6 わたしと体温
「お、」
オグウェルト様、とびっくりして呼びそうになったが、喉がかすれて声はうまく出なかった。
「レア」
逆にオグウェルト様ははっきりとした声でわたしの名を呼ぶ。既に近くにいたオグウェルト様は、つかつかともっとそばまで来て、わたしと目線を合わせるためか、わたしのすぐ横で膝を着く。
どうしよう、と少し混乱していた。まさかオグウェルト様だとは思わなかったし、急にそんなに近くに来られたら心臓が暴れてしまう。こんな距離でオグウェルト様を見たことは、今まで1度もない。思わず顔を伏せた。
「どうした」
声が至近距離から聞こえた。わたしの耳が心地よく震える。この声が、とても好きだ。頭の中ではオグウェルト様に対する返答ではなくて、収まらない気持ちが渦をまく。
「何かあったか?」
答えないわたしにオグウェルト様は更に言葉を続ける。自分の早い鼓動を感じながら、答えないととやっと思い至って、だけどなんて言えば良いのか分からず、否定するために首を横に小刻みに降った。違うんです、何もないんですけど…。
今日はハナにもオグウェルト様にも、困らせて迷惑をかけてしまっている。
とりあえず否定の意味は伝わったようで、オグウェルト様は何も言わなかった。ただ、なんだか視線を感じて顔を上げると、オグウェルト様はわたしをじっと見ていた。なんだか納得していない顔をしている気がする。
こんなに至近距離の彼の顔を見続けていたらたぶん心臓が壊れるか頭が沸騰するかしてしまう。どきまぎしながらも、また顔を伏せたら心配させてしまうかもと思って、ちょっと視線を外しただけで済ませる。今度はオグウェルト様の姿は視界に入り続けていた。
しばらくして、オグウェルト様は髪をかきあげながら、ふう、とため息をついた。とても色っぽい。いや、今はどんな行動でもわたしはオグウェルト様にやられてしまうかもしれない。
「…夜中に薄着で…寒いだろう」
何か言いたげな顔で、それなのに最初に言われたのはわたしを気遣う言葉だった。
確かに先程までは肌寒かったが、今はそれどころではなかった。もしかしたら逆に身体は熱を持っているかもしれないと思うくらいだった。
恥ずかしい、と思った。
会えて嬉しい、躊躇なくわたしの横で膝をついてわたしと視線を合わせてくれる優しさが好き。
そんなことばかり頭に浮かんで、身体が熱くなるほど彼のことが好きなんだと思うと、ひとりよがりで恥ずかしかった。
わたしはもうこの屋敷を出ていく人間なのに。こんなこと思っているとオグウェルト様が知ったら、きっと幻滅されてしまう。
せめて。
せめてこの気持ちはオグウェルト様に気づかれないようにしなくては。
ぎゅっと自分でストールをかきあわせた。大丈夫ですと伝えたくて。
「もう戻りますので…」
わたしが言いかけるのとオグウェルト様が動くのは同じタイミングだった。言い終わる前に、わたしの肩にはオグウェルト様の着ていたカーディガンがかけられていた。
「…着ていなさい、嫌でなければ」
嫌なはずありますかと口には出せずに全力で首を降ってから、この反応はまずいのではと気づいて慌てて止めた。
いい香りがする。春の風の香りではない。もっと、クラクラするような香りだ。そしてすっぽりと温かさに包まれる。彼が、先程まで着ていたカーディガン。彼の、体温。
考えたら尚更、体中が熱くなってくる。いけない。
お礼をせねばと小さな声で「ありがとうございます」と言うと、オグウェルト様は「入ろう」と言ってわたしに背を向けて歩き出した。思ったよりもか細くしか声が出なくて、恥ずかしさで泣きそうになった。
裏口から屋敷に入っても、オグウェルト様は何も言わずに廊下を進み続けた。
わたしは自分の部屋に戻る方が良いのかなと少し考えたけれど、時折私の足音が不規則になると、オグウェルト様も歩くのを止めてわたしを振り返った。着いてきているか確認しているように思われて、とりあえずあとを着いて行くことにした。
普段わたしがほとんど来る機会のない場所、オグウェルト様の自室の方へと向かっているようだった。
目的地はオグウェルト様の自室と繋がっている、書斎だった。オグウェルト様は部屋の前に着くとポケットから鍵を取り出して扉を開け、わたしを振り返った。
「先程まで使っていたから、暖かいはずだ」
わたしが入れるようにと扉を抑えてくれていて、入ったことのないオグウェルト様の部屋に緊張しながらも、面倒をかけてはいけないと部屋に滑り込む。もう扉を抑えていてくれる姿ですらかっこよくて赤面しそうだった。
部屋の中は大きな書斎机と沢山の本棚があり、ちょっとした流しも見えた。奥まったところは小さな応接スペースのようになっていて、ローテーブルとそれを挟んで向き合うように置かれた1人がけのソファが2つあった。
わたしはすぐに「座って」とオグウェルト様から一方のソファを指定して言われ、戸惑いつつも腰掛けた。ハリがあって座りやすいソファだった。
オグウェルト様はすぐには座らず、流しの方へ向かったかと思えば、少ししてカップを2つ持って戻ってきた。
「ハナが淹れたほうが味が良いだろうが」
そう言って私の目の前のローテーブルに置かれたカップの中身は黄金色をしていた。いい香りがする。カモミールティーだろうか。湯気が立って温かそうだった。
「すみません、ありがとうございます」
お礼を言ったわたしに微かに頷いたオグウェルト様は、空いていたもうひとつのソファ腰を下ろして、手に持ったカップに口をつけていた。そちらからは濃いコーヒーの香りがした。