伯爵令嬢は風と共に
従者君と会うべく外郭の城門をくぐって少し進んだ時のことだった。
すでにあれから二回従者君と会って手合わせしてもらっていた。今日は外郭を少し出て、王城近くを散策しようとの計画だった。のだが。
「きゃー、どいて!」
という絶叫と共に、空から美少女が降ってきた。
何故空から? という疑問はさて置き、どいてと言われた時にはもう遅過ぎた。
私は、咄嗟に彼女の下に入って受け止めてしまったのだ。そのまま勢いに負けて尻もちをつく。痛いです。
長く真っ直ぐな黒髪。黒曜石のような黒い瞳。形の良い小さな唇は艶かしい濃いピンク。白い肌にほんのり色づいた頬が可愛らしい。見たことのあるような面立ちと感じたけれど、会ったのは初めてのはずだ。
彼女を膝にのせながら、私はとってもドキドキしていた。
何故なら、こんなにも女の子と近づいたのは、生まれて初めてだったからだ。それも、目を見張るほどの美少女だ。
今、私の頭の中を占拠しているのは、彼女とお友達になれるかしら、というその一点だけだった。
父の部下の王室師団員が慌てて駆け寄ってくる。
少女も自分のいる状況に気づいて、急いで立ち上がった。
彼女のぬくもりが膝から去ってしまい、少しばかり残念に感じながら身を起こすと、腕を差し出された。
「ごめんなさい」
シュンとした様子で微笑む彼女があまりにも可愛くて、どぎまぎしてしまった私は、動転して一人で立ち上がってしまった。
差し出された手が、困惑したように宙に浮いている。
「何ともありませんわ。心配していただくほどのことではありませんもの」
彼女の手を無視してしまったことに動揺していた私は、混乱の中言葉を紡いだ。
意図しない冷淡な声が出た。
所在のなくなった手を軽く握って胸元へと持っていくと、少女は益々肩を落としてしまった。
あああああ。違うの。そうじゃないのよ。
心の中では更にパニックに陥ってる私がいたけれど、きっと表情には何も出ていないのだ。
どうしてこういう時に限って、私の表情筋は動いてくれないの!
「お怪我はございませんか?」
父の部下が心配そうに声をかけてくる。
「本当に何ともございませんのよ? お気になさらないで」
ああ、やっとまともな声が出た。
「あなたも、そんな風に肩を落とす必要はございませんのよ?」
そう伝えて、彼女に近づこうと一歩踏み出した瞬間だった。
はう!
息が止まった。余りの痛さに動けなかった。今、立ち上がれたのに?
固まってしまった私に二人が怪訝な顔をする。
「何ともなくはないようです……痛くて動けません」
どうも、原因は足のつま先のような気がする。そこに力をかけるととてつもなく痛い。
私の言葉に二人は真っ青になった。父の部下の方が、より青い顔をしている。今にも死にそうな様子だ。私よりも重体に見えた。
「ごめんなさい。従者君に会えないと伝えていただいてから、お父様を呼んでいただけるとありがたいのですが」
「も、もちろんです。その前に、どこか休める場所へ移動いたしましょう」
父の部下がそう言った時、私の視界に知り合いが見えた。
「あ、先生」
「お兄様」
美少女と同じタイミングで言葉を発してしまった。
ん? お兄様?
