チリの家出
今日は店の定休日である。ししょーは何時ものように朝食の準備を始めようとして、小さな違和感を覚える。店の厨房に置いてあった食材の幾つかが、明らかに少なくなっているのだ。
日保ちの良い黒パン、硬めのサラミ、長期熟成の固いチーズ……チリがつまみ食いするにしては、随分と片寄った選び方である。まるで長旅に携行するような品々ばかり無くなるなんて……
……そして、まさかと思いながらチリの部屋の前に立ち、ノックしてから室内に踏み込んだししょーが見たのは、空っぽのベッドの上に置かれた書き置きだった。
【 しばらくたびにでます! 】
たった一行だけ、チリの字で書いてあった。
(……旅って、いきなり何なんだよ!?)
心の中でそう思いながら、手短に一言だけ記されたメモを手に取ると、ししょーは部屋を飛び出した。
いつになく、チリの足取りは重かった。背負ったリュックの中身が重いから、ではない。突発的に店を飛び出して、行く先も決めず歩き出したのだが、直ぐに後悔し始めたからだ。勿論、理由は判っている。でも、チリは店を、ししょーの元を飛び出した。
チリは、自分の生い立ちを知らない。気付いた時には既に親は居なかった。そもそも猫人種は生まれて直ぐに歩けるようになり、乳離れも早い分、親離れも早い。貧しい環境で生まれれば大抵の子供は路上を住み処にし、少しでも延命する為に群れて暮らす。
だが、チリはそうした路上生活ではなく、更に危険な生き方をしてきた。そう、姿を消す能力を駆使し、窃盗を繰り返して生きてきたのだ。
最初は少しの食料から始まり、回数を重ねる毎に金目の物にも手を伸ばしながら、町を転々と渡って生活していた。同じ場所に居ては直ぐに足が着き、捕まる確率が上がる。もし、捕まれば軽くて袋叩き。酷ければ得体の知れぬ連中の手で、知らぬ土地に売り飛ばされる。そうした緊張感が常に有る中、チリはそれでも上手くやっていた。
……だが、それは永遠に続く訳も無く。有る時、チリは見た事も無い高額そうな品を並べた屋台の店先から、幾つかの貴金属を掴んで拝借し、脱兎の如く逃げ出したのだが……運の悪い事に、掛かった追っ手が悪かった。
その町の商人組合に雇われていた、犬人種の追跡手がチリを追い続け、三つ先の町で遂に見つかってしまったのだ。
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……ぎしっ、と廃屋の床板が音を立てて軋んだ瞬間、チリは目を覚まして朽ちたベッドから転がるように床へ落ち、そのまま這いつくばってベッドの下に身体を滑り込ませた。
階段を上がる一歩ですら慎重に時間を掛け、音を立てぬよう気遣いながら二階までやって来た連中だが、ドアの前の床だけは踏めば音が鳴るよう細工を施したのが功を奏したようだ。
チリは息を潜めながら身動きを止め、侵入者が現れるのを待った。
やがて……ぎいっ、と部屋のドアが開き、背後から月明かりに照らされながら最初の一人が踏み込んで来る。
(……くろいぬの、かぶってる……)
チリの夜でも見える目を持ってすら、相手の人相は判らない。顔を隠すという事は、昼間は別の稼業で生計を立てているからバレたくないのか、それとも別の理由があるからなのか。
しかし、そんな事は今のチリには関係無かった。この町に来てからは盗みはしていない。つまり、潜伏していたチリに用向きが有る連中ならば……追っ手に違いない。
このままやり過ごして町を出よう。更に更に遠くまで逃げて、絶対に逃げ切って……
そう思った瞬間、有り得ない事だが、男はチリが隠れていたベッドを力任せに持ち上げて、彼女を一瞬で掴んだのだ。
「ああぁっ!? は、はなせぇ!!」
ギリギリと容赦無い握力で腕を掴まれたチリは、自由に動く片方の手で相手の顔を覆っていた布を掴んだ。
ずるっ、と拍子抜けする程、簡単に布が剥がれ、隠されていた相手の顔が露になった瞬間、チリは思わず息を飲んだ。
「……誰が逃がすってんだよ……お前は希少な【山猫族】の娘なんだからな……」
嗄れた男の声よりも、その言葉の内容よりも……チリの目を奪ったのは男の顔面に巻かれた呪符の帯だった。眼を模した呪印と退魔の呪文が交互に並び、暗闇の中でも怪しく赤い光を放つそれは、どんな魔導を使って姿を隠しても必ず探し当てられる【狂犬の魔眼】を施した魔具。無論、魔導の知識もないチリは知り得なかったが。
しかし、そんな物を使ってまで自分の事を付け狙う奴は、何を言っても無駄な事をチリは良く知っていた。だからこそ、彼女は全力で抗った。
隠し持っていた小刀を掴み、相手の脇腹に突き刺す。ぐぅ、と小さな呻き声と共に腕を掴む力が弛んだ瞬間を狙い、小刀を相手の腕に突き立てようと構えた時、
「何遊んでんだよっ!! おらぁっ!!」
男の背後から粗野な叫びと共に、硬く長い何かがチリの頭を目掛けて振り下ろされた。
がごっ、という音と共に、強烈な衝撃がチリの脳を激しく揺らし、吐き気すら催す程の眩暈が押し寄せた。
それは細長い革の袋に砂を詰めた特殊な暗具の一種で、後端を握り締めて撲ると、頭の骨を砕かずに芯を揺らして相手を昏倒させられる物だった。
「……まあ、いいか。少し可愛がってやりゃあ、自分の立場ってモンがよーく判るだろうならなぁ?」
そう言いながら男は、暗闇の中で別の暗具を取り出すと、鋭く振り下ろしてチリの身体に容赦なく打ち付けた。
「あぎぃっ!?」
その暗具は微細なトゲでも植えてあるのか、服を引き裂いて肌に当たる度、焼き付くような痛みが走る。
「……これはよ、生意気なバカを素直にさせる為の【躾の舌】って代物さ。お前みたいなメスガキでも、たっぷり叩きのめしてから塩入りの湯に浸けりゃ、足りないオツムでも……よぉーく判るようになるぜ?」
再び振り下ろされた暗具が幾度もチリの身体に触れる度、絞り出すような悲鳴がチリの口から漏れ、五回目の殴打を身に受けた直後、チリは気を失った。




