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マンションの近くにあった自販機は電気が通っていました。
私はせっかくなのでお茶を一本買い、部屋へ向かいます。
4月16日の朝七時ごろのことです。地震発生から6時間ほどしか経っていませんでした。
正面玄関の電気は死んでいましたので手で開けることができました。ついでに住民用の裏口もドアが開けっ放しで固定されており、鍵が無くても入れるよう誰かが配慮した形跡が見て取れました。
5Fまで登るのは難儀でしたが、思ったほどの疲労は感じませんでした。まだ脳が興奮状態にあったのでしょう。
部屋は散らかったままでした。
そして踏み込むや否や、余震が始まる始末です。
震度は4のようでした。私がさんざんバカにした、「3から4程度」の余震です。
私は腰が引けるのを感じながら、そうっと文庫本をどかし、鍵を見つけました。それからふわふわの防寒着と毛布を一枚手に取り、ついでに傘も手にして一階へ向かいます。
電気も水も死んでいましたので、それ以上そこに留まるメリットはありませんでした。
電話すべき相手は大勢いましたが、それよりも何よりも物資です。
私はヘルメットを持っていません。携帯の充電パックも、ラジオも懐中電灯すらも。呆れてしまうほどに無防備です。
スーパーは閉じているという話を聞きましたので、コンビニへ向かいました。
幸いにして最寄りのコンビニは営業中でした。
駐車場で車中泊をした方もいたらしく、そこそこの人が集まっています。
おにぎりやパンは既に売り切れていました。ラーメンもです。
防災関連の品々もすべて売り切れています。当たり前と言えば当たり前です。ATMは生きていたので現金を下ろすことはできました。
私はトイレットペーパー、軍手、ゴミ袋、シリアル、ナッツ類、飲料水、肌を拭くボディペーパー、チーズなどを買い込みました。
ただ、量は最小限に留めました。
多く持てば行動が制限されます。強い余震の続く中、荷物の重さが足かせになることは避けたかったのです。
その時点で私はマグニチュード7を超える地震が本震であるという情報を聞いていました。
ですが絶対ではありません。もしかすると次にマグニチュード8を超える地震がやって来るかも知れない。
備えは重要ですが、逃げることも重要です。結果、私は中途半端な量の物資を抱えることとなりました。
そしてそのまま、陽が昇るまでコンビニの前に腰を落ち着けました。毛布をかぶった私の姿を嘲る人はいませんでした。
再び部屋に戻った私は持ち運び用の物資と備蓄用の物資を分け、靴を履き、ドアを開けたまま室内のチェックを始めました。
ガラスは割れていませんでしたが、靴は履きっぱなしです。いつでもどのタイミングでも屋外へ脱出できるよう、細心の注意を払いました。
ふと、間接照明が点いていることに気づきます。
電気が復旧したらしいのです。
すぐさま携帯を充電しました。それからほうと一息ついて、手元にラジオが無いことに気づきます。
ルーターがひっくり返ったせいか、ネットは不通になっていました。やむをえずスマホでニュースを流し続け、私は情報収集に努めました。
なお、私の部屋にはテレビがありません。
深夜の雨についてのニュースが流れたところで、私は青ざめました。
昨夜は晴れていたから速やかな避難が可能でしたが、もし次の夜にマグニチュード7以上の揺れが来たら私は豪雨の中を避難しなければなりません。
いやその時はマンションに留まるべきだ、とも思いましたが激しい揺れを思い出した私の脳内で「鉄筋コンクリートの入ったビルは安全」という神話は既にボロボロになっていました。
また、非常階段の二階壁面に亀裂を見つけていたことも不安を後押ししました。
自分はここに留まるべきなのだろうか。
そう不安に思った途端、上下の階から物音がしないことに気づきます。
もしかすると住民は既に車での避難を終えていて、マンションに残っているのは間抜けな自分だけなのではないか。そんな不安に襲われます。
なお、私は現在車を所持していません。
そこで私はようやく避難所の存在を思い出しました。




