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ウウウウ、と夜の闇を切り裂くサイレンの音は消防と救急が活動を始めたことを意味します。
本来なら喜ばしいことなのですが、公園は騒然としました。
社会を巻き込む非常事態が起きている。
肌身で曖昧に感じていた実感がサイレンの音で固着され、事実へ変わった瞬間でした。その時、私達は「被災者」になりました。
ラジオの音声はいよいよ大きく聞こえます。
震度6です。
福岡でも大地震です。
大分にも影響があります。
また地震です。津波の心配はありません。
火災が発生しています。
橋が崩落したとの情報が入っています。
生き埋めになっているとの情報が入っています。
津波の心配がない、という事実は多くの人々を安堵させました。
ですが静かな公園の周囲には嫌な音が多く存在していました。
レポーターの読み上げる災害の描写の数々。
上空を旋回するヘリ。
やむことのないサイレン。
それに建設途中の建物から落下したパイプや板切れが路面を打つ音。
一度だけ、停電していたマンションに光が灯りました。
わああっと歓声が上がり、拍手すら起こりましたがすぐに電気は消え、後には沈黙だけが残りました。
時刻は3時を回りました。
ラジオはいつまでもいつまでも地震被害を読み上げます。
大きな地震が起こる度、避難民のスマホからは一斉に警報が発せられます。
そんな中、私は寒さの余り凍えかけていました。
東日本大震災で被災した方々のことを思えば、私の感じる寒さなんてちっぽけなものかも知れません。ですがその時の私は歯の根が合わず、肌をこすり合わせ、傍目にも惨めなほど震えていました。
やがて椅子を渡していたご家族がおずおずと声をかけてくださいました。
格好を気にしないのであれば使ってください、と渡されたのはゴミ袋です。
ありがたいお申し出に私は涙ながらに感謝の言葉を述べました。
二枚のゴミ袋のうち一枚を被り、一枚に両腕を突っ込みます。これだけでずいぶん寒さが和らぎました。
周囲の人々は暖かい毛布に包まれ、ブルーシートの上で横になっています。防寒対策はばっちりのようですし、食糧もきちんと確保しているようでした。彼らのほとんどが、私より後に公園にたどり着いた人々です。
負け惜しみのように聞こえるかも知れませんが、私はすぐさまマンションを飛び出した自分の行動が間違っていたとは思いません。ですが、正しかったとも思いません。私は自分自身が経験した西方沖地震、そして東日本大震災という激甚災害を知りながら地震を舐めていました。
寒さに震える内に尿意を催しました。
その辺で用を足すかとも思いましたがさすがにやめておきました。公園にはトイレが二か所ありましたので、その内一つへ向かいました。
水は止まっていました。
防災団の高齢者の一人がバケツに水を入れ、せっせとタンクに水を汲んでいます。私は彼の作業を増やしたくなかったので路上で済ませようかと思いましたが、列の人数が少なかったので呼び止められてしまいました。
用を足した後は彼と少し話をしました。
よくよく考えてみるとトイレだって倒壊・崩落の危険性があります。
ですが外では風が吹き始めていたので私はそこに留まるしかありませんでした。
毛布を貸してくれた女性にそれを返却し、私は夜が明けるまでぼうっと佇んでいました。
翌日は午後から激しい雨が予想されています。
私がそれを呟くと、防災団の男性は「分かってる」と言いました。
テントもどれだけ張れるかなあ、と。
夜が明けるまでにも地震は頻発しました。
私は寒さと恐ろしさと惨めさとを噛み締めながら、朝を迎えました。
マグニチュードが7を超えていたことをラジオで聞きながら、マンションへ向かいます。




