始めのお話
誰もが知ってるあの味も、作り手変われば違う味。カレーだって、ハンバーグだって、魔物だって……?
とんとんとん、リズミカルな包丁の音が早朝の厨房に木霊する。木のまな板を打つ刃物が小気味良い調子を奏で、眠りの薄らいだ耳を優しく撫でる。
じゃあああっ、と良く使い込まれて十分に油が回り、黒光りしたフライパンへバターが落とされ泡立ちながら溶ける音が、廊下を通り抜け家屋の中を行き渡る。暫し後に卵が流し込まれてふつふつと泡立ちながら、艶々とした美しい表面に芳ばしい香りを纏い、引き伸ばされた楕円形に変わっていく。
「……ふああぁ、や、朝かぁ……」
大きなアクビと共に目覚めた人影が、カーテンで光を遮られた薄闇の中で身を起こし、うーんと伸びをする。
たと、と床に裸足の爪先を着け、眠い目を擦りながらブカブカの寝着姿で扉に向かい、ガチャリと開けると光が射し込む廊下へと進んで行った。
「おあよぉございますぅ……ししょー」
「……ん、おはよう」
目覚めた人影が厨房の柱の陰から顔を覗かせて挨拶すると、湯気の立つ鍋の前に立つ【ししょー】と呼ばれた男も声を掛けて相手の頭に手を当てると、寝癖混じりのクセっ毛を撫で付けてから、
「洗面所で顔を洗ってきな。それとキチンと着替えなきゃダメだぞ、チリ」
「ふあぁーい、わかりますゅたぁ……」
チリと呼ばれた小柄な人物は、返事と共にポリポリと脇腹を掻きながら背中を向けると、着替えをする為に部屋へと戻っていった。
「……ん~、そうなの?」
「ああ、今日中に届くらしい。結構な大物だそうだ」
身支度を整えたチリと朝の食卓を囲みながら、彼は今日訪れる客と持ち込まれる食材について説明を始めたが、チリはフンフンと頷きつつ地鶏の卵焼きに夢中で、細かい所は聞いていなかった。
ここは中央都市の外れ、人口密集地からやや離れた商業地区に程近い小さな食堂である。表の看板には【クエバ・ワカル】と言う挑発的な文句が屋号代わりに書き殴られているが、界隈の住民からは【クエバ亭】と簡素に略されて呼ばれている。
五年程前、空き家だった元食堂の建物に【クエバ・ワカル】の看板が付けられた当初は、誰もが怪しい店じゃなかろうかと警戒して近づかなかった。しかし、昼前になると建物から香ばしく旨そうな匂いが通りに流れ、怖い物見たさに後押しされながら一人、また一人と中へと吸い込まれて行き、やがて店は【クエバ】亭として辺りの住人に認知されるようになったのだ。
但し、店主の風変わりな嗜好が手伝い、只の食堂の筈なのに一部の人種からは【どんな食材でも料理する店】として有名になっていた。
「いらっしゃあーい! ……あ、団長さん!」
「こんにちは、チリちゃん。旦那は居るかい?」
昼の店の忙しさが一段落し中弛みの時間になった頃、団長と呼ばれた屈強な男性が店の両開きの扉を開け、店の中へと足を踏み入れた。応じたチリは柔らかな毛に包まれた耳を立てながら厨房に向かって声を掛けた。
「ししょー!! だんちょーサンが来たよぉ!!」
「んあ? あー、やっと来たか……はいはい」
洗い物を片付けていたししょーが手を拭きながら厨房を出ると、テーブルの脇に置かれた椅子に腰を掛けた団長が立ち上がり、店の外を指差しながら口を開いた。
「……悪いな、馬車が着いたばかりなんだが……ちょっと見てくれ」
「勿論! かなりの大物だと聞いていたから、待ちわびてた所だ!」
さっきまでの単調な皿洗いから解放されたのが嬉しいからか、チリに向かって賄い有るから食べておきなと声を掛け、前掛けを外しながら店の外に出ると、掛けられていた【○】の札を【✕】へと裏返した。
「ふうぅむ、こりゃあデカいな」
「……だろう? 俺も長年、色んなバケモンを見てきたが……これだけの大物は見た事は無いな」
馬車に腰掛けていた馭者の青年が、出て来た隊長の顔を見るなりアクビを慌てて噛み殺す姿に苦笑しつつ、ししょーは掛けられていた帆布を捲り、中に横たわっていた大きな生き物と対峙した。
ブヨブヨとした表面は半透明で、ゼラチン質に似て陽の光に晒されて内部の様子が透けて見える。中核らしき赤い点が中央部に浮遊しているが、そこから神経らしき筋が表面に向かって伸び、怪異な見た目ながら立派な生命体としての主張をしているようにも見える。
世間的に【スライム】等と呼称され、様々な文献にも多く取り上げられる典型的な魔物であり、奇怪な見た目と貪欲な性質も有って、人々から忌み嫌われている存在である。
「しかし、よくもまぁ……ここまで大きくなったもんだな。何処で見つかったんだい」
「あー、それがな……城のゴミ置き場に居たんだよ」
「……そりゃあ、他言無用だな……」
隊長曰く、昔からゴミ置き場の隅に小さな縦穴が有り、そこに捨てられた食べ残しや骨等のカスが良く転がり込む事があったらしく、そこにいつの間にか住み着いたスライムが巣穴にしていたそうだ。しかも、運の悪い事に潜り込んだスライムが、大きく成長すると牛より大きくなる種類だったらしく、気付いた時には大騒ぎへと発展したそうだとか。
「……しかし、こんな化け物を調理してみたいだなんて……つくづくお前さんも変わり者だな」
「そうか? 俺は只の料理人さ。その代わり、騎士が剣の道を極めようとするのと同じように、料理の道を極めたいだけだよ」
さらりと言いながら、ししょーは帆布を再び被せると、店の裏口へと回り込んで扉の鍵を開けて、厨房の中に巨大なスライムを運び込む準備を始めた。