政策のリスク評価についての不安(主に原子力政策)
最近、『暴力の解剖学』というタイトルの本を書店で見かけたのです。タイトルからして予想がつくかと思いますが、生物学的な特性が暴力や犯罪に関与している事を訴える内容の、やや過激な煽りのついた科学読み物で、正直僕は、それが売る為の“釣り”なのか、それとも本当に“偏った思想”が書かれた本なのか、買う前に悩みました。
分厚い本だし、決して安くもなかったので、“偏った思想”だった場合、少し辛いなとも思ったのですが、そういったタイプの本はあまり見かけないという事もあって、僕はそれを買ってしまいました。
以前に同じく生物学的な特性が暴力に関与していると訴えている『平気で暴力をふるう脳』というタイトルの本を僕は買った事があったのですが、その本の内容は納得のいくもので、とても参考にもなったのです。ただそれでもそれは一人の作者の手によるものでしかありません。どれだけ理性的に書くよう努めている人でも、自然とその内容が主観によって歪められてしまうという事はよくありますが、そういった考え方の偏重を防ぐために、僕は同じ事柄に対して、複数の意見を参考にするという事をできる限り心がけるようにしているんです。それで、似たようなタイプの書籍をずっと探していたのですね。
結論から言わせてもらうのなら『暴力の解剖学』という本のその過激な煽りは“釣り”だと僕は判断しました。読んでみると、「生物学的要因は確かに暴力行動に影響を与えるが、それで運命が決定される訳ではない」というごく常識的な内容が書かれていたのです。例えば、「栄養状態が悪ければ、暴力に走り易くなる」といったような、一般的にも受け入れられるだろう事が書かれてありました。
ただし、注意点もあります。“遺伝率”についての『暴力の解剖学』での説明は完全に間違っていました。また、更に『平気で暴力をふるう脳』との相違点もありました。化学的去勢(性衝動を抑える為の薬物投与)は『暴力の解剖学』では効果があるとされいたのですが、『平気で暴力をふるう脳』ではあまり効果がないとされていて、統合失調症患者の危険性に関しても温度差があり、『暴力の解剖学』では(多くの統合失調症患者はそれほど危険ではないと強調しつつも)暴力行動に走り易いとしているのに対し、『平気で暴力をふるう脳』では自分が攻撃されているという妄想を抱いている患者(自分の身を守ろうと、誰かを攻撃してしまう)以外は極稀な特例を除けば、それほど危険ではないとしていました。
(因みに、『平気で暴力をふるう脳』の方がやや詳しく説明されてあったので、この件に関しては、僕はこちらをやや強く信頼する事にしました。もっとも、確証は得られてはいませんが)
こういったようなやや怪しい点がある事はありましたが、基本的には『暴力の解剖学』という本には重要な情報が多く書かれてあると僕は判断しました。そして、そのうちの一つに、“恐怖に対する敏感さ”についての記述があります。
簡単に言ってしまえば、それは、恐怖心が麻痺しているとリスクを恐れずに行動してしまうケースが増えるというものです。それにより攻撃行動を執り易くなり、また、当然リスク評価能力に問題が生じます。
ここで一応断っておくと、“恐怖心が麻痺する傾向”にその人があるからといって、必ずしもその人が問題行動を執るとは限りませんし、場合によってはその特性が非常に役に立つ場合もあるのです。『暴力の解剖学』では、多くの人を救った爆弾処理班の例が挙げられてありましたが、つまりは適材適所という訳です。
ですが、それでも僕は、仮に感情の上ではそのリスクを正しく認識できていなかったとしても、理性では正しく評価する必要があるのではないかとも思うのです。特に社会全体の行動を決定するような重大なものの場合は。
僕はこの本の“恐怖心の麻痺”についての記述を読み、こんな事を考えている最中、日本で執られて来た政策の数々を思い浮かべていました。
ここで、少しばかり“リスク評価”について述べましょう。
僕は以前は、開発専門のプログラマとして様々な現場を経験していました。開発の場合、開発が終了してしまえば、後は用済みになるので結果的に様々な現場を経験する事になるのですが、そのうちの一つにこのリスク評価を積極的に行っている現場があったのです。
考えられるリスクを全て洗い出して一覧にまとめ、そのリスクを評価(その現場では、それを数字で表現していました)し、できればその対策を明記して、リスクが減ったと判断できる場合は、その評価を下げていくのですね。
どうして、そんな事をするのだろう? と不思議に思いますか?
そんな事くらい、少し考えれば分かるだろうに、と。でも、ですね。少し考えれば分かる事でも、それを意識しないで失敗するというケースは実は意外に多くあるのです(意識しなければ、そもそも考える事ができないからですね)。リスクの存在を意識し、状況を整理する為には、一見は無駄に思えるこういった手段が、実は有効だったりもするのです。
それに、そうして整理する事で、「なんとなく大丈夫じゃないか」という感覚で捉えているリスクを、明確な根拠をもって評価する事が可能になります。感覚での評価は信頼性があまりありませんから、それでリスクの本当の姿が捉えられるようになるのですね。
ここで注意すべきなのは、その洗い出されたリスクの全てに対策を講じる訳ではないという点でしょうか。例えば“リスクが低く”、“対策コストが高い”場合はそのリスクを受容するケースもあります。それで問題が発生しても損害が軽いのなら(或いは、その問題が発生する確率が極めて低いのなら)、無理して高いコストをかけてまで対策を執る必要がないだろう事は簡単に分かるでしょう。コストをかける方が、むしろ損害が大きくなってしまうからです。
当然、“リスクが高く”、“対策コストが低い”場合は対策を執ります。“リスクが低く”、“対策コストが低い”場合はどちらでも構わないかもしれませんが、僕の経験上は対策を執るケースの方が多かったです。
一番、問題なのは“リスクが高く”、“対策コストが高い”ケースです。高い対策コストをかけたくはない。ですが、そのリスクの高さも無視はできません。
さて、なら、一体、どうしましょう?
そういった場合は、覚悟を決めて、“高いコストをかけて対策を執る”か、“その方策を諦める”かの二択しかありません。
間違っても“受容”してはいけません。ですが、現実には“受容”してしまうケースもあるのです。そして、それで失敗をすることが。
その場合は、そもそも先に述べた“リスクの洗い出し”と“リスク評価”を行っていないか、リスクの評価能力が低いかのいずれです。
そして、今までに執られて来た日本の政策には、この間違った選択をしてしまっているケースが多いようにも思うのです。つまり、リスクの高い政策を、対策も執らずに行ってしまっている。
一例を挙げましょう。
国は公的年金の一部で株を買って、その運用を行っています。昔からこれは続けられていましたが、自民党安倍内閣では更に積極的な姿勢を見せていて、以前は行われていなかった共済年金(公務員の加入している年金制度です)まで、その対象としています。そしてその年金資金と量的緩和政策などによって、株価は2万円近辺にまで至りました。ただし、これには当然、リスクがあります。
金融経済は、資金が多ければ多いほど有利になると言われているので、いかに不安定な株とはいえ、確かに通常の条件ならば、株を買うことのメリットもあるように思います。
ですが、国ならではの制約も存在し、それが不利な条件になってしまってもいるのです。
仮に株価が急激に下がり始めた場合、損失を減らす為には株を売らなければいけません。ですが、そうすると株価の急落に拍車をかける事になるので、国の立場としては、非常に売り難いのですね。
つまり、仮に株価急落を直ぐに察知していたとしても、国の場合、為す術もなく損失を受け入れるしかないかもしれないのです。これにリスク評価を下す場合、次に考えなくてはならないのは、その“株価急落”が現実に起こり得るどうか、という点でしょう。
世界経済は持ち直していると言われてはいますが、まだまだ多くの不安要素を抱えてもいます。例えば、ヨーロッパの財政不安や中国のバブル経済の崩壊、陰りが見え始めた新興国市場、アメリカの財政赤字や日本の財政赤字だって気になるでしょう。そういった不安要素は経済に大きなダメージを与え、だから株価にも影響を与えます。
早い話が、“株価急落”は現実に充分に有り得るのです(500円規模の急落ならば、既に起こっていますし)。
ですが、そのリスク対策を僕は聞いた事がありません。過去にも株の運用による年金の損失が話題になった事がありましたが(ただし、その後の回復については、あまりマスコミで報道されていないので、不公平感は否めませんが)、その時と同じ様に損失をただただ受け入れるしかないのかもしれません。
或いは、「株価は水ものだから、また回復するまで待てばいい」なんて意見もあるかもしれませんが、年金資金の投入と量的緩和政策で無理矢理に上げた株価が、短期間で自然に回復する可能性は低いのではないかと思うので、僕は“望み薄”だと判断しています。何か策を講じるにしても、年金資金を投入すれば、また同じ問題が付き纏います。つまり、更なる損失を出す可能性があるのですね。そして、量的緩和政策は既にやり過ぎているので、これ以上の利用は控えた方がいいはずです。
一応断っておきますが、もし仮に、国が年金の株投資に関して絶対に損をしない手段を何か執っているのだとすれば、それは普通に考えれば、アンフェアな違法行為です。金融市場とはそういうものですから(ないだろうとは思いますが)。
この年金の株運用に関するリスクが、果たして株価を上げられるというメリットや運用益を得るメリットに適うものなのかどうか、僕は怪しいと踏んでいます。
リスクのある政策は、他にもあります。量的緩和政策には金融経済を混乱させるリスクがあるのは有名は話です(この政策の詳しい内容は長くなってしまうので割愛しますが、リスクがある点は政策を実行している日銀のメンバーが認めている事です。実際、2015年4月の追加緩和を日銀は見送っています)。
そして、その最たるものが原子力政策でしょう。
一口に“リスク評価”といっても様々な視点があります。経済的なリスクもあれば、政治的なリスクもあるのですが、しかし、今回については特に原発テロリスクについて述べる事にしたいと思います。
さて。
周知の話ではありますが、2001年の9月11日に起こったアメリカの同時多発テロでは信じられない事が起こりました。複数の航空機がハイジャックされ、そして巨大ビルに激突し、ビルの崩壊にまで至ったのです。
アメリカは世界中に“敵”のいる国で、だから常にテロの被害に遭う可能性があるという話はよく聞きますが、それが事実であることを思い知らされた事件でした。
このテロリズムにおいて特筆すべきなのは、まず「テロリスト達が何も要求をして来なかった」という点が一つ。普通、ハイジャックなどのテロ行為の場合、テロリスト側から何かしら要求があるものです。ところがそれがなかったのです。つまりはこれは「純粋な破壊目的」のテロだったのです。
そして、コストパフォーマンスが高い点もあります。時折ニュースになるテロ行為の場合、普通、銃火器を利用しても、その被害に遭うのは数十人多くても数百人です。ところが、このテロ事件では実に三千人規模の人がその犠牲になったのです。もちろん、これに航空機やビルが受けた被害も加わります。
この事件を受けて、「原子力発電所が、航空機テロの標的にされる」という懸念が生まれたそうです。原発にテロを仕掛けるのなら、コストパフォーマンスは更に上昇、被害規模は数万人に跳ね上がり、破壊を目的とするのなら、テロリスト達が狙う動機は大いにあるからですね。本当か嘘かは分かりませんが、アメリカから日本へ「原発への航空機テロに警戒しろ」という警告があったという話もあります。ただ、これが本当でも嘘でもあまり重要ではないでしょう。
こんな信じられない事件が現実に起こってしまった点を考慮するのなら、「原子力発電所が、航空機テロの標的にされる」という危険がある点は誰でも思い浮かぶはずです。そして、それを把握して対策を執っていたなら“福島原発事故”を防げていた可能性はかなり高いのです(福島原発事故は、もちろん、テロではありませんが)。
これは当時の自民党政権だけの問題ではないでしょう。福島原発事故発生前には、民主党だって政権を取っていますし、そもそもその危険を訴えた日本人はほんのわずかです。つまり、政治家や官僚達だけの問題ではなく、一般の日本人全般の認識が甘かったのです。その責任は日本人全員にある(日本は民主主義国家で、国民主権ですから)。
正当にリスク評価するのなら、当然、対策を執らなければいけなかったのに、それを怠った…… いえ、その前に把握すらしていなかったのですね。
ただ、ここで少し(自分も含めて)日本人を擁護するのなら、日本は国際的なテロ活動とは無縁な社会なので、テロ行為に対して鈍感になってしまっていたという点はあるかもしれません。オウム真理教が起こした毒ガステロという特殊なケースはありますが、日本が大規模なテロの標的になるなどあまり想像ができません。
有色人種である日本人は、白人社会を敵視する過激派テロ組織にも印象が良く、また、宗教に対しても寛容な態度を執っているので、攻撃の対象にはなり難かったのです(中国や北朝鮮は確かに脅威ですが、日本国内で大規模なテロを起こしたケースはないでしょう)。そして、それが“当たり前の感覚”になってしまえば、テロ行為に対して鈍くなってしまうのも無理はないのかもしれません。
こんな言い方は嫌いなのですが、つまりは“平和ボケ”というやつです。ただし、日本人に欠けているのは“テロに対する危険意識”だけではなく、もっと全般的な社会的リスクの評価能力だとは思いますが。
さて。
では、福島原発事故を経験した日本人は、この認識を改めたのでしょうか?
恐らくは、残念ながら改めてはいないと思います。その理由はこれから述べますが、その前にまずリスク評価の方法について、少し説明を付け加えたいと思います。
先ほどのリスク評価の説明では、“確率の概念”については述べませんでした。ですが、リスクを評価する際に、確率の概念は非常に重要なのです。
例えば、同じ規模の損害を受けるリスクAとBがあったとしましょう。この場合、仮にAの方が発生する確率が高いとするのなら、リスク評価はAの方が高くなります。逆に発生する確率が低いリスクでも、その損害規模が大きければ、リスク評価は高くなる事になります。
この話を原発事故に当て嵌めると、原発事故の損害は人間社会で起こる事故のうちで、最大級のものですから、発生する確率がかなり低くてもそのリスク評価は高くなります。
ですが、この認識、一般の人にはあまりないのではないでしょうか?
昨今、日本各地で火山活動が活発化しています。海底火山の噴火によって新たな島(西之島)が誕生し、阿蘇山で噴火が続き、北アルプスや蔵王でも火山活動の活発化が観測され、そして御嶽山が大爆発を起こしもしました。昨年末には、桜島が爆発の兆候を見せ、そして2015年の5月初めには、箱根で小規模噴火の警告が出されました。
はっきり言って、何が起こるのか分からない状態です。
この事実を鑑みるのなら、原発事故のリスクは高まっていると判断できるでしょう。原発の安全基準に信頼がおけない以上(実証実験ができないので、原発の災害に対する安全性を確かめる手段はありません)、反対しなければいけないはずですが、その為の大規模なデモなどは起きていません。福島原発事故の後は、あれだけのデモが起こったにもかかわらず、です。
百歩譲って、まだ災害対策については、安全基準に盛り込まれているので、納得できるとしても良いかもしれません。ですが、“テロ対策”については完全にアウトです。これで対策が執られていると言えるはずがない。僕は自分で調べてみて愕然としました。
