第1章(7)
俺がこの河川敷で目を覚ましてから
1週間が経った。それから、俺は東野のもとで練習を続け、それなりに見られるレベルまで成長することが出来た気がする。
と言っても、最初より少しは上手くなったと言うだけで、チームの中でダントツにへたくそなことには変わりない。少しずつチームメイトからも客人扱いをされなくなり、毎日ヘトヘトに動けなくなるまでしごかれているが、この感覚も案外悪くない。
「ちょっと!今のはグローブ逆!何度言ったら分かるんだってのー」
年齢が近いと言うこともあってか、俺の練習には基本的には彩が付き合ってくれている。彩の指導は大雑把で分かりにくく、それにとんでもなく厳しい。だが、俺ができるようになるまで根気よく指導してくれるし、上手くできるとたまにだが褒めてくれる。
「ま、今のは悪くないか。ちゃんとこれを毎回やってよね」
今日は土曜日と言うこともあって、グラウンドには昼からたくさんのメンバーが集まっている。
だがそこに、あれほど練習熱心だった草薙さんの姿はない。
「ねえ、ちょっとノック変わってくれる?私もちょっとは練習しなきゃだし」
彩からノック用のバットを受け取り、ボールを地面から拾い上げてノックの準備を整える。俺がバットでボールを転がし、それをひたすら彩が捕ると言う練習だ。
ボールを勢いよく打つと、鋭い軌道で彩の数メートル脇へと飛んでいく。これはさすがに間に合わないと、そう確信した瞬間、彩の身体はすばやくスライドして迫りくるボールをグラブの中に収めてしまった。
「す、すげえ……」
思わず感嘆の声を漏らすと、彩は胸を突きだして得意げな顔をしている。
「あったりまえでしょ。内野守備をやらせたら、私の右に出る奴なんていないんだからね?これくらい朝飯前だっての」
前々から気づいていたが、彩の身体能力はものすごく高い。守備能力ならチームトップクラスで、バッティングもスローイングも若い男性と比べて遜色ないほどだ。
「ま、私はどっかのエラーばっかりのバカオヤジと違って才能に溢れてるからね!」
「聞こえてんぞ、このバカ娘ー!!」
グラウンドの奥から城崎さんの叫び声が響く。相変わらずの親子だった。
そこから再び長い練習は続いていく。彩との練習を終えた後は、実践形式を取って全体の動きを確認だ。
そんな練習を2時間ほど続けていると、グラウンドの外から2人の人影が来るのが見えた。
「お待たせー!」
新たにグランドにやってきたのは草薙さんで、隣には見知らぬ女性が並んで歩いている。隣の女性はまだ若そうだが、おそらく草薙さんの妻だろう。だんだんと近づいてきた草薙さんの腕を見てみると、小さな子供が抱きかかえられているのが分かった。
「おお、宗谷じゃねえか!それに千草ちゃんも!もう体調は大丈夫なのかよ」
「はい、おかげさまで。完璧ではないですけど、この調子なら大丈夫だろうってお医者様がおっしゃっていたので」
ふと、草薙さんと病院で