視線を少女に向けた。目に入るのは黒髪黒い瞳のきれいな顔。どこかで見たと思ったはずだ、私の剣術の先生によく似ているのだ。
つまり、彼女は先生の妹であるマーレイ伯爵令嬢ということだ。
伯爵令嬢が空から降ってくるなんて、前代未聞よね。私も大概公爵令嬢らしくないと言われているけれど、彼女には負けるのではないかしら。
「ごきげんよう、先生」
痛みを堪えて笑みを浮かべてみる。ああ、額から冷や汗が出てるかもしれない。
怪訝な顔で妹と私を見比べる先生に、美少女の顔がさらに白くなっていく。
「どうかなさったのですか?」
「足を怪我してしまったようで、痛くて動けなくなってしまいましたの」
その言葉を聞くや否や、先生は私を抱き上げた。
「詳しくは後ほど伺いましょう。妹がここに立ち尽くしている理由もね。そこの君、急ぎ師団長を探して連絡を。私は彼女を本部の師団長の政務室へお連れする」
先生の命令に慌てて動く父の部下に、従者君への伝言を私は再度お願いをする。
楽しみにしていただけに残念だった。足の怪我が治ったら街を散策する機会をまた作ってもらえるかしら。
勿論ですと答えて走り去る彼に、名残惜しい眼差しを送ってから、先生を見上げた。
ついてきなさいと言われた美少女は、これ以上ないほどに小さくなりながら先生の後ろについてトボトボと歩いている。
厳しくしかめられた秀麗な顔の騎士にお姫様抱っこをされている私と、その背後を真っ青な顔で意気消沈している美少女。
この光景が人々の興味を引かない訳がない。
少し進んだ所で、人々が奇異の目で私達を眺めていることに気づいた。
目を上げると先生の綺麗な顔がすぐ近くにあって、ドギマギしてしまった。いつもは優しい先生の表情が硬い。
「先生。私、支えてもらえば歩けると思います。重いですよね」
色々な意味で恥ずかしくなってしまった私の言葉に、先生は表情を和らげて見下ろした。
「まさか。師団の本部までは少し距離があります、歩くのは止めておいた方がいい。動けないほどの痛みだったのでしょう?」
美少女が私の上に降ってきたのは外郭の城門近くだった。師団の本部は近衛兵の修練場のさらに奥にあるので、確かに歩くのはつらいかもしれない。でも、この体勢は先生の美しい顔が近すぎるし、細身なのにしっかりと付いた先生の筋肉が感じられるしで、とても照れるのだ。
それに、先生と美少女に向けられる周囲の何とも言い難い視線も気になる。絶対に私に対する眼差しではないと思うの。この二人、城内では有名なのではないだろうか。
居心地悪く感じながら、反論もできず、大人しく先生に運ばれるままに師団本部へ到着した。
入口の大きなホールを抜け、いくつもの扉を越えて最奥の部屋に辿り着くと、先生は私をソファに横たえる。
広くて豪華な内装と反するように、随分と何もない部屋だ。
部屋の奥、窓際の手前に大きな執務机とイス。その上に書類が積まれている。私が下ろされた来客用のソファーセット。壁に沿うように配置された本棚一つ。豪華な壁紙や装飾、照明器具にそぐわない簡素な家具がなおざり程度に配置されているように感じた。
さっき、先生が師団長の政務室と言っていた。でも、あまりここは使われていないようだった。
「失礼」
そう謝罪して、先生が革靴の上から私の左足に触れた。
足首から足の甲、そしてつま先にかけて……あまりの痛さに、さすがの私でも顔をしかめてしまった。それに、声も上げていたようだ。
美少女が私の頭側に膝をついて狼狽している。
「痛いのね、ごめんなさい。ごめんなさい」
心底後悔している声音で囁いてくる姿が可憐過ぎて、笑いたくなったが、痛くてそれどころではない。
「直接拝見しますね? 指を痛めているようだ」
そう告げると、先生が左足から靴を脱がせようとする。足にぴったり合った革靴なので、脱がせてもらっている間の痛みの強さは尋常ではなかった。
これは、軽い怪我ではない。と、察するのに理由も時間もいらない。医者がいなくても困ったことになっていることは推察できた。先生だって絶句しているし。
「これは……折れているかもしれないね」
触られていなければ、じくじくするだけで激しい痛みは感じなかった。
先生が、そのままスカートの中に手を入れかけたので、私は驚いて身を引いた。美少女も仰天して彼の手を押さえる。
「お兄様? レディになさる行為ではなくてよ」
瞬間、目を見張った先生は、ハッと我に返って白い頬を赤く染めた。
「し、失礼した。ついお前の時の癖が出た。靴下を脱がせてくれ、怪我を見たい」
私に謝罪した後、美少女へ言葉を投げかける先生は、初めて見るうろたえぶりだった。
靴下を美少女に脱がせてもらい……それも恥ずかしいものがあるのだけれど、少し張れた足の指を人目に晒す。人差し指が、変な方向へ若干曲がっているような気がする。
「折れているね。真っ直ぐにして冷やそう」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
断言と共に恐慌に襲われたように謝り倒す美少女の横で、手早く曲がった指を真っ直ぐにして魔術で冷たくしたハンカチを患部に巻いてくれる先生。
涙が出そうになった。でも、痛みが少しマシになった気がする。
簡単に応急処置を終えると、先生は妹を一瞥した。
「何があったか、なんて、聞かなくても解るな。お前はもっと落ち着いて行動すべきだ。どうせ壁を乗り越えたり、窓から飛び降りたり、木に登ったりしていたのだろう」
え? 伯爵令嬢だよね?
空から降ってきた時点で、おかしいとは思っていたけれど、この外見でやんちゃ系お転婆お嬢様だなんて、可愛すぎる!
私が美少女の可愛さに悶えていると、軍属の医師が部屋に入ってきて、きちんと処置をしてくれた。
先生の診断通り、左足の人差し指骨折だった。
指を添え木で固定して包帯で巻かれた足は大怪我に見える。
これは、父の反応が怖いかも。先生の顔を見ると、同じことを思っているようだ。さっきから「師団長が……」と呟いている。
「本当にごめんなさい。私、あなたが治るまで手足になって働きます!」
悲壮な顔で彼女が宣言するが、私はそんなことを求めていない。と、考えて、良いことを閃いた。
「手足は必要ありませんわ」
少女が肩を揺らした。
まさか、突き放したように聞こえてないわよね。私の台詞は時折、酷く冷たく響くらしい。
私は彼女の手を両手でぎゅっと握って言葉を紡いだ。
「側にいてくださいませ。きっとしばらく剣術の練習も外出もできないと思いますの。私の空いた時間を埋めるお手伝いをしていただくのはどうかしら」
大きく目を見開いた後、美少女は喜びが溢れだしたような、素敵な笑顔を浮かべた。
そんな私達の傍で、先生がとても不安そうな顔をしていたことなんて知りません。せっかくできた、初めての女の子の友達だ。水は差さないでいただきたい。
私は天にも昇るような心持で、美少女の可憐な笑みを見つめていた。
でも、やっぱり水は差されるのである。
ノックもなしに扉が開いたのでみんなが振り向くと、黒い髪の男の人と一緒に、険しい顔をした父が立っていた。その後ろに父の部下が白い顔で佇んでいる。彼はいつも血の気のない顔をしているなと、関係のないことを一瞬考えてしまった。
美少女が「大兄様」と呟いたのが聞こえた。
では、黒髪の大男が父の友人である第二師団長ということね。
父がつかつかと私に近づいて跪いた。視線は包帯に巻かれた私の左足から動かない。
「怪我をしたと聞いた」
「お父様!」
少し強い口調で呼んで、父の袖を握った。
「誰にも非はないのです!」
何も言わせない勢いで、そう告げた。
口を開こうとした父は私に機先を制された形になり、毒気を抜かれてしまったようだ。勿論、そのつもりで私も言葉を発したのだ。
なのに、彼女が正直に話そうとする。
「違います! 私が!」
「いいえ、誰の責任かといえば、自分を過大評価していた私の責任です」
これ以上は言わせないという意思を込めて、私はきっぱりと宣言した。
そう、誰が悪いかといえば、彼女を助けられると判断して、抱きとめようと動いた自分が一番悪い。この怪我は自分の力を見誤った私自身が原因だ。
父は私と彼女を見て息を吐いた。
「……ならしかたない。骨折か? 一月は自宅療養で出歩くのは禁止だな」
何も言わずに優しく笑う父。
私達のやり取りを見ていた父の部下はホッとしたようで、その頬に赤みが戻っていた。
先生と第二師団長はしばらく目を丸くしていたが、その後、何か面白いものでも見るように父を眺めている。
美少女はというと、父が誰か分かった瞬間、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
父が私に手を伸ばして僅かに躊躇いを見せた気がした。けれど、それは気のせいだったようで、次の瞬間には、私は父の腕に抱きかかえられていた。
「馬車を前に待たせてある。家に戻ろう」
馬車に乗り込む前に、私は少女に明日以降の約束を取り付けた。先生と一緒に訪ねてくれるそうだ。
怪我の功名というやつだ。
初めての女友達に浮かれている私は、父が先生や部下と話しているのを横目で見ながら、ついつい緩んでしまう頬を両手で押さえた。
向かいに乗り込んできた父へ、第二師団長が最後だとばかりに言葉を紡ぐ。
「親離れより、子離れの方が難しいと聞くぞ。お前、大丈夫か?」
ほっとけ。と呟いて、父は馬車の天井を二回叩いた。
気安いやり取りが新鮮で、私は出発する馬車の中から第二師団長へ意識を向ける。
「しかし、彼女は母親にそっくりだな。瞳は……」
気になることを口にした第二師団長の台詞を、私は最後まで聞くことができなかった。馬車が離れてしまったからだ。
届かなかった声が何と言っていたのかその時はとても気になったのだが、日が経つにつれて気になった事実を忘れてしまった。
空から降ってくる女の子が書きたかったんです。
十五歳まで待っていられなかったんです。