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自分が使っていた馬車に乗り込み、揺られること数十分。王家の所有地であるなだらかな丘に建つ小さな屋敷が、クリストファーの現在の住まいだ。王族から籍を抜いたからと王城に住うことを辞退し、少数の執事と侍女を連れてそこに暮らしている、というのはエリカだけではなく誰でも知っているような事だ。
手荷物の検査をして案内されたのは温室だった。穏やかな温度と異国の植物が溢れるその場所で、やはり植物の魔力かしら、と考えていると、クリストファー自らティーセットを乗せた盆を持ってやってくる。
「クリストファー様、私がやります!」
「いい、レディ・ノートは気にしなくていい。無理を言ったのはこちらなんだ。それにこれくらい慣れている。気が知れてるからか、うちのは皆私の扱いが雑なんだ」
「おや、私どもの悪口ですか? そんなこと言うおぼっちゃまにはこちらのゼリーは差し上げられませんね」
美しいゼリーを持ってきたメイドが笑いながらテーブルに置いて去っていく。ほらな、なんて笑いながらクリストファーは席についた。
「さて、これから話す内容は他言無用だ。けして誰にも話してならない。君の親友であるヴィクトリア嬢にも、だ」
「ご安心下さいませ。相手がどなた様であろうとも、顧客の秘密はけして漏らしたりしません」
エリカの言葉にクリストファーは頷くと、声を上げる。入ってきたのは先ほどのメイドで、その手には重々しい装飾のされた蓋付きの箱がある。
「その中に入ってるものから魔力を抽出し、香水を作って欲しい」
「……いくつか質問を。香水をつけるのはクリストファー様でしょうか?」
「そうだ」
「では、その香水をつけていく先などは想定しておりますか? 普段使い、パーティ向けなど場面により調合は変わります。目立ちたい、目立ちたくない、華やかなもの、涼やかなもの。そのような希望はありますか?」
箱を開けるまでもなく立て続けの質問に、クリストファーが驚いたように目を丸くする。
「……香水とはそこまで細かく決めて作るもんなんだな」
「もちろん出来合いのものを望む方もいらっしゃいますが、私は叶うならば、一人一人に合わせたものを贈りたいと思っております」
なるほど、と頷いたクリストファーが少しだけ考えるように目を伏せる。私より睫毛が長いわ、なんて観察していると、ふるりと睫毛が震え、その淡いライラックの瞳がエリカを捉えた。
「ならば、香りが広がるのを抑えることはできるか? そうだな、強いて言うのならば、自分だけが感じられればいい」
にこりと笑いながらピンと人差し指を立てて、クリストファーが小首を傾げる。まるで品定めでもされている気分になるのは何故かしら、と思いながらもエリカは頷いた。
「可能です。ルームフレグランスなどではなく、ご自身につける香水というお考えでよろしいですね?」
「その通り」
わかりました、と頷いて一度深呼吸。レースの外行きの手袋を外し、代わりに常に持ち歩いている白いシルクの手袋をつけると箱に触れた。
どんなものかしら、と箱の留め具を外し、蓋を持ち上げる。神経を研ぎ澄まし、微かに触れた魔力にやはり植物かしら、なんて考えながら箱の中身を目にして。
パタン、とエリカは箱を閉じた。
「…………クリストファー様」
「なんだ」
「けして答えなくてもこちらの作業に問題はありませんが、一つ質問を」
ああ、嫌になる。今でこそ感謝しているが、昔はこの魔力感知や抽出に関する自分の才能が嫌いだったことを思い出した。理解しなくていいものまで勝手に理解して、触れたくない魔力を勝手に拾ってくる。それを才能だと言ってくれる親友がいなければ。
箱の中身は、一房の髪だった。留め具で束ねられたその長さは十五センチ程で、柔らかな日差しのような色をしていた。けれど、けれども。その魔力の質を、理解してしまう。分かってしまう。声が震えていませんように、とエリカは願いながら口を開いた。
「これは、亡くなられた方の髪ですね」
余計なことまで分かってしまうから、私はずっとこの才能が嫌いだったのだ。
「……魔力抽出を極めると、そこまで分かるんだな」
先程とは違う、苦笑のような笑みを浮かべたクリストファーが背もたれに体重をかける。エリカは失礼しました、と頭を下げるが、すぐに顔を上げてくれ、と言われてしまう。
「私の乳兄弟の髪だ」
それだけ告げて、クリストファーは口を閉ざす。わかりました、とエリカは頷いた。
「……それでは必要な魔力の抽出を行います。すぐに終わりますのでお待ち下さいませ」
鞄から魔力を保管できる試験管を取り出すと、エリカは深呼吸してもう一度箱を開ける。魔力抽出は意識しなくたってできる。自分の魔力が混ざり困らないようにしつつ流れを作り、髪から試験管へ魔力の誘導をする。最後に試験管から魔力が溢れないように蓋をして、さらにエリカの魔力で包み込めばおしまいだ。ものの十五秒ぐらいで試験管の中には淡い青色の気体が漂っていた。
「それではこちらはお返しいたします」
「もう終わりなのか」
ほう、と呟きまじまじと見るクリストファーに、蓋は開けないで下さいね、と試験管を渡す。
「お好きな香りの傾向などはありますか?」
「いや。君がこの魔力に合うと思う香りにしてくれ」
「かしこまりました」
「最短でどれ程かかる? 追加料ならいくらでも出そう」
「フレグランス本体の価格の10%増しでおよそ一週間、通常ですと二週間になります」
「では一週間で頼む」
いろいろ調整しなくちゃなあ、と思いながらも契約書を用意する。エリカの魔力を編み込まれた紙にクリストファーのサインと魔力を込めて、不変の魔術を書き込めば完成だ。
「それでは、これでお暇させて頂きます」
エリカは立ち上がるとカーテシーを一つ。微笑みながらではまた、と手を振るクリストファーに背を向け、案内をしてくれるメイドの後に続いた。
さて、エリカは王都から馬車を一時間ほど走らせた郊外にタウンハウスを持つ。名誉貴族なので屋敷も持たず、まだ駆け出しの頃に研究所代わりに借りた家をそのまま買い取ったのだ。裏には草原との山が広がり、少し離れた山から湧き出た水が流れてくる川沿いの屋敷。王都の中心部にも店と工房持つが、このタウンハウスがエリカが一番集中できる場所だった。
換気の為に使っていた風を起こす魔術具を止めて椅子に座り込む。クッションがしっかりしたこの椅子はお気に入りで、調合と抽出に明け暮れた結果ここで寝てしまったとしても、三回までなら腰へのダメージが少なく済む優れものだ。ふっと息を吐いて身体の力を抜き、目を閉じて。数字を数えて、目を開く。手を伸ばして取るのは預かった魔力の入った瓶だ。淡い青色の気体の魔力を溢さぬように調整しながら蓋を開け、繊細にその魔力を検分していく。
たかが魔力、ではない。
エリカにとってこの魔力から得られるものは、この魔力の歴史なのだ。幼い頃森林のそばで過ごしたのならば、微かな森の魔力。海に出る仕事をしていたのならば、潮の魔力。酒を好んでいるのならば、ブランデーのようなゆったりとした魔力を感じることもある。
あの日だまりのような髪の持ち主は、どんな人だったのだろう。
その僅かな魔力の、混じり合った深い深いところ。沈んで、沈んで、沈んで。砂一粒よりもさらに小さな、魔力のその気配を掬い上げる。
微かな甘い香りと、少しだけ癖のある重たい匂い。
エリカはゆっくりと意識を浮上させると、長く長く、息を吐いた。
「……タバコと、砂糖の香り。喫煙者で甘いもの好き。お酒の魔力はほとんどないから下戸かしら」
読み取った魔力をペンで書き出していく。ほんのりと緑がかったインクと美しい透明なガラスペンはエリカのお気に入りのものだ。使い慣れているはずだが、少しだけ指先が震える。
「……表面にだけ、気持ち悪いほどの銀と炎。死因に関わっているのかしら」
その二つの文字には大きく×をつける。とん、とん、とん。ガラスペンを鳴らしながら考える。クリストファーからは淡いライラックの香りがした。それはほんのりと忍ばせるぐらい。メインはタバコと砂糖。スモーキーなタバコリーフにキャラメルのようなほろ苦さと甘さを混ぜた香りを混ぜよう。ただ、最初に香るのは心を穏やかにさせるライラックの香りだ。最後に蜂蜜の重たさを忍ばせれば、甘い余韻が残るだろう。
とん、とガラスペンの音が止まる。ペン立てに戻すなり引き出しやら棚を漁り、保管してある香りと魔力を確認する。ここからが長いのだ。割合を調整して、香るリズムを考えて、魔力の波長を合わせて。さらに香りを足しては引いて、何度も何度も試行錯誤して。
翌日、王都中心街の工房から調合師が迎えに来るまで、エリカは寝ずに調整を繰り返していた。
さて、来たる一週間。
訪れたのはクリストファーの邸宅。前回と同じように温室に案内され、出された温かい紅茶を味わっているとすぐにクリストファーが現れた。
「御機嫌ようクリストファー様」
「よく来てくれた。楽にしてくれ」
クリストファー自身も今日はエリカの来客以外の用事がないのだろう。シンプルなワイシャツにジャケットを羽織っただけだ。エリカは早速美しい彫刻が刻まれた布張りの木箱を取り出す。
「こちらでございます。スプレーではなく軟膏の状態ですので、指ですくって胸元などに軽く塗ってみてください。手首、耳の後ろ、足首などもお勧めです。淡く香るように調整はしておりますが、付け過ぎぬように」
エリカの言葉に頷いてクリストファーが箱を開ける。
そこにはガラスの容器が一つ。クリストファーがその蓋に触れると、微かに魔力が使用される感覚。思ったよりも軽く持ち上がったそこには、淡いクリーム色の軟膏。そして。
その香りに、クリストファーは思わず立ち上がった。
「イアン。君またタバコ吸ってんのかい」
「おっと、これは殿下の御前で失礼いたしました」
「うわっ、気味が悪いな」
「クリス、どう言う意味だ?」
けらけらと笑いながら、タバコの火を消して。それでも、彼のタバコの匂いをクリストファーは完全に覚えてしまった。いつもタバコの香りがして、もう少し近付けば、甘い匂いがした。
「口が寂しいな。飴でも食うか」
「今日は何を持ち歩いてんだい」
「キャラメル。クリスもひとついるか?」
まるで手品のようにポケットから次々とお菓子を出して、それがタバコと同じポケットから出てくるのが実に不思議だった。
「クリス、いいか。絶対振り向くな。ひたすら馬を走らせろ。お前なら城門まであっという間だ」
「イアン、何を」
「何って仕事だよ。俺の生きがいさ」
そう言って笑って、クリストファーを馬に乗せたのが最後に見た彼だ。脱税がばれ、爵位を剥奪されたその男は王族なら誰でも良かったのだろう。そしてイアンは、クリストファーの側近だった。もう王族を抜けたと言うのに、それでも一番の友だと言ってくれた彼はクリストファーの側近であり続けたのだ。
重傷を負い、手当ての甲斐なく。タバコの香りも甘い香りも失ったまま、喪って。
喪った、はずだった。
「イアン……」
クリストファーは練香を持ったまま唇を噛む。それでも滲んだ涙は消えずに、水滴が落ちていく。
友をなくして、もうすぐ一ヶ月。久々にこのタバコと甘さの混じった香りを思い出した。もう二度と、香るはずがないと思ったものだった。
「……凄いな。タバコと、甘いキャラメルの匂いはどこから?」
一つ深呼吸をしてクリストファーが口を開く。エリカは小さく微笑んだ。
「収集した魔力を見聞して、そこから読み取れた情報からです」
「そうか。……あいつ、そこまでタバコ中毒で、甘党だったのか……」
指先に少し練香を救いとると、クリストファーが胸元に塗る。僅かに感じる友人の魔力に、どうしようもない感情が込み上げて、けれどそれをどうにか抑え込む。目元が赤いまま、クリストファーは小さく微笑んだ。
エリカはそんな様子に、笑みを深めて問いかけた。
「こちらの香りは、ご満足頂けましたでしょうか?」
クリストファーもしっかりと笑みを浮かべて深く頷く。
「……ああ。感謝する」
「魔力を補充した練香の作成はあと三度、魔力無しで同じ香りの再現ならば何度でも可能ですので、いつでもご利用下さい」
お得意様用のカードを手渡し、エリカは立ち上がる。
「今日は私が玄関まで送る」
「そんな、クリストファー様がわざわざ」
「クリスでいい。私もエリカと呼んでも?」
え、と思わずエリカはクリストファーを見上げた。
「……私は子爵の身です」
「友人に身分なんて関係ないだろう? 感謝しているし、私は君の才能が気に入ったんだ」
ええっと、とエリカは視線を彷徨わせる。
「もし私と友人になってくれるのなら、私と言うコネを最大に使ってくれて構わない。新しい顧客の紹介もしよう」
あまりに魅力的な言葉だ。元王族のコネ。素晴らしい。エリカは深く息を吸い込む。
「……クリス様、とお呼びしても?」
「ああ。またよろしく頼む、エリカ」
クリストファーに差し出された手を取り、エリカはこちらこそ、と微笑んだ。
まさかそれから五日後に、愛馬を亡くした公爵の紹介をクリストファーから受けるとは、この時のエリカは全く思わず。
『思い出の魔力を、香りに致します』
その日からエリカノート・フレグランスの裏の仕事が一つ、増えたのだ。
今後更新はかなり鈍足です。