プロローグ
「――結局、この時間も雨は止まず、か」
バケツをひっくり返したような、とはよく表現したものだ。
〝梅雨〟と呼ばれるこの季節。雨がたくさん降ることによって恩恵を受ける人もいるが、生憎、自分にとっては迷惑なことこの上ない。傘を差していたって靴もズボンも、ノートや教科書が入った鞄もびしょ濡れだ。鞄の中まで浸水したことはないが、湿気でへにゃりとページがヨレてしまう。――とはいえ、そんなことはあまり気にしていないのだが。
学校から徒歩十分ほどのところにある駅から電車に乗り、三つ先の駅で下車。そこから更に十分歩いた場所に、俺の家がある。
一軒家には両親と俺の三人暮らし。両親共に海外出張が多いため普段は俺一人のことばかりだが、しかしよくある普通の核家族だ。
平々凡々。悪く言えば――面白みがない。
けれどこの生活が退屈なわけでもないし、ありがたいことにお金に困るようなこともないのだ。だから今以上の刺激を求めようとは思えない。それに、毎日が劇的に変化し続けるなんて考えただけでもへとへとに疲れてしまいそうだ。
――もっとも、こんな話を友人にすると、決まってげんなりされてしまうためあまり口にはしない。なんでも、『十六歳のクセに枯れすぎだ』とかなんとか。
やれやれ、と呆れながら首を振られる。そう言いたいのはこっちの方だっていうのに。
気まぐれに、自宅最寄り駅から出てすぐの場所にある公園の東屋で雨宿りなるものをしてみたが、雨は弱まるどころかますます強くなるばかりだ。
この場所は周りに草木が多数生えている影響で、どこか近寄り難く晴れていても子供が遊んでいるのを見たことがない。しとしとと空から大量の水が降ってくる今は、尚更人気なんて皆無だ。
赤や黄色が鮮やかだった筈の遊具は誰にも使われないまま錆び付いて、街灯が一つあってもこの天気の中ではやはり不気味に映る。
自治体がもう少し手を加えれば変わりそうなものだが、そこにかける予算がないのか何年も放置されていた。まぁ、最近できたばかりの大きな公園もあるし、こんなにこじんまりした場所は放置していても誰も文句を言わないのだろう。
「…………にしても」
止まない。
胸の裡で不満を零すと、木の椅子に立てかけた傘が僅かに傾き、カタン、と音を立てた。まるで〝自分がいるのだから早く使え〟とでも主張するように。
それはごもっともだと俺も思うのだが、コイツを差したところで膝下まで濡れる確率百パーセントだと断言できる。
ちらりと携帯端末を見やると、時刻は午後六時半になろうとしていた。学校を出てからもう一時間以上だ。
悪足掻きだということは解っている。解っているのだが、せめてもう少し弱くなるのを待てないだろうかと、狭い屋根の下から空を覗いた。
瞬間。
――ピシャリ。水溜まりが跳ねた。
そこを踏んだローファーは宙で回り、再びピシャリと水を踏む。
しっとりと濡れた白いワンピースの裾が僅かに翻り、すらりとした足が一瞬だけ覗いた。腰まで伸びたいまどき珍しい真っ直ぐな黒髪も、彼女の動きに合わせて踊っている。
――――雨の妖精。
柄にもなくそんな言葉が頭を過った。
小さな白い輪郭と、そこに張り付いた黒髪。ちょうど影になって表情はよく見えないが、どこか艶めかしい。
ごくり。思わず音を立てて唾を飲み込む。
聞こえていなければいいけれど……、なんてことを考えていたせいだろうか。妖精は突然動きを止めて、白い街灯を反射させた瞳をじっとこちらへ向けた。相変わらずその顔はよく見えないが、どこか驚愕しているような雰囲気を感じる。
「今の、見てた?」
儚さと強さを同居させたような声だった。――そう。まさしく、雨の音のような。
けれど同時に、あれ? とも思う。どこかで聞いたことがある気がする。思い出そうとしても、うまく思い出せない。絶対耳にしたことがある筈なのに、奥歯に食べ物を詰まらせてなかなか取れないような気持ち悪さ。
「ちょっと、聞いてる?」
「え、っと…………はい……」
まさかノーとは言えない。そんな気迫を少しだけ感じて――実際聞こえているので嘘をつく必要もないため――素直に肯首する。
すると少女はくるりと踵を返し、華奢な肩越しに僅かに顔をこちらへ向けた。
「――――そう。じゃあ、見なかったことにしておいて」
「はい…………?」
たったそれだけ。もっと何かあるのかと思っていたが、あまりにあっけない一言。思わず呆けた声が出てしまったが、少女はそんなことを気にする素振りもなく、雨の中公園から立ち去って行く。
その、後ろ姿。シルエットに、俺が通う学校の校舎がちらついた。
――知っている。俺は、彼女のことを。
学校で、たしか――――――。
「なあ、お前――――……」
逡巡から顔を上げて一歩踏み出す。けれど少女の影はすでになく。
まだ降り止まない雨が俺の頭を打ちつけた。まるで、先の光景を追い出すかのごとく。
to be continued




