③肉を柔らかく
今日は【クエバ・ワカル】亭の昼間の営業を臨時休業にし、グリフォン肉の仕込みに費やす事にしたししょーだったが、そうなるとチリは半日お休みである。住み込みで働くチリにとって、ししょーとの生活は衣食住全てを満たす快適な暮らしだが、週に一度の定休日以外は不安定だった。本来は気ままで規律とは無縁な猫人種のチリにとって、半日といえど貴重な休みである。
【ノックしてもおきないかも!!】
扉にいつも同じ札がぶら下げられたチリの部屋からは、規則的な寝息が漏れ聞こえる。既に朝から昼に変わる時間になっても、チリの怠惰な自由時間は続きそうである。
(……んにゃあ、むふぅ……♪)
乱れた寝具に包まれながら、浅い眠りの中で夢と目覚めを行き来して至福の時をチリは過ごす。甘やかな食事に、優しい抱擁。満ち足りた睡眠を得ながら、行きたい場所に行きたい人と共に……
(……あーん♪ あむっ! んむ、んむぅ……♪)
三欲の大半を満たされながら、チリはテーブル全面に広げられた美食の数々へと辿り着くと、ごろりとテーブル上に横たわりながら一つづつ摘まんでは、ゴロゴロと満足げに喉を鳴らしながらそのまま寝返りする。
と、甘い言葉と共に誰かの顔がチリの顔へと近付き、あと少しで唇同士が触れ合うと思った瞬間……
「……んぎゃっ!?」
……どしん、とベッドから転がり落ち、叫んだ拍子で心地良い夢の世界から現実の世界へと引き戻された。
「ししょー、おあよぅごあぃま……しゅっ!?」
目覚めて寝惚けながら階下へ降り、いつも通り厨房の入り口に踏み入れ掛かったチリは、繋がる店内からジェロキアと見慣れぬ二人の来客の眼と眼が合い、言葉を飲み込んだ。
(……チリ、身支度はキチンとしてきなさい……)
一瞬振り向いてから、背中越しに伝わるししょーの声は、彼女の未発達な胸がほぼ出かかった寝着と、クシャクシャになった髪の毛に向けられていた。
「……チリちゃんって、いつもああなのか?」
「いや、休みの朝だけだよ……何度言っても変わらんが」
ジェロキアの呆然とした声に、ししょーは疲れたように返答するが、チリと同性のキリアと妻子持ちのカーボンは、仕方ないさと小さく笑い、苦い空気を打ち消した。
「んぎぎ……か、固いぃ……」
慌てながらチリは着替えを済ませ、漸く辿り着いた最初の一口を噛み締めた瞬間の感想は、ししょーの予想通りだった。
「……だろうなぁ」
「判ってて、そのまんま!? きーっ!!」
チリはししょーの元で満ち足りた食事に慣れていたせいか、少しの妥協も許さなくなっていた。まあ、舌が肥えると言うのは、有る意味不幸でもある典型的な例である。
「それ、今朝方獲って来たばかりのグリフォンの……腿肉なんだが、鮮度が良過ぎると締まって固いみたいだな」
「むふぅー! チリのアゴはデリケートなの!」
チリはプンスコと怒りを露にしながら足をバタつかせる。そんな様子に苦笑しながら、ししょーは別の皿を差し出す。
「じゃあ、こっちはどうだ。たぶん幾らかマシだと思うが」
「……マシだとか言われても、一度曲がったオヘソはまっすぐにならないんだから!」
減らず口を叩きながら、でも昼前まで寝ていたチリはお腹が空いていた。固くて噛み切れない腿肉に見切りを付けて、新しい皿を見てみると……
「……ししょー、さっきと同じお肉じゃん?」
疑り深くフォークの先で転がしながら確かめてみるが、どう見てもさっきのタレ付き焼き肉としか思えない。焦げ目も匂いも全く同じだし、ついでに言えばさっきと同じフライパンから取り出した気がする。
「もう! チリは簡単に騙されないから……」
とは言いながら、プチッとフォークで突き刺すと案外柔らかい。いや、とにかく食えば判る筈だと腹を括って噛み付いた。
ぎゅっ、と前歯で容易く噛み切れたその肉は、幾度か咀嚼するだけで柔らかく解れ、ホロホロと口の中で砕けていく。それだけなのに、さっきの肉とは全然違うのだが……肉本来の旨味もそれなりにあるし、タレのせいもあって各々の違いが見当たらないのである。
「……ししょー、煮込んだ?」
「いや、煮込んでない。煮れば柔らかくなるってのは素人判断だな」
「チリはおりょーり、素人ですから!」
無い胸を張りながら凛と答えるチリに、それは威張るなよと思いながら、しかし予想通りの感想に安堵する。グリフォン肉は確かに部位に依って固さのばらつきがあるが、腱のように固過ぎて煮込まないと食えない訳では無いようだ。
「で、どーやって柔らかくしたの?」
「ん? いや普通に果汁漬けにして叩いただけだよ」
「そんだけで? ウソだぁ~!」
「嘘ついてどうするんだよ……あぁ、あと摺ったキノコとタマネギも入れたし、ハチミツも塗ったな」
「ふぅ~ん、そっか……って、手間ヒマかけまくりじゃない?」
ししょーの説明に納得したのか、うむうむと頷きながら二口目を頬張るチリは、だったら最初のお肉もどうして柔らかくしなかったのか不思議だった。




