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12時間以上眠っていたと思います。
私は4月17日の朝にふと目覚め、歓談の気配を感じながら二度寝を決め込みました。どうやら親子連れが目を覚まし、朝食を摂っているようです。子供たちは楽しそうでした。
皆が起きているのなら荷物への警戒心は薄めても平気でしょう。そう考えた私は深く短い眠りに落ち、9時ごろに再び目を覚ましました。
朝食はカシューナッツひと袋とスポーツ飲料一本でした。炭水化物は不足していますが、不思議なことに大して気にもなりませんでした。
私は小休憩の後、尿意を催しました。
そこでトイレへと向かいます。
トイレにはバケツが山ほど置いてありました。断水が続いているので用を足した後に流すことができないのです。
プールや雨水をかき集めることで結構な量が備蓄されているようでしたが、避難所には数百もの人々が集まっています。この調子ではいずれ底を尽いてしまうでしょう。
私自身はと言うと、実は生活用水には困っていませんでした。
14日夜の時点で浴槽に水を張っており、それがまだかなり残っていたからです。当時の私は前述の通り地震を舐めていましたが、電話口で母親と知人に「水貯めろ」「水貯めろ」と言われ続け、何となく従っていたことが身を助ける結果となりました。今にして思えばやはり私は「間抜けA」なのだと思います。
なお、実際に断水時のトイレのタンクに水を入れて流してみましたが、流れ方が弱く、少々頼りない印象を受けました。とは言え、流れないよりはマシでしょう。
学校の生活用水の状況を見て取った私はそのまま辺りをぶらぶらしました。
これから先の生活にとって役立つ知恵があれば拾っておきたかったのです。
ここでも電気は生きているらしく、スマホの充電用に数種類のコードが挿された場所がありました。
体育館付近の特殊な部屋にこもっていたせいで忘れていましたが、前夜の雨は烈しいものだったらしく、グラウンドはすっかり濡れています。
何人かの男性が歯磨きをしており、新聞を読んでいるご老人もいらっしゃいました。
ふと、休憩室に置いてあるテレビの映像が目に飛び込んできました。
そこに映し出されているのはヘリから見える熊本城や寸断された道路、倒壊した家屋の数々です。給水車に列を作る人々や市庁舎が崩れたなんて話も飛び込んできます。
私が身を置く避難所はそうした悲劇とは少々縁遠いようでした。
もちろんプールを持つ学校であるという点や、ぱっと見たところ傷病者を抱えていない点等、単純比較できない部分も多いのですが、それを差し引いてもずいぶん境遇が違うな、というのが正直な感想です。
熊本市内から益城までは10キロも離れていないと思います。
市内から阿蘇まででようやく20キロぐらいでしょうか。
たったこれだけしか離れていないのにこんなにも状況が違うのか、と思うと罪悪感がこみ上げるようでした。
荷物を抱えた私は10時を待たずに出発しました。
避難所の生活は魅力的でしたが、4月17日は日曜日です。
翌4月18日は月曜日。
つまり仕事が私を待っていました。




