①舐めて貰っちゃあ困る
……ヒュドラか。
その魔獣の姿を目の当たりにしたエルメンタリアは、小さく舌打ちをしながら木陰に身を隠し、ザワザワと木々の枝が風に揺れて触れ合うような耳障りな音を聞きながら、自分の発した名前が呪いを伴うかのように口を閉ざす。
一度見れば絶対に忘れぬその姿は、面妖そのものである。樽のように膨らんだ胴体には太く短い鉤爪を備えた脚が一対生え、身体より長い尻尾を持つ。いつもはズルズルと重たげな身体を引き摺るようにして進むのだが、一度でも獲物と見れば、ヒュドラの短い脚はその巨体に似合わぬ速さを発揮し、執念深く相手を追い続ける。
ざわざわ……と再びヒュドラから耳障りな音が辺りに響き、エルメンタリアは用心しながら更に身を低くする。
視線の先のヒュドラの身体から伸びる何かが、身体の向きが変わる度に細くしなやかな柳の枝のように靡き、ポタポタと雨に似た雫を地面に垂らして丸い形に濡らしていく。
そう、容易く想像し得ない程の奇怪な姿。幾重もの数え切れない毒蛇の頭を生やしたカシの巨木の幹のような胴体……エルメンタリアが何人も束になっても、まだ足りない体躯に不釣り合いの靭やかな蛇の頭部が、樹木の根のように蔓延りながら夥しく動き回っているのだ。
(……獲物を探しているのか? それにしても、デカい奴だな)
木の陰から相手の動きを窺いつつ、彼女はヒュドラの目的を探る。あれだけの身体である、生きる為に食う必要があり、既に村一つと牧場の牛馬が食われている。ならば、腹を空かせて彷徨いているのだろうか。
「……まあ、畜生相手に出し惜しみする程度の、魔導じゃないけどさぁ……」
……しかし。何を言おうと彼女にとって、何が一番大切なのか。
「……目一杯……殺り合えるんだから、楽しまなきゃなあっ!!」
ぎんっ、とエルメンタリアの足元に魔導の印が浮かび上がり、同時に森の木々が風に吹かれたように靡き始める。
はら、はらはらとエルメンタリアの頭頂から、魔導の飛沫が蒼い花弁の幻影の如く具現化し、彼女の身体の表面に触れた傍から吸い込まれるように消えていく。
それを皮切りに、彼女を中心に結印の兆候を現す大気の渦が巻き上がり、ざわめきが森を駆け抜けるとヒュドラの鎌首が一斉に動くと、何かの気配を察したのか、巨体からは想像も出来ぬ早さで胴体が向き直る。
「……はっ! 畜生の癖にイイ動きするじゃん!?」
身を乢ませてヒュドラが滑るように進み、森の灌木をメキメキとへし折りながらエルメンタリアを捕捉する。
射程距離に入った瞬間、仰け反るように身体を伸び上がらせた後、ざああぁっと互いに身体をぶつけ合いながらヒュドラの首が猛毒の汁を牙から滴らせつつ、彼女目掛けて一斉に噛み付いた。
が、大量の蛇達が顎を閉ざして捕らえた筈の柔らかな彼女の白い肌は、既にその場に無かった。
魔導を用いて生み出された合成獣は、忽然と消え失せた獲物を見つけようと、各々の口腔内にある感覚器官で獲物の匂いを辿る為にチロチロと舌を出すが、なかなか見つけられない。
ザワザワと互いに身体をぶつけ合いながら辺りを探し回り、太い足を踏み締めて身体の向きを変えようとした瞬間、矢の如き瞬足で木陰から飛び出したエルメンタリアは刃を煌めかせ、その足を斬り付けた。
(……んあぁ? 何だ……ヌルッと逸れたみてぇな手応えだな)
その手に握られし魔剣【フシダラ】と【ミダラ】を振り翳し、彼女は一刀、また一刀と左右から撫でるように振り抜いたが、妙な手応えに眉を寄せる。敵の身体を鎧ごと両断出来る程の切れ味を誇る魔剣にも関わらず、ヒュドラの足から伝わる手応えは、塗られた油で刃先が滑るような感触だったのだ。
その理由はヒュドラが、自然の理から外れた合成獣として【対刃付与の護法】を生まれながらに持ち合わせていたからだが、今のエルメンタリアにその事実を知る由も無い。
無論、直ぐ様エルメンタリア目掛け、次々と毒牙を剥きながら数多の蛇の頭が殺到するが、
「はっ!! へ温いぜっ!!」
黒い被服に革の防具のみの軽装なエルメンタリアは、絡み付くように次々と襲い掛かるヒュドラの首を、
「……遅えぇな」ざくっ、
「……ふざけてやがるぜ」ざしっ、
「……そんなもんか?」ざざっ、
まるで彼女は雑草を刈り取る農夫の鎌のように蛇の頭へと振るい、その度にヒュドラの足元に物言わぬ骸と化した蛇を増やしていき、
「……なぁーんだ、胴は何か仕掛けでも有ったみてぇだが、首の方は目立って何もなさそうだな。斬り放題だ」
そう言いながら、鞘に二振りの魔剣を鍔元まで差し込み、パチンと鯉口を鳴らした。




