第1章(8)
朝、いつものように目覚めて段ボールハウスを出ると、東野が腕を組んで仁王立ちをしていた。
「おい、いつまで寝てるんだ。今日も練習だぞ」
「勘弁してくれよ……もうずっと野球の練習しかしてないぞ」
「うるせえ。無一文のニート野郎がどうにか生きていられるのは、全部俺たちのおかげなんだってことを忘れてねえだろうな。まともな働き口なんてねえんだから、せめて野球で貢献しやがれってんだ」
「ぐっ……!」
そう言われてしまうと、返す言葉も見つからない。野球道具は全部借り物で、着ている服もすべてメンバーのお古、そして生活費はすべてメンバーからの善意で集めてもらっている。
「けど、ほとんど東野はなにもしてないじゃないか!ボロボロになったお古のグローブをくれたくらいで!」
「う、うるせえ!しょうがないだろ、フリーターだからお金には余裕がないんだよ!!」
東野はあくまで自分のことをフリーターだと言い張っているが、日中はほとんどグラウンドにいるし、そもそもアルバイトをしているのかさえ怪しいところだ。
「おまえ、どうせ朝飯ねえんだろ?いつも練習に付き合わせてる礼ってことで、たまには奢ってやるよ」
「大丈夫なのかよ。草薙さんからもらったお金もまだあるし……」
東野はおもむろに尻ポケットから財布を取り出し、その中身を確認すると青ざめた。
「だ、大丈夫だ……ただし、500円以内でよろしく頼む」
どこからどう見ても大丈夫には見えないが、好意を無下にするわけにもいかず、東野に連れられてコンビニへと向かったのだった。
「500円だからな!?500円超えた分は自分で払えよ!?」
グラウンド脇のベンチ、1リットル入りの大きなスポーツドリンクのペットボトルを間に置いて、俺たちは並んでおにぎりを頬張っていた。今から始まる練習に備えて俺は、朝からおにぎりを3つほど腹に入れたが、隣にいる東野は2つ平らげただけで満足そうな顔をしている。
「そんなんで足りるのかよ。おごってもらった側の人間の方が多く食べてると、さすがに気が引ける。そんなに金がないなら、そう言ってくれれば……」
「バカにすんなよ。おにぎりケチるほど貧乏じゃねえし、見え張ってお前におごったわけでもねえ。ただ、俺はこれで満足なんだよ」
そう言う東野の顔に、強がりの感情は見えてこない。たぶん、本当にこれだけで十分なのだろう。だが、明らかにこの食事量は運動量に対して釣り合わない。
「こんなんでちゃんと練習できるのかよって思ってるだろ」
俺の考えを見透かしたように、東野は聡明な目をしてそう言った。
「食えねえんだよ。ちょっと食べるとすぐに満腹になって、それでも限界を超えて食べるとすぐに口から出ていっちまう」
東野の身体はしまった肉付きをしているが、筋肉がそれほど付いているわけではない。スポーツをする人間にとって、食が細いことがどれほど辛く苦しいことなのか。その苦痛を、苦悩を、東野は自ら語り始めた。
「高校の時、俺は野球部だったんだけどよ、合宿のたびにバカみたいな食事量のノルマが課せられて、そのたびにゲロを吐いては真っ青になってたんだ。そのせいで、同じ部員からはゲロ野郎と罵られたよ。人一倍練習はしたつもりだけど、こんな身体のやつがレギュラーになれるほど、日本の高校野球は甘くない。結局、ベンチに入ることすら出来なかったさ」
どんなことを思いながら語っているのか、俺には想像もつかない。身長だって人並より低くて、筋肉をつけることさえ叶わない。
まるで、スポーツを極めることを生まれた瞬間から拒絶されているような……
「それでも、野球は止めなかったのか?」
「止めるわけねえよ。だって、こんなにも野球が好きなんだからさ。公式戦に出してもらえなくても、チームの中の最底辺でも、それでも努力だけは止めなかったさ」
初めて見せるようなさわやかな笑顔で微笑んだ。
後悔なんて、一切ないと言うように。
「俺には、よく分からないや……」
――何かを好きになって、その一つのことに人生のすべてをかける。そんな生き方があると言うことすら知らなかった。
「ったり前だ。実質、生まれてから一週間やそこらのお前なんかに理解されてたまるかよ。俺だって何度も辞めようかと思ったし、今だって不安でいっぱいなんだから」
野球が好きだからと強がっていても、本当は悔しくて辛くてたまらなかったはずだ。いや、好きだからこそ、だろうか。
「好きなのに、散々努力したのに、大した努力もしていないセンスのあるやつにどんどん抜かされて行くんだ……!上級生からは呆れられて、同級生からはバカにされて、下級生からは舐められた。けど、たった一つ目標のために努力し続けた……」
「その、目標って言うのは?」
少しずつ、太陽が頭上遥か高くへと昇っていく。東野はそっと目線を下ろし、手に握られた小さなおにぎりを見つめていた。うつむいているせいで細かい表情までは分からないが、うっすらと口角が上がっているように見えた。
「俺の目標は小さいころからずっと変わってねえよ。俺はずっと、物心がついた頃からずっと、俺の目標はプロ野球選手になることだよ」
――感心すればいいのか、励ませばいいのか、笑えばいいのか、どんな言葉をかければいいのか分からない。だって、その目標はあまりにも……
「さ、無駄話は終わりだ!練習する時間がなくなっちまう!」
作ったような明るい声で叫ぶと、残りのご飯を口の中に押し込んだ。食べ終わると勢いよくベンチから立ち上がり、俺の方を見て屈託のない笑顔を浮かべる。
「おまえ、この俺にここまでしゃべらせたんだからしっかり練習しろよな。どんなに俺が活躍しようと、チームがしょぼかったらスカウトは来てくれねえんだからよ」
「はいはい、分かったよ」
ただ一つだけ気になっていた。
――本気でプロを目指しているのなら、どうしてこんな草野球チームなんかに入ったのだろうか。
それを聞くだけの勇気は出ずに、東野の後を追ってグラウンドに向かっていった。