第2話 カノンのバイオリン
そして、気付いたらこの草原に立っていたのだ。
ほぼ360度地平線が見える大草原。雲一つない紺碧の高い空。吹き抜ける爽やかな風。
東京で生まれ育った花音が初めて見る景色だった。
日本だったら北海道くらいにはこういう場所もあるのだろうか? しかし、少なくとも新宿駅界隈でないことだけは花音にも断言できた。
夢……?
「ね、カノン……素敵なところだろう?」
下から聞こえる青年の声に、花音はハッとして我に返る。
「ここはストリング王国の首都の東にある草原なんだ。僕のお気に入りの場所だよ」
青年はそんなことを言いながら、花音の制服のスカートから出ている太ももをサワサワと撫でていた。花音に馬乗りされ、草原に仰向けに倒れたまま。
バチン!!!!
「ど……どこ触ってんのよぉぉぉ!!!!!」
また花音の絶叫が響いた――。
「いや、だってやっとカノンに触れることが出来るようになったんだよ! 嬉しくって、つい……」
花音に叩かれた頬を撫でながら、金髪の青年は言い訳をした。
「は? どういうこと? ……っていうか、あなた。なんで私の名前を知っているの?」
花音は青年の意味不明な供述を途中で遮って、ジロリと睨みながら尋問の態勢に入る。
「なんでって……。あ、そうか。嬉しくて言い忘れてた!」
そう言って、青年は紫色の眼をまっすぐに花音に向けると、驚くべき言葉を発した。
「僕は、君のバイオリンのヴィオだよ。改めてよろしくね、カノン」
「は?」
花音はそのまま絶句してしまった。
……私のバイオリン? 嘘でしょ?
しかし『ヴィオ』と言う名前は、確かに花音が密かにあのフルサイズバイオリンにつけていた名前だった。
……もちろん、バイオリンに名前をつけているなんて恥ずかしいコトを今まで誰にも話したことはない。
やっぱり夢を見ているのかも……、と花音は思う。
「……ほんとに、ヴィ、ヴィオ……なの?」
『ヴィオ』と、自分の名付けたバイオリンの名を実際に口に出すのが恥ずかしくて、少し言い淀みつつ尋ねる。
「信じられない?」
ヴィオが嬉しそうに笑みを浮かべながら、花音の瞳を覗き込んで悪戯っぽく呟いた。
「じゃあ、僕達二人しか知らないことを挙げていってみようか。どの辺りでカノンは信じてくれるかな?」
「え?」
「例えば、弓をぶつけて折ちゃったのを飼っていた犬のせいにしたこととか。レッスンが嫌でワザと僕の弦を切ったこととか。レッスンをサボって新宿駅の漫画喫茶でライトノベルを読み耽っていたこととか……」
ヴィオは楽しそうに、花音が『自分だけの一生の秘密』と思っていた事柄を次々と挙げていく。
「ちょ、ちょ……」
「ああ、それとも。僕に名前を付けてくれて、『大好き』って言ってキス……」
「あぁぁぁぁあああああ!!! ちょっと待って!! 分かった! 分かったから!! 信じる!! うん、信じる!!」
段々とヤバい方向に過去の黒歴史を掘り返されて、花音は真っ赤な顔でヴィオの言葉を遮った。
「ははっ! カノン、顔真っ赤だね。けど、安心して。今の話は僕達だけの秘密だから、誰にも話さないよ」
ヴィオは優しい笑顔でカノンに言った。
「~~~~~~!」
怒る訳にもいかず、花音は言葉を飲み込んだ。
「さてと。カノンも少し元気になったみたいだし、そろそろ行こうか」
ヴィオの言葉に花音は首を傾げる。
「行くって?」
「僕の国を案内してあげる。せっかく来たんだから、楽しんでいってよ」
「僕の国って? さっき言ってたナントカ王国ってところ?」
「うーん。まあ。そう」
ヴィオが笑って答える。
「……そっか。じゃあ、行ってみようかな……」
笑顔のヴィオにつられて、カノンも少し笑ってそう答えた。
もう夢でも何でもいいや、花音はそう思い始めていた。
現実世界の嫌なことを全部捨てて、きっと自分は彼岸のような場所へ来てしまったのだ。もしかして、現実の私は死んでしまったのかもしれない。いつも読んでいるライトノベルのように。
別に日本での生活に強い未練がある訳でもないし、せっかくだからこの世界を楽しめるところまで楽しもう。
花音は昔からファンタジーが大好物だった。童話、小説、ライトノベル、漫画、選ぶのはいつもファンタジー系の物語だった。
夢かもしれないけど、今自分はその世界に来ている。楽しまずにいたら勿体ない。
そう心に決めて、花音は自分のバイオリンだと名乗る青年に導かれるまま、草原を歩き出した――。