⑤三人の晩餐
「ししょー、何これ?」
チリはししょーが食材庫から、見慣れない木の板のような物を手に厨房に戻って来ると、不思議そうな顔で質問する。
「これか? まあ、見た目からは判らんだろうが……前に行った漁師町でお土産に貰ったクラーケンだよ」
掌に載せた板をヒラヒラと振りながら、ししょーが説明するが、チリは良く判らなかった。
クラーケンは、北の海に生息するイカに似た魔物で、身体はヒトより更に大きく、時々小舟をひっくり返して騒ぎになる難儀な生物である。しかし元が海の魔物だけに、地元の漁師達は銛で突いて捕えるそうだ。
その身は厚く量も多いのだが、生で食べても大味で旨くはない。その為、薄く切って吊るし、乾燥させて干物にする。但し、そのまま焼いて食べても良いが、ある方法を用いれば柔らかく戻せるという。
「……ふーん、そうなんだ。でもさ、カッチカチのままじゃあ食べられないよ?」
ししょーから受け取ったクラーケンの干物を弄りながら、チリは匂いを嗅いだり曲げてみたりしてみる。硬い木の板そっくりのそれが、どうすれば食べられるようになるのか、チリには見当もつかなかった。
「これはな、コイツを水に混ぜて、暫く置いておくと柔らかく戻せるのさ」
ししょーは厨房の棚から白い粉の入った瓶を取り出すと、中身を汲み置きの水に混ぜて掻き回してから、クラーケンの干物を中へ入れた。
「これは鉱人種が採掘する石で【重曹】って言うんだが、洗濯にも使える変わった粉さ」
チリが見守る中、重曹入りの水から僅かに泡が立ち上ぼり、クラーケンの干物に小さな気泡が付いていく。ただ、見ている間に柔らかくなる訳もなく、眺めていたチリも飽きたのか指先で干物を突っつくとフム、と鼻を鳴らしてから、
「それにしても、マンドラゴラとクラーケンなんて、山の魔物と海の魔物なんだよね。それを食べちゃうんだから、何だかすごいなぁ!」
妙な組み合わせに感心しながら、お風呂入ってくるねと言い残し、厨房から出ていった。
まだ寒さの残る早春の夜である。寒がりなチリにとって湯上がりの時、身体をしっかり拭かないと濡れた体毛が元で風邪をひきかねない。
ししょーの元に身を寄せた最初の頃、わざわざ井戸水を二階の風呂場まで、螺旋式昇水機とか言う訳の判らない代物で汲み上げるししょーに呆れたものだ。
界隈の家では風呂場は一階の離れに設け、井戸から水を汲んで風呂桶に溜めてから、薪を使って沸かすのが普通である。それをわざわざ二階まで移す手間なんて……そう思っていたのだが、寒い時期は冷たい井戸水に触るだけでも辛いし、況してや寒空の下を抜けて出入りしなければ風呂に入れない。だから、冬場は入浴する回数は少なくなるのも仕方ない。
しかし、ししょーは違ったのだ。わざわざ二階の小部屋を改築し、職人に無理を言って湯船を特注してまで屋内の風呂場に拘ったのだ。その情熱たるや、入浴する習慣に疎かったチリはアホなんじゃないかと疑ったものだが、今では自分から陽の高いうちに井戸水を汲み、厨房の残り火を使って薪を燃やし、進んで湯を沸かすようになった。
脱衣場で各所をよいしょよいしょと拭きながら、姿見の鏡で自分の身体を眺める。所々に古傷の跡はあるが、昔と比べれば随分綺麗に治ったように見える。
ただ、細身の身体はまだ発展途上にしか見えず、チリは少しだけ悲しくなった。
「むー、もっと食べないとダメかなぁ……」
そう呟きながら、ムニッとお腹の肉を摘まんでみるが、悩んでも仕方がない。それに、今の暮らしは食べ物に困らないのだから、そのうち何とかなるだろう。そう気持ちを切り替えると、風邪をひかない内にさっさと服を着る事にした。
「ししょー、お風呂お先でしたー!」
「おお、良くあったまってきたか?」
「もちろん! まだお湯もあったかいから、早く入ってきた方がいいよー!」
頭の上からホコホコと湯気を上げながら、チリがししょーに声を掛ける。明るい内にジャード婦人を夕食に誘っていた二人は、彼女が来る前に食事の支度と入浴を済ませると、皿を並べて準備する。
ししょーが配膳を終えると扉がノックされ、迎えに出たチリは、訪れたジャード婦人を中へと招き入れた。
暗くなっても人通りの多い界隈にある店である。女性が独り歩きしても危険ではないが、店に泊まっても構わない。そうししょーとチリは提案したのだが、彼女に大丈夫だからと断られている。理由を尋ねても良かったのだが、距離感はある程度必要かもと思い、ししょーはそれ以上聞かない事にした。
「寒かったでしょう。暖炉に火を起こしておきましたよ」
ししょーの言葉にジャード婦人は頷く。
「では、また後程。それまで温まっていてください」
火の爆ぜる暖炉の前に彼女を誘い椅子を向かい側に動かして座るよう促すと、にこりと微笑んで腰を下ろした。ししょーより小柄なジャード婦人だが、背筋を正して座る姿は何時にも況して美しかった。




