あら真っ暗?
瞼は重いながらも開いている。まばたきをしてみるが、状況は依然変わらず。
あ、そっか。
昨日は確か、お金を払えば可愛いお嬢さんに触り放題なお店を堪能したんだった。
そうそう!あの若いお嬢さん、恥ずかしがり屋の割にめちゃくちゃ可愛い声で鳴くんだ、これが。
おじさん、年甲斐もなくデレデレ&ハッスルしちゃったよ。
いや、大人のムフフなお店の話じゃないよ?
猫カフェの話だよ?
それからバーでマスターと無言の会話を愉しみながら、ハードボイルドにコーヒーカクテル(注:カ〇ーアミルクと読む)なんぞを嗜んだ。締めはもちろん、オジサンの愛読書に因んでギムレットだ。
そっから……そうそう。帰宅が面倒になってカプセルホテルにシケ込んだんだった。決してギムレットにトドメを刺され、生まれたての仔馬のように足元がふらついて歩けなかったからではない。断じて。
とりあえず起きるかーと右手を伸ばす。
狭い個室の壁に触れる。なんだかヒンヤリとした冷たい感触が返ってきた。
左手を伸ばす。
こちらもヒンヤリ。
あれ、壁がキンキンに冷えるほど冷房が効いてたっけ?
指先で擦ってみると、あら不思議。ポロポロと何かが剥がれ落ち、掌にザラザラとした感覚が残る。
……いや、土だわ。昔、しょっちゅう祖父母の家で畑仕事を手伝っていたから分かるが、これ以上でも以下でもなく土だわ。壁だけではなく床からもシーツとかけ離れた粗い感触が返ってきた。
近年は他店との差別化を図るため、飲食店やホテルなど様々な業界でコンセプト化が進んでいるという。様々な趣味に対応することで、そういった客層を引き込もうという戦略だ。アニメのコンセプトカフェや怪談・オカルト系の居酒屋などは収益を伸ばしていると聞いた覚えがある。
土間&土壁。土に囲まれた空間で癒しのひと時を―――
って、そんなコンセプトなカプセルホテルあってたまるか!
思わず突っ込みながら立ち上がろうとして、即座に頭に衝撃が走る。
ポロポロポロポロ……
まさかの土天井まで完備なされていた。
なんでこんな意味の分からないカプセルホテルに泊まったんだよ、昨日の俺!最近婚活が上手くいかなくて狂ったのか?狂った挙句に『よーし、セミの幼虫ごっこしちゃうぞ』とでも思ったのか?
……人生初の疑似生き埋め体験に戦慄したわ!
そこからはもう無我夢中で這った。
ずりずり。
ずりずり。
真っ暗な中を這い回った先に光が見える。
助かった……
光に飛び込んだ。
飛び込んだその先。
そこは……視界いっぱいに広がる、キラキラと日の光を照り返す穏やかな川面。
そこかしこに転がる、武骨な巨石の数々。
そのすぐ傍には鬱蒼と茂る巨木の皆様。
ハッと後ろを振り返ると川土手の斜面に、ポッカリ口を開けた穴。
うん、これ渓流釣りのテレビ番組なんかでよく見かける光景だ。
違うとすれば、そこに釣り人はおろか人影が見当たらない点だろうか。キャンプ場のような人工物も一切見当たらない。見渡す限りのザ・自然界である。
そんな自然の片隅で、ポツンと立ち尽くすオジサンが一人。
ねえ、昨日の俺、本当に何してくれちゃったのよ⁉
わたくし、コヅカ コウゾウ 38歳。独身。
某企業の素材研究部門に勤務する普通の研究職だと思っていたちょっぴりハードボイルドなナイスミドルは、どうやら夢遊病ムーブをかました挙句に、大自然の穴ぐらの中で遭難してしまったらしい。