②口開けの客
【クエバ・ワカル】亭の店の前の札が、営業中を示す【○】から【✕】になったまま、夕闇が辺りを包み込む。やがて周辺の店が軒先に吊るされたランプが次々と火を灯し夜の営業を開始する。
無論、仕込みに時間が掛かる時は何か有る、と【クエバ・ワカル】亭の事情を知っている常連客達は(また怪しい食材を仕入れたのか?)と思う常識的な者と(また変わった食材を仕入れたのか!)と思う非常識的な者に別れ、後者は時折名残惜しそうに店の前を彷徨いては時間潰しの為にか、他の店を冷やかしに通りの奥へと消えて行った。
「よっ、まだ時間は掛かりそうなのか?」
店の裏口から勝手に入ってきた騎士団長のジェロキアに、ししょーは煙たげな視線を浴びせはしたが、しかし追い返す事はせず、黙ったまま店の中で待つよう促した。
「それにしても、スライムを食べるってのは聞いた事も無いが……」
「山の方の住人は、干してスープの具にするらしいが、余り一般的な食材にはされないよ」
そのまま待とうとしたジェロキアに、薄めた酒の杯を手渡しながら、ししょーが湯気を上げる鍋の中身を杓子で軽くかき混ぜた。
「ししょー、これは何処に仕舞っとく?」
「……ん。冷めるまでテーブルの上に出しといてくれな」
チリが手にした茶色い紐状の物を掲げると、ししょーは手に取って固さを確かめた後、彼女の頭を撫でてからテーブルを指差した。
「今のは何だ?」
「……秘密さ。後でちゃんと食わせてやるから」
「そうかい、なら楽しみに待つとするか……」
店内とカウンターを仕切る提供台越しにちらりと見えたのか、ジェロキアが皿の上の料理について尋ねると、ししょーは鍋の蓋を戻しながら答える。そんなやり取りを続けながら【スライム】料理は続けられ、いつもより少しだけ遅れながら【クエバ・ワカル】亭の札が【✕】から【○】へと戻された。
「いらっしゃあーい! あ、ラクエルさんこんばんは!!」
「は~い、チリちゃんも元気そうね! 可愛いチリちゃんにまた会えて、私も嬉しいわ!」
夜になり【クエバ・ワカル】亭が再び営業を開始すると、待ち詫びていた常連客達が次々と来店し、店内は昼とは違った賑やかさを取り戻し始めた。
ラクエルと呼ばれた女性は、明るくチリに微笑みながらそう言うと、ジェロキアが座っていたテーブルに近付き、そのまま向かい側に腰掛ける。
「……団長、何も言わずに出ていったから副団長が怒ってましたよ?」
「ああ、わざとだよ……アイツは俺が居ると頼りっ切りになるし、少しは上に立つ自覚ってのが必要だろう」
そんなやり取りを始め、チリが差し出したグラスを手に持ちながら会話を続ける。
やがて席に着いた客が、提供台の上に掲げられた黒板に目を向けると、【今日のお品書き】の下には、椅子に乗りながらチリが書いた字が踊っていた。
【スライムにゅーか!! きょうのいちおし!】
【つるつるのおさしみ】
【がむがむなくんせい】
【やわやわなにこみ】
【スライムいりサラダ】
「……ああ、そーゆー日、なのねぇ……」
この店の常連客ながら、一般的な嗜好のラクエルはお品書きを読み、気の抜けた声を出した。
「……城のゴミ捨て場に湧いたスライムを、団長が進んで退治に行ったって聞いたから怪しいと思ってたけど……こーゆー事だったのね?」
ラクエルが湿度たっぷりな視線でジェロキアを睨みつつ、指先でテーブルを叩きながら呟くと、彼ははぐらかそうとお品書きを眺めながら、
「まー、いいじゃないか! 俺が奢るからどれか食ってみちゃどうだい?」
「……でも、あのスライムでしょ? まぁ、いいわ……でも、そうね……サラダ、かなぁ……」
迷いつつ無難なメニューに決めたようで、チリに向かって手を挙げた。
「チリちゃーん! このサラダお願い!!」
【スライムいりサラダ】
「……どこから見ても、スライムよね……」
「まあ、どこから見ても、スライムだな……」
ジェロキアとラクエルの間に置かれた木の鉢。その上にはたっぷりの青野菜、そして苦味と香りが強い香草が散らされ、隙間から覗く短冊状のスライム肉が見え隠れしている。
「このドレッシングを掛けるとおいしーよ!」
小さな陶磁器の入れ物を手渡すチリに、ラクエルは愛想笑いで受け取り、ジェロキアを一目見てからぐるりと一周させて全て掛けてしまった。
「せめて一口位は、そのまま食べた方が……」
「……私は団長とは違って、普通だからコレでいいんですっ!!」
ジェロキアが窘めはしたものの、ラクエルは平然と告げながら、トングでスライム肉と野菜を小皿に載せ、自分とジェロキアの前へと取り分けた。
「……覚悟出来ました。ああ、これが最後の食事になるかもしれないのね……」
「君は大袈裟過ぎだよ、たかがスライムだろう?」
そんなやり取りを交わしつつ、ジェロキアは自分のサラダにドレッシングを掛けてから、ラクエルに視線を送る。
「……もう! 判りましたよ!! はあ、団長の奢りじゃなければ食べないのに……」
諦めたように言いながら、ラクエルは意を決しフォークに刺したスライムサラダを噛み締めた。