第1話 出会い
「こ……これはどーゆーことぉぉぉぉぉおおお!?」
少女の絶叫が雲一つない紺碧の空に響き渡った。
「君を僕の国に招待したんだよ。ようこそ、ストリングス王国へ!」
少女の叫びをまったく意に介さず、青年はにこやかにそう言った。
草原を吹き抜ける風にサラサラと金髪をなびかせて、青年はその端正な顔で少女の顔を覗き込む。
――その直後。
青年は少女に胸倉を掴まれたかと思うと、爽やかな草原に押し倒されていた。
「ちょっと!! 一体、何をしたの!?」
少女は青年に馬乗りになって、胸倉を締め上げる。
「だ、だからぁ。僕の国にご招待したんだってば」
押し倒されながらもヘラヘラと笑って答える青年に殺意を覚え、今すぐ息の根を止めてやろうか、と物騒な激情に駆られながら、少女―鈴木花音―はここに来る前の出来事を思い返していた。
◇
「鈴木、練習が足りないぞ。これではコンクールはとても無理だ……」
ため息交じりの先生の言葉を聞いた瞬間、花音は決意した。
バイオリンなんてもう辞めてやる――。
「元々コンクールに出るつもりはありませんでしたから。……時間なので、これで失礼させていただきます」
花音はそう言い捨てると、さっさとバイオリンをケースにしまい、呆気にとられる先生に形だけ頭を下げてレッスン室を出た。
辞めてやる、辞めてやる。もうバイオリンなんて見たくも無い。
鈴木花音は心の中で呟きながら足早に新宿駅へ向かった。
新宿駅からJR中央線へ。その後、神田で地下鉄銀座線に乗り換えて、自宅のある浅草まで帰る。著名なバイオリン講師のレッスンを受けるため、三年前から週一で通い続けている道だ。
きっかけは小学六年生の時に出たバイオリンコンクールだった。高レベルと言われていたそのコンクールで花音は突然入賞してしまったのだ。
その時から親の態度も、環境も、ガラッと変わった。
「バイオリンは趣味程度で弾ければ良いのよ」
なんて言っていた母親が突然目の色を変えて、高名なバイオリン講師を探しだし、小学校の先生は音大受験を目指せる中学への進学を勧め始めた。
あの日から鈴木花音の生活はそれこそバイオリン一色となったのだった。
あれから三年。中学三年生になった花音はバイオリンが嫌いになっていた。コンクールで入賞する前はバイオリンを弾くことが楽しくて仕方なかったのに。
今はバイオリンを弾くことが苦しくて仕方なかった。上手く弾かなければという重圧、コンクールのプレッシャー、辛い練習。義務感だけで弾き続けるのにも限界があった。
その限界が今日訪れたのだ。突然、弦が切れるように……。
新宿駅に着いてもそのまままっすぐ家に帰る気持ちになれず、駅のホームのベンチに腰を下ろす。
隣の空いているベンチにバイオリンの入ったケースを立て掛けて、ぼーっと構内に入ってきた電車を眺めた。
「お母さん、怒るだろうな……」
花音のバイオリンを一番熱心に後押ししたのは母親だった。娘にバイオリンの才能があるかもしれない……教育熱心な母親はきっとそう思ったのだろう。それこそ全力で花音のバイオリンを応援してくれていた。
……しかし、それがまた花音にとっては重荷だった。
電車が大きな音をたててホームに入ってくる。車体は既定の位置でピタリと止まり、扉を開いた。
いつもならすぐに乗り込むであろう電車を、花音はうんざりした気持ちで眺める。
まだ帰宅ラッシュには早い時間帯だが、電車はそこそこ混んでおり大勢の人間が乗り降りしていく。
しばらくしたら自分もあの中に入って家に帰らねばならないと思うと、さらに気が重くなって花音は大きくため息をついた。
カタッ……と隣のベンチに置いたバイオリンケースが花音の方に倒れてきた。
花音は倒れてきたバイオリンケースを眺める。
ケースの中に入っているのは、コンクールに参加する一年前に祖母から譲られたフルサイズのバイオリンだった。元は花音の曾祖父が使っていたバイオリンで、祖母が形見として大切に保管をしていたのだそうだ。
このフルサイズバイオリンをはじめて弾いた時、煌めくような音の響きに感動したものだった。
自分がこんなにも素敵に曲を奏でることができるなんて……と。それから花音は夢中でバイオリンを弾くようになったのだ。
楽しかった時のことを思い出して胸がチクリと痛む。……しかし、やはりバイオリンを続けたいとは思わなかった。
ひいおじいちゃんとおばあちゃんには悪いけど……バイオリンは返そう。
花音はそう決意するも、まだ立ち上がって電車に乗る気持ちになれなかった。
倒れてきたバイオリンケースをもう一度隣のベンチに立て掛け直し、またぼーっと電車を眺める。
――あーあ、家に帰りたくないな……。
走り出す電車を眺めながら、仄暗い思いに囚われる。
――電車に飛び込むのって簡単そうだな……。
次の電車が入ってきたら、走って線路に飛び降りればいい。電車に乗って家に帰るよりも至極簡単なことに思えた。
カタッ……と、またバイオリンケースが花音の方に倒れてきた。
もう…!
思考を途中で邪魔されて、花音は煩わし気にバイオリンケースを再度立て掛け直そうと横を向いた。
すると、バイオリンケースを挟んだもう一つ向こうのベンチにいつの間にか金髪の青年が座っていることに気が付いた。
あれ? いつの間に?
花音は一瞬動揺するも、あまりジロジロ見ては失礼だろうと思い、すぐに視線をバイオリンケースに戻す。
「ねえ、カノン」
「え?」
突然名前を呼ばれて、花音は顔を上げる。
金髪の青年がふわりと優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。青年の紫の瞳に視線を絡めとられて、花音は息を飲む。
「コンクールとか練習とかどうでもいいからさ……」
それは花音がずっと求めていた言葉だった。
「僕と一緒に来ない?」
そう言って金髪の青年は花音の前に左手を差し出した。
この青年は何者なのだろう? 青年の現実感の無さは花音に『死神』を連想させた……。
けど……。
花音の心臓はバクバクと激しく鼓動した。
家に帰るより……線路に飛び降りるより……青年の手に掴まることが、今は一番簡単に思える……。
そのまま、花音は熱に浮かされたように青年の左手を掴んだ――。