⑥記憶の奥底
「それじゃ、暗くなる前に戻ります」
「行ってきまーす!」
互いに言葉を交わし、距離感が縮まったからかピメントとチリは二人で市場を回りたいと言い出し、ししょーとジャード婦人は快く送り出した。
キッカケはさておき、ピメントが信頼出来る若者だと判ったせいもあり、チリの心情は随分と軽くなったようである。年の近い異性という存在は、彼女にとって良いモノになるだろう。
ししょーは我が娘……いや、妹に近い感覚の、そんな存在のチリの成長を感じながら、少しだけ感傷的な気分に浸っていた。
思い起こせば五年前の彼女は、傷だらけで痩せ細り、いかにも浮浪児然とした状態だった。日々の暮らしがそうさせたのか、二親が居なかった事に原因が有ったのかは判らないが。
(……それにしても、好きだと告白される相手が現れる年頃なんだよな……)
そう思いながら少し冷めたお茶に手を伸ばそうとすると、ジャード婦人のしなやかな手が伸び、新しい器と共に淹れ立てのお茶が供される。
「ありがとう、ジャードさん」
「……ミレアと呼んで下さっても、宜しいのですよ?」
不意に投げ掛けられた彼女の呟きにハッとするししょーへ、ジャード婦人は正面に置かれた椅子へ腰掛けながら、もう一度同じ言葉を告げる。
「シシド様、私の事は……ミレアとお呼びになって、頂けませんか……」
そう言うと纏めていた髪を解き、はらりと肩に垂らした。
チリと言う二人にとって娘のような存在が、成人としての一歩を踏み出したせいか、ジャード婦人の中に長く留まっていた心情が、ここに来て顔を覗かせたのかもしれない。
「いや、それは……」
「……もう、主人の喪に服す日々は終わりました。これからは……」
ジャード婦人の眼はししょーを捉え、陶磁器のような白い頬を僅かに赤らめながら、良く通る声で告げた。
「……私と一緒に……なりませんか」
それが彼女なりの告白だと直ぐに気付き、ししょーは僅かな時間、考える素振りを見せる。事の進展に二の足を踏んでいた彼は、意を決して一歩を踏み出した。
「……本当に、自分みたいな男で良いんですか」
そして、漸く絞り出した声で訊ねると、ジャード婦人は静かに頷き、椅子から立ち上がると躊躇う事無く彼の傍らに近付きながら、
「……いえ、シシオ様だからです……」
そう囁くと、彼の唇に自らの唇を押し宛てた。
お互いに心中を察し合いながら、頑なに押し籠めていた感情が、チリの自立という状況を切っ掛けに溢れ出したのだろうか。
ジャード婦人、いやミレアは五年の間、シシオという一人の男の間近に居て、彼の人柄や心情、そして他者に対する気配りを欠かさぬ姿に亡き夫の面影を重ねていた。
彼とは見た目も年齢も異なるシシオは、彼女の恋慕の情に気付いてはいなかっただろう。しかし、言葉や行動に現れなくとも秘めた想いは、見えない皮膜のように彼の周りを漂い、層に成りながら包み込み、僅かづつではあるが彼の心中に届いていた。
そのまま身を固めながらミレアの唇を留めていた彼は、彼女の想いに答えるべく口を開いて全てを受け入れた。
甘やかな刺激と味が五感を揺らし、今まで封印していた全ての情感が弾けた瞬間、ししょーの脳裏に様々な情景が次々と浮かび、情報の奔流と化して彼の自我を揺さぶった。
(……いや、待て! おかしいぞ!? 何故、こんな事まで判るんだ!?)
しかし、ししょー、いやシシオは頭に浮かぶイメージの異常さに戦慄した。
【ジャード婦人ことミレア・ジャードは四十年前に中央都市の酒販売を営む故ジャード氏と結婚し都市へとやって来た。それ以前は同族の蛇人種達が集う集落で生活していたが、隊商馬車に同乗していた彼と出会い、見初められ人間社会に溶け込む為に自らの姿を変化させて今に至る。彼女の用いる■■は普人種の精神に作用し、眼に映る様々な事象をも変容させる効果がある。その作用は普人種にかけられた■■を一時的に祓う効果も期待出来る】
唐突に浮かんだ情景は彼の脳内で情報として変換され、字幕のように羅列されていく。まるでチリが書くお品書きが如き広大な黒板の上を、ミレアの生い立ちから隠していた秘密、そして今に至るまでの来歴まで記されいくかのように……
何故、そうなったのか。そう自問しようとしたシシオは、自分の舌がミリアの味を感じ取った瞬間に訪れた事に気付き、まさかと思いながら立ち上がると、厨房に駆け込んで包丁を手に取った。
「……な、何をしているの!?」
直ぐに後を追って厨房に現れたミリアは、自分の指先に切っ先を近付けるシシオの動きを認め、思わず叫んでいた。
「ッ!! これ……は……っ!?」
しかし構わず、僅かに血が滲む傷口を舐めたシシオの精神は、一瞬で遥か彼方へと……
「……まーさか、あんな事で封印が解けるとはね。ラミアってのは面倒な種族だわ」
シシオは真っ暗な部屋の中で眼を覚まし、同時に何処か聞き覚えの有る声で、誰かに話し掛けられた。