僕が原発のテロ対策について調べてみようと思った切っ掛けは、安倍首相の訪米でした。この訪米で、日本がアメリカに軍事協力するだろう可能性はより高くなりましたが、ならばテロリストに狙われる危険性も高くなるだろうと考えたのです。先にも述べましたが、アメリカは世界中に敵がいる国で、常にテロに狙われていると言われています。そのアメリカに軍事協力するのだから、当然、日本はテロの標的になり易くなります。そして、アメリカで起こった同時多発テロのように「破壊を目的としたテロ」の場合、もっとも警戒するべきなのは原発の破壊です。
東京新聞の記事によれば、国の試算では、仮に原発がテロの標的になった場合、「最悪で1万8千人が急性死し、86キロ圏内が居住不能となる」とあるそうです。もちろん、悪い事態を想定したもので、随分前の情報なので、今でも当て嵌まるとは限りませんが、それでも充分に脅威と言える数字でしょう。
「アメリカに協力したら、こうなるぞ」という脅しに使えると、テロリスト達が考えても不思議ではありません。
原発に対するテロのうち、航空機テロを最も警戒すべきだと僕は考えました。先にも述べましたが、航空機テロはコストパフォーマンスが良いからです。つまりは、少ない予算でも決行が可能なのですね。しかも、世界では頻繁に自爆テロが起こってもいます。
また、アメリカ同時多発テロ以降、警戒を強めていると言われているにも拘らず、航空機の乗っ取り事件と見做せる事件が何度も起きているという点も根拠の一つです。航空会社は格安競争でコストを削減していますが、そんな中で、テロ対策を充分に行っているとは思えません。少し調べてみたら、テロへの警戒の甘さに不安になっている旅行客の記事を見つけました。
日本は国土が狭いという点も、原発がテロの標的になり易いという根拠の一つです。旅客機は時速800キロ~900キロの速度で進みます。なので、国土が狭い日本では、ハイジャックされていると分かっても対応が間に合わない可能性が大きいのではないかと考えられるのですね。
過去の事例を観ると、航空機テロは個人でも可能なようです。ですから、組織でなくても、パイロット個人が何か危険思想を抱いていれば、それだけで原発に対する航空機テロを決行されてしまう可能性があります。組織でそれを行うのなら、十数人程度の小規模な組織でも原発に対する同時多発テロも可能でしょう。そして、その原発事故が国が試算したような最悪のケースに至るのなら、同時多発テロを決行された場合、日本社会は半壊してしまいます。
もっとも、それでも日本が原発への航空機テロ対策を充分に行っているのであれば、心配する必要はないのかもしれません。ところが、日本の航空機テロ対策は、非常に脆弱なもので、はっきり言って何の対策にもなっていないのです。
外部電源と冷却装置(これはどうも放水器の事のようです)、そして指揮命令系統の強化のみです。
旅客機が原発に墜落し、建物が破壊され、爆発炎上している状態で、更にその奥にはメルトダウンしそうな原子炉がある。そして原子炉の中には、周囲を跡形もなくぶっ飛ばせるだけのエネルギーが渦巻いている。
そんな状況で、一体、放水器にどれだけの効果があるのでしょうか? 指揮命令系統があるからといって何になるのでしょうか?
調べてこの事実を知った時、僕は何かの悪い冗談ではないかと自分の目を疑いました。酷いだろうとは思っていましたが、まさかここまで酷いとは。
断っておきますが、今の日本の安全基準では、電力会社に対して航空機テロ対策を義務付けています。つまりは、それが起こる可能性を想定しているということです。なのに、この状態なのです。
百歩…… いえ、千歩くらいゆずって、仮にこれでも航空機テロ対策になるのだとしましょう。それでも、テロリスト達は、その対策に対抗する為の手段を講じるはずでしょう。放水器を出すのを邪魔するかもしれないし、前もって放水器を壊しておくかもしれない。テロリスト達が、何もしないという甘い想定は、いったい、何を根拠にしているのでしょうか?
普通に考えて、警戒が弱く、効果が大きければテロリスト達はそこを標的に選びます。つまり、日本の原発の今の脆弱なテロ対策は、テロを呼び込んでいるようなものです。日本がアメリカに軍事協力を始めれば、だから天災よりも遥かにテロが発生する確率が高くなります(これは航空機テロに限りませんが)。
このままの安全基準で良いはずがありません。
高浜原発の稼働を差し止める決定が、裁判所によって為されました。これは主に地震対策の弱さがその判断理由だったようですが、テロ対策を争点にするのなら、この決定が妥当だともっとはっきりします。
川内原発について、稼働を差し止め却下を裁判所は下しました。もし仮にテロ対策が、その判断に組み込まれているというのなら、裁判所は“平和ボケ”していると表現するしかありません。
僕が原発のテロ対策について、これまで深く調べなかった(世界で最もテロに対して弱いという話は知っていましたが)のは、「日本はテロの標的にならないだろう」という甘い想定でいたからです。
ですが、今回調べてみて、僕は自分自身が恥ずかしくなりました。“平和ボケ”しているという表現に今まで僕は実感ができなかったのですが、今回で初めて実感しました。確かに僕は“平和ボケ”しています。
ただし、“平和ボケ”しているのは、僕だけではありません。
国も原子力産業も、そして日本に住むほとんどの人も“平和ボケ”しています。
原発テロのリスク評価は“極めて高い”でしょう。そして、その対策コストも“極めて高い”です。
先に述べましたが、この場合の選択は“高い対策コストをかける”か“その方策を諦める”かのどちらかです。間違ってもリスクを“受容”してはいけません。ですが、国は原発テロリスクを“受容”してしまっています。
最悪、1万8千人が急死する原発事故を、受容してしまっているのです。
もちろん、流石に国の人間でも、ここまで残酷ではないでしょう。福島原発事故以前の安全基準では、航空機テロを想定していませんでしたが、恐らくは、状況が変わった今でもその感覚でいるのだと思います。
つまり、リスク評価を感覚でやってしまっている。
「どうせ、日本はテロには狙われない」
とでも、思っているのでしょう。
まったく充分ではない航空機テロ対策を、安全基準の中に入れたのは、国際的な安全基準に気を遣って一応は体裁を整えただけだと思います。ですが、確りと明確な根拠を並べて、航空機テロのリスクと対策を考える場合、今の日本の原発に対する安全基準は完全に不合格です。
普段は原発に賛成している人も、少なくとも、この今の日本の安全基準に対しては反対するべきです。自民党を支持している人も、です。
僕は自民党、特にアベノミクスには反対していますが、だからといって全てに反対している訳ではありません。例えば、1ドル110円程度の円安だったなら、その実績を高く評価します。それと同じで、自民党を支持している人でも全てのその政策を盲信的に賛成している訳ではないはずです。
一応断っておきますが、間違っている点を指摘する有効なアドバイスは“攻撃”ではなく“協力”です。
アメリカでは原発は管理がより厳しく、近付く航空機を警戒していると聞きます(本当か嘘か確証はありませんが、ありそうな話です)。ヨーロッパでは、航空機テロ対策の為に、1兆円規模の予算をかけ、航空機の墜落に耐え切れる構造の原発を導入しようとしています(ただし、今は不安視されていますが)。
つまり、どちらも航空機テロに対して正当にリスク評価を行って、その対策を実施しているようなのです。
間違いなく原発への航空機テロは、大きな脅威です。
どうか、リスク評価を誤らないでください。
因みに、停止中も原発は危険という話もありますが、「ドライ・キャスク」という保管方法ならばかなり安全になるそうです。
福島原発事故の前から、実は原発反対派の人達は、原発の問題点について必死に訴えていました。
僕はその内容を以前から読んでいたのですが、それを誇張であると考えてしまいました。流石に、ここまで酷くはないだろうと思ってしまったんです。ですが、福島原発事故で、それが事実だと分かりました。
原発反対派の人達の主張は正しかった。本当に日本の原発管理体制は酷過ぎた。
後になって、僕は自分の甘い認識と誤った判断を後悔しました。
今、僕は同じ感覚を味わっています。まさかここまで酷くはないだろうと思ってしまうような現実がそこにあります。
今度は後悔しないように、できる事はやるつもりでいます。だからこそ、これを書いたのですが。
これは原発政策に限りませんが、政策のリスク評価とその対策の立案をもっと一般的に行うようにするべきじゃないかと僕は思っています。
偏った意見にならないよう、様々な立場の人がその評価を公表し、見やすいようにまとめれば、リスク評価を誤った政策は減っていくのではないでしょうか。