廃墟No.54 裏野ドリームランド
私が初めて裏野ドリームランドへと訪れたのは、もう二十数年前のことだ。その頃の私はまだランドセルを背負っていて、父の運転する車で4時間もかけてたどり着いた隣県の遊園地に目を輝かせた記憶がある。隣県内唯一の遊園地であったし、私の住んでいた場所にもこれほど大きなテーマパークなく、開園して数十年ほど経つにもかかわらず裏野ドリームランドは、夏休みであるとはいえ人がごった返していた。
今まで見たことのないような大きな観覧車、軽快な音楽を奏でながら回るメリーゴーランド、長いコースの中で何度も急降下するジェットコースター。当時の私は制限にかかり乗れないものもあったが、子供心ながらにその場所は楽園のようなものだと感じていた。
しかし、幼い私がその楽園へと足を踏み入れたのはその記憶で最初で最後となった。
自宅の近隣にあるわけでもなく、入園料やフリーパスも決して安いわけでもない。それらが私の家族が裏野ドリームランドへと足が遠ざかっていた理由でもあるが、何より今は亡き母と冷たく甘いソフトクリームを分け合い食べた日から数年ほどで、裏野ドリームランドは閉園してしまったのだ。
裏野ドリームランドが閉演となる年、私はあの夏の日の素敵な思い出を手繰り寄せながら両親に再びあの楽園へと遊びに行きたいと懇願した。しかし、私の両親はその息子のおねだりに決していい返事を返してはくれなかった。子供心に、何故両親は裏野ドリームランドへと連れて行ってくれないのかと腹の中で思いつく限りの罵倒を並べ立てた。私はそう記憶しているが、もしかしら直接両親へと口に出していたのかもしれない。ともかく、私がみっともなく地べたに寝そべり足をばたつかせて泣いて頼んでも、両親は二度と裏野ドリームランドへと連れて行ってはくれなかった。
「すごい、今はこんな風になっているのか」
そして今、私はかつて小学生だった自分が熱望した裏野ドリームランドへと、再び足を踏み入れている。しかし私の隣にいるのは両親ではなく、インターネットの廃墟探索サイトで知り合った同好の友たちだ。
三十代半ばほどの少し小太りで眼鏡をかけているのはスポポポポビッチ3世さん――スーさん、彼は私の廃墟探索の師匠とも呼べる人だ。廃墟探索をはじめて2年ほどの私が今まで怪我もなく写真を撮っていられるのも、スーさんが廃墟の歩み方を一から丁寧に教えてくれたおかげである。
そして、もう一人の同行者は二十代後半の女性、かおりんこさんだ。彼女とは以前大人数での廃墟探索ツアー――ツアーと言っても旅行会社が取り扱っている訳ではなく、スーさんをはじめとした探索ベテラン勢が有志として人を集めているものだ――で2度ほど顔を合わせたことがある程度の知人である。廃墟探索初心者である彼女はスーさんを師として仰いでいるらしく、私たち二人の探索に急きょ参加する形となった。
「忘れ物ないですか?」
「ああ、大丈夫。皆も、飲み物は忘れないように。中では何も買えないからね」
私とかおりんこさんはスーさんの車であるワンボックスカーを見回す。リュックには飲み物や懐中電灯、カメラの予備の機材が入っていることを確認するとスーさんに向かって小さく頷いた。
「じゃ、今日も安全に行きましょう」
「はい!」
「よろしくお願いします」
お互いに頭を下げると、初めに入口ゲート付近から撮影を始める。私は膝立ちになり、首から下げた一眼レフカメラを両手でしっかりと膝で固定するようにして持ちシャッターを切る。
ここからは入口の大きなゲートと大きく茂りすぎた樹木が邪魔をして中がどうなっているかあまり把握できないが、裏野ドリームランドの中央にある大きな観覧車と私が乗ることのできなかったジェットコースターはここからでも確認できる。遠目ではあるがそれらは私の記憶の中にあるものより小さく、そして年月を帯びて白けていた。
私がこのような廃墟へと逃避を始めたのは2年前のことだ。母が亡くなってからめっきりと小さくなってしまった父が大病を患い、ついには余命半年と宣告された。幸い、父はそれから2年経った今でも白い病室で頑張っていてくれてはいるが、母を亡くし、更に父を亡くすことを恐れた私は思い出の場所へと両親の面影を求めた。
生家近くの公園、県内唯一の水族館、市の運営する動物園。家族の思い出の地を辿るのは楽しくもあったが、逆に違和感を感じた。公園は私が好んでいた遊具は撤去されていたし、両親と3人並んで座ったベンチは真新しい鉄のものに変わっていた。水族館は数年前に大幅リニューアルされ、ペンギンやイルカなど子供に人気の動物が増えていた。私が両親に手を引かれていいた頃には、少しばかり派手な魚くらいしかいないものだったのに。動物園は寿命によりいくつかの動物が死に絶え、その代りにカピパラやアルパカといった見たこともないような動物たちが並んでいた。
父の古ぼけたカメラで父の代わりにそれらを撮影したとしても、そこは私の思い出の地とは随分と様変わりしていた。
まるで自分一人だけ時間に取り残されてしまったような、もの悲しい思いが私の胸へと染み渡る。しかしある日、在りし日を懐古する私のように時間に取り残されたものに出会う。
そこは私が小学生の頃、両親と共に夏になると毎年訪れていた山奥のキャンプ場だ。経営が悪化して閉鎖されたその保養所は、草こそ生い茂ってはいたがジュースを買った自動販売機も、青く塗られたベンチも、赤いトタン屋根の炊事場も、私の記憶の中のそれと同じものだった。いや、確かに鉄は錆びてペンキは色あせていた。だが、私にはそれがあの頃と同じに思えたのだ。
それから私は、時間に取り残された同胞たちに会いに行った。
同胞たちは私の思い出深い場所ばかりではなかったが、父の古いカメラで写真を撮ると、まるで両親との思い出が増えたような気がした。そしてスーさんと出会い、自分一人では躊躇していた同胞たちにも会いに行くことができるようになったのだ。
「そろそろいいかな?」
「はい、オッケーです」
スーさんがところどころに傷の入った三脚を担いで出発を促すと、真新しいデジタル一眼レフカメラのファインダーをのぞいていたかおりんこさんが元気よく頷いた。私もそれに倣い、ひざに付着した土を払いながら立ち上がる。
既に入場者の出入りを制限していないゲートをくぐると、そこはもう懐かしき裏野ドリームランドだ。
まっすぐ伸びる石畳のはるか先に見えるのは、この夢の国の象徴ともいえる中世の城を模したアトラクションだ。確か内部で様々な国の童話をモチーフにした装飾品が飾ってあった記憶がある。
そしてその城までに左右を彩るのは、カラフルな色合いながら統一感のあるかわいらしい住宅街。閉演前はその住宅を賑わせていたであろう土産物たちの姿はすでになく、覗き込んでみると中には僅かばかりの段ボールやパイプ椅子がぽつんと取り残されており、見るものをうら悲しくさせる。
かつては季節の花々が咲き誇ったはずの花壇も、今では藪のように名も知らぬ雑草たちが背を伸ばし、徐々に石畳を地の底から持ち上げながら浸食を進めていた。
「時間もまだたっぷりあるし、左回りで行こうか」
「じゃあ、アクアランドからですね」
まだ日が高く上る空を見上げて、私たちはすべてのエリアを回ることに決めた。
裏野ドリームランドは大きく3つのエリアに分けられる。水関連のアトラクションと大きなプールのあるアクアランド、絶叫系マシンが中心のアドベンチャーランド、そして子供向けのアトラクションが中心のファンタジーランドだ。
カラフルな売店街から少し歩くと、植え込みの植物や建物が南国帳に切り替わる。更衣室と書かれた建物は緑の植物に覆いつくされ、その重みで屋根が沈み窓が割れていた。その朽ち行く様子をカメラに収めながら進むと、目の前に大きな広場が広がっている。
「あれ、何ですかこれ」
「ここは……噴水広場です。中央に噴水がありますよね」
「ホントだ。だけど、これは何です?」
かおりんさんが足元に規則的に並ぶ鉄のプレートを指さす。
「噴水です。ここにある丸いプレートは全部噴水で、ランダムで下から水が噴き出す仕組みだったんです」
「へぇ、そうなんですね」
「中央にある大きな噴水は入れたの?」
「いえ、あそこは……」
私は錆びてしまい水を通さなくなったプレートを踏みながら中央にある大きな噴水へと近づいた。直径5メートルほどのもので、中央にある水桶をもつ女神の像からは並々と水が溢れて下へと流れていく仕組みだ。
「確か光ったり、音楽に合わせてたくさんの噴水が噴き出る仕様でしたので入れなかったと思います」
空の噴水の中をのぞくと、案の定鉄の器具のようなものが張り巡らされていて、子供が落ちたら怪我でもしてしまいそうな状態だ。かおりんこさんが「危ないね、わたしだったら入っちゃいそう」と呟きながらシャッターを切る。
噂には聞いてはいたが、アクアランドのアトラクションは私たちを拍子抜けさせるものばかりだった。すべて水が抜かれていたのだ。
アクアランドの目玉であった大きな波の出るプールも空っぽで、底に溜まった土から雑草が育っている。自分でボートを漕げたカヌー乗り場にも水はなく、陸に打ち上げられた魚のように色とりどりのカヌーが転がっていた。
「雨水も溜まってないんですね」
「栓が抜かれてるのかな? でもこういう姿も、普段は見られないものだよね」
「…………………あれ?」
プールの中に入り、くすんでしまったカヌーをファインダーに収めていると上からなめるような構図で写真を撮っていたかおりんこさんが不思議そうに声をあげた。
「どうしました?」
「何かトラブル?」
「いえ、そうじゃなくて…………あの、あっちのアトラクションって水入ってません?」
そういって彼女が指さしたのはアクアランドの一角にある乗り物系アトラクションの一つだが、こちらからでは周りに茂った木々が大きくなりすぎていて水の有無までは把握できそうにない。私たちはひとりで駆けだしてしまいそうな顔でうずうずしているかおりんさんをなだめながら、すでに森のようになってしまっていたアトラクションへと近づく。
アクアツアーと書かれた看板は錆びているし、出っ張った部分がところどころ取れていたので日焼けの後から推測するより他になかった。大きな茅葺屋根――とはいっても、実際は茅葺ではなくそのような形で樹脂か何かを固めてあるだけだ――の下には客の並ぶ通路があり、その先には屋根付きのボートが置かれていた。
「アクアツアー……水の中をボートで探索する系のアトラクションらしいね」
スーさんが前もって印刷してきた園内マップを見ながら呟く。そうだ、確か私も乗ったことがある。うさぎや鹿、鳥といった森に住む動物たちが2足歩行で楽しく暮らしている様を見て回るアトラクションだった。最後にはちょっとしたトラブルから、くま――これも2足歩行で洋服を着ている――に追いかけられ滝を下るという、ちょっとしたジェットコースター要素もあった気がする。
「これ、池ですかね?」
「いや、どう見ても置いてある感があるし違うでしょ」
スーさんがコンコンと軽い音を立てながらアトラクションを覆う建材を叩いた。
「どうしてこれだけ水が抜いてないんでしょうね」
「抜き忘れ?」
「それにしたって、危険ですよね。閉園になったとはいえ、私たちのような人間には有名な場所なんですから」
「そうだね……僕はよく知らないけど、何か理由があったんじゃないかな?」
腑に落ちない想いを抱えつつ、私たちは朽ち始めているアクアツアーをファインダーに収めた。日に焼けた茅葺屋根には穴が開き、鳥が巣をつくっている。乗り場に横付けされたボートはずっと水に浸っていたためか、今まで見てきたどの設備よりも痛みが早く腐食してぼろぼろになっている部分があった。
ボートに乗りたいと言うかおりんこさんをいさめながら、私たちは次のエリアへと移ろうと相談する。彼女は廃墟というものがどれほど危険かを理解しておらず、単独行動をとりたがるきらいがある。スーさんはそんな彼女を上手になだめすかしながら、うまく誘導していた。
「…………ん?」
「みりんさん、どうしました?」
みりん――私のハンドルネームをかおりんこさんが呼ぶ。どこかで魚が跳ねるような水音が聞こえた気がしたが、かおりんこさんのいらぬ好奇心をつつかぬよう言葉を飲み込んだ。
□
探索を続けていくうちにあっというまに時間が過ぎてしまっていた。すでに黄昏時と呼ばれる時刻となっていた。太陽は西に傾き、じわじわと宵闇が迫ってきている。
アドベンチャーランドではしゃぎすぎてジェットコースターのレールの上を歩きそうになったかおりんこさんはスーさんにこっぴどく説教されて今はしょんぼりとしている。流石にアドベンチャーランドは大きなアトラクションが多く、危険を孕んでいることもあるので虫を見つけた猫の子のようにはしゃぎ弄りまわす彼女を野放しにはできない。
「ここなら大丈夫ですよね!」
「倒壊の心配はないだろうけど、心配だから僕がついていくよ」
「えー!」
「文句いわない。みりんくんは好きにやってね。君なら大丈夫でしょ」
そういってスーさんとかおりんこさんと別れ、私はファンタジーランドをひとりで探索することとなった。
羽の生えた馬が引く馬車に向かってカメラを向ける。その馬車には蔦が絡まり、もう2度と空を飛べそうにない。天馬のかつては美しかったはずの白い体躯も今は茶色く染まり、ところどころに傷を作っていた。
私が2度と両親と共に楽園へと行けないように、この天馬も子供たちを乗せて飛び立つことはもうない。私と同じように、ひとりぼっちでこの場所に取り残されてしまった。それがさびしいような、どこかうれしいような不思議な気持ちにさせる。
宵闇に浮かぶメリーゴーランドをぼうっと眺めていると、ふと、軽快な音楽が聞こえた気がして後ろを振り返る。
しかし私たち以外に人がいるとも思えないこの楽園は、朝と同じように静まり返っていた。懐かしさが見せた幻か。思い出に浸る自分を自嘲するように、声を出して笑いながら構えていたカメラを下ろして地面を見つめる。
――本日は、裏野ドリームランドにお越しいただき誠にありがとうございます。只今より、ウラッキーの列車パレードを中央広場で行います。
そんなひび割れた音が耳に入ると共に、下を向いていた私の視界に多くの人々の足が映り込む。そこに存在しないはずの彼らは皆楽しそうで、子供の「ねぇねぇ、次はどこ行く?」といった鮮明な会話まで聞こえた。私の背後にあるメリーゴーランドは明るい音楽と共にライトアップされ、色とりどりの光が暗くなった地面にきらきらと映し出されている。
――ああ、ここは。
ここはかつての私が渇望した裏野ドリームランドだ。あふれ出る郷愁の想いに、涙腺がじわりと緩んだ。涙をぬぐい顔をあげようとすると、いつの間にか誰かが私の前に立っている。見覚えのあるローヒールのパンプスと花柄のスカート、黒い使古したスニーカーと裾がすり減っているジーンズ。彼らは私に言う。
「誠、どうした?」
「早くいかないと、パレードが終わってしまうよ」
「おかあさ――――っ」
私が弾かれたように顔をあげると、そこに両親の姿はなかった。
あの軽快な音楽も、周りにたくさんいた人たちすら消え、人気のなくすべてに忘れ去られたメリーゴーランドだけがカラカラと風に吹かれ音をあげている。
「………………何なんだ、今のは」
白昼夢とは断じれないほどにリアルさを帯びていた。たくさんの足に囲まれていた頃には感じなかった違和感が、今更ながらじわじわと胸の中に滲みだす。突如、懐しさを生み出していた廃墟が自分に牙をむくような、得体のしれない気味悪さすら感じるようになってしまった。
廃墟探索で怖い、などと思ったことは今まで一度もなかった。彼らは私と共に郷愁を感じる同胞であるとしか思っていなかったし、関わり方さえ間違えなければ危害など加えるはずがないと思っていた。しかしその同胞たちが突然、まったく知らないものに変貌してしまったような気がした。
うすら寒さを感じながら、私は足早にその場を離れスーさんとかおりんこさんを探す。
ティーカップにも、かつては飲食物を販売していた小さな店舗にも、屋根が落ちてしまっていた占いの館にも彼らの姿は見えず、不安な思いを抱えたまま20分ほどひとりでうす暗いファンタジーランドを探索する。
楽しそうにカメラを構える彼らをようやく発見できたのは、ミラーハウスの前だった。
「あれ、みりんさんどうしたんですか? 顔色が悪いですよ?」
「……いえ、別に大丈夫です。もう暗いですし、帰りませんか?」
まさかおかしな幻を見たとは言えず、かおりんこさんの気づかいに私は言葉を濁す。
「そうかな? 夜用の装備もあるし、僕としてはもう少し写真を撮りたいんだけど」
「んー、まあ大丈夫じゃないですか? 私は夜の探索、初めてですけど。スーさんがいれば大丈夫ですよ」
「そう、ですね」
ふたりの返答に、私は気落ちしたように肩を落とした。彼らがそういうのならば仕方がない、私ひとりのわがまま――しかも、薄気味悪いという子供じみた証拠もない感情だ――でせっかくの遠出をぶち壊しにしてしまう訳にもいかないだろう。
ひとりで行動せず、彼らといればおかしな感情に振り回されずに済むだろう。そう腹をくくりながら頷くと、私の変化に違和感を感じたのかスーさんが難しい顔で首を振る。
「うん、やっぱり今日は帰ろうか」
「えっ何でですか?」
「僕もちょっと疲れちゃったし、よくよく考えてみると夜用の照明を忘れちゃってね。みりんさんも体調悪そうだし、真っ暗になる前に戻ろう。それに、かおりんこさんにはまだ夜の撮影は早そうだ」
「ええ、そんなぁ……」
スーさんの言葉にどこかほっとしたような顔の私に、彼は気遣うように頷いた。しかし、かおりんこさんは不満げだ。
「…………まあ、できないなら仕方ないですけど。日が暮れるまででも、十分楽しかったですし。だけど最後! もうちょっとだけやりましょうよ!」
「僕としては、そろそろ足下に不安が出る時間帯なんだけどねえ」
「じゃあ最後! 最後にミラーハウスだけ撮らせてください! 5分、いや10分…………15分だけでいいんで」
かおりんこさんの熱望に私とスーさんは仕方なく頷いた。元より、こちらが無理を言って探索を早めてしまったのだ、彼女の小さなわがままくらいは素直に聞いておこう。
私たちは入口の扉が壊れたミラーハウスを見上げた。外側は水色とピンクのやわらかな色合いの建物だが、割れたガラスに注意しながら中に入ると白い床にピンク色の細い柱が何本も建っている。どうやらこの柱でガラスや鏡を立てている作りらしい。真っ暗なミラーハウス内で、スーさんが無言で忘れたと言っていた照明をつけた。
「わぁ……」
かおりんこさんから感嘆の声が漏れる。鏡とガラスで作られているミラーハウス内は私の想像よりずっと荒れておらず、灯りさえあればそのまま営業できそうなくらいだ。入口からは割れている鏡やガラスなどは見えず、安全に探索が行えそうである。
「じゃあ、先頭はみりんさんね。ライト持ってるでしょ」
「あ、はい。わかりました」
「かおりんこさんはあんまり変なところ行かないようにね、ガラスとか鏡とかが主体の建物だから怪我が怖いし。ふたりとも最後の最後で怪我しないように気を付けて」
「はーい!」
目の前がガラスか鏡か判別できない通路を慎重に進む。後ろではカメラのフラッシュが何度も焚かれ、鏡に反射して目がチカチカとした。流石に年数の劣化か、はたまた誰かのいたずらか。後ろを通るふたりが怪我をしないように、キラキラと光る破片を足で端によけながら安全性を確保する。壁に残された鏡の破片たちは、私を歪に、しかし何重にも映しまるで異世界にでも迷い込んでしまったような気分にさせた。
通路だと思ったガラスに頭をぶつけて止まった回数を数えるのをやめた頃、振り返ると随分と遠くでカメラのフラッシュが光る。どうやら早く帰りたい私と長く撮影を楽しみたいかおりんこさんとの間に随分と差ができてしまったようで、私は出口の前から通路を照らし彼らふたりを待った。
「……あ、そこ」
随分と待たされた気がしたが、実質は10分にも満たない時間だろう。出口から唯一見える、割れた鏡とガラスが積み上げられた通路にかおりんこさんが到達する。そこは私が足下の破片に気を取られ、したたかに右肩をぶつけてしまった場所だ。夢中でカメラのシャッターを切るかおりんこさんは目の前の透明なガラスに気づいた風もなく、私が注意の声をかける前にそのガラスにぶつかる――――と、思ったが何事もなくすっと通り抜けてしまった。
私は首をかしげた。確かにあそこには、透明度の高いガラスがハマっていたはずだ。現に彼女が今私の元へと歩みを進めてくるルートも、私が通ったものとは大幅に違う。記憶違いだったか。いや、しかし私は確実にあの行き止まりの前へと鏡の破片を積み上げたはずだ。
「どうかした?」
今までの気長な歩みとは違い、ガラスを通り抜けた彼女は一度もシャッターを切ることもなく素早い足取りで私の待つ出口へとやってきた。手持無沙汰な私の様子から急かしてしまったかとも思ったが、やわらかな表情で私を見上げるかおりんこさんに違和感を感じる。
彼女はまるで別人のような表情をしていた。今日1日で私の知ることになったかおりんこさんは、明るく活発でまだ子供っぽさを隠しきれていない女性とも少女とも言えない女性だ。しかし今ではその活発さはなりを潜め、どこかゆったりとした落ち着いた雰囲気を醸し出している。私の戸惑いをよそに、ごく自然に私の右手を取ったかおりんこさんは「あの人はこんな時もゆっくりなのね」と年齢にそぐわない慈愛すら感じる顔でほほ笑み、スーさんの到着を待つ。
そして先ほどのかおりんこさんと同じルートを通って私の元へとやってきたスーさんも、私の知っているスーさんではなくなってしまっていた。
「行くぞ」
不安げな私も、慈しむような笑みを浮かべるかおりんこさんの存在も当然と言ったような仏頂面で待たせたことに詫び一つ入れず、スーさんはミラーハウスを出てしまった。いつも朗らかな笑みが浮かんでいる人好きのする顔をした彼の眉間には、今ではしっかりと深いしわが刻まれている。
「行こうか」
かおりんこさんに手を引かれ、私は重い足取りでミラーハウスの外へと出た。宵闇はとうの昔に過ぎ去り、周囲はオレンジ色の照明と、キラキラ光るイルミネーションで彩られている。
「もう遅いし帰るぞ、誠」
――誠。スーさんが知らない筈の私の本名を呼んだ。すると何故か、今まで感じていた不気味さや違和感が、すっと胸の内から抜けていく。
ああ、そうか。そうなのか。僕は疑うことすら知らない子供のように、右手に感じるあたたかな手のひらをぎゅっと強く握り返した。
「母さんも随分待たせたしな」
「ええ、本当に。待ちくたびれておばあちゃんになっちゃうかと思ったわ」
「ほら、誠。何やってるんだ、早く来い」
「…………うん!」
僕は優しい母の手を引き、大好きな父の元へと駆け寄った。首から下げていたカメラが随分と重く感じ、背負っていたリュックと共にその場へ投げ捨て、空いた左手で大きく固い父の手を握る。
ついに僕は家族全員で、熱望していた裏野ドリームランドへやってきたのだ。
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