⑤貸し切りの夜
その日の夕刻。辺りの店に灯りが点される頃、【クエバ・ワカル】亭の入り口にはこんな札が出されていた。
【本日はかしきりです。またのご利用をおまちしてます】
常連客の一般的な嗜好の人々は、他に回るかと店の前から立ち去り、やや一般的な嗜好から掛け離れた人々は、どんな魔物が供されるのか気になりながら、後ろ髪を引かれる思いで店の前から離れていった。
ししょーは昼からヒュドラの仕込みを続け、解体された部位を様々な料理へと変化させていく。無論、チリが手伝う事も有ったが、基本的な調理はししょーが一人で作っていく。
「……それにしても、旦那にしちゃあ珍しいじゃないか、貸し切りにするなんてよ。どういう風の吹き回しだい?」
手際良く作業するししょーの傍らで、椅子に腰掛けながらジェロキアが尋ねると、作業の手を休めながらししょーが答える。
「どうしたも何もないよ。儲けが出れば、貸し切りにするさ。俺は慈善家じゃないし、チリと暮らせて店が維持できるだけの稼ぎになれば、誰が支払おうと構いはしないさ」
「まあ、そうだろうな……それにしても、ヒュドラを一人で狩っちまうとはな。エルメンタリアって本当は【魔人】なんじゃないかね……」
ジェロキアは呆れたように呟きながら、湯気を上げながらふつふつと沸く鍋に視線を送りつつ、
「……帝国の強襲部隊って言えば、鬼人種やら狼人種みたいな血に飢えた連中がわんさか居て、捕虜も取らず無抵抗の敵でも見境無く殺す……無慈悲な殺人狂の集団だって噂は聞いてたが、案外違うみたいだな」
そう呟いてから、ポンと上に放った豆を器用に口で受け止める。
「……まあ、俺も大して変わりはしないか……」
ジェロキアはそう続けて、ししょーの反応を見る。すると、ししょーは忙しなく動かしていた手を停め、ジェロキアの顔を眺めながら口を開いた。
「……俺は、ジェロキア……あんたが何処で何をしてきたかは知らん。だが、必要に応じて剣を取り、結果的に人を殺めたとして、それをとやかく言うつもりは無いさ」
「……気休めは止してくれ。所詮、剣を使って一人でも斬れば、理由があろうと無かろうと、結局は同じ事さ……」
自嘲気味に答えるジェロキアだったが、ししょーは手に持った包丁の刃を、取り出した砥石の上に当てて、水を垂らしてからゆっくりと研ぎ、軽く指先で触れて感触を確かめてから、再び研ぎ始める。
「……人間は、生きていく為には必ず、何かを殺めていかんと飢えて死ぬもんだ。草木にだって魂は宿るし、食う為に他の生き物の命を奪う事なんて……避けて通れんよ」
しゅっ、しゅっ、と軽やかなリズムを維持しながら、ししょーは包丁を研ぎ続ける。
「……ジェロキア。あんたは俺が、何処で何をしてきたのか聞かず、この国に入る事を認めてくれた数少ない味方……身内みたいなもんだ。だが、やはり言えない事だってある……」
そう言いながら刃先に付いた砥石のカスを拭き取り、まな板に乗せて力を籠め、微動だにしない研ぎ上がりに満足そうに頷いてから、再び口を開いた。
「……たぶんだが、過去の俺はあんたより沢山……人を殺してきた。無論、チリは知らんし教えるつもりもない。名を捨てて【ししょー】として生きていく事にしたのも、元はと言えばチリが俺の前に現れ……」
と、そこまで話していたししょーが口を噤むと、チリがトットと軽やかな足取りで厨房に現れて、
「ししょー! ホーリィさん達が来たよ!」
と、今夜の主賓が来店した事を告げた。
「判った、取り敢えず店の中に案内しといてくれ」
ししょーはチリにそうお願いすると、包丁を収納庫へと仕舞った。
「……なあ、昔から料理が得意だったのか?」
ジェロキアがそんな彼に何気無く尋ねてみると、少しだけ頬を緩めながら、ししょーが楽しそうに答え、それを聞いたジェロキアは少しだけ驚いた。
「……いや、料理を本格的に取り組んだのは、此方側に来てからだ。それまでは店で買うか、食べに行く程度で包丁も持った事は無かったなぁ」
そうそう、折角ついた【いいね】ボタン、押してみませんか? 押したらきっと……いいことありますよ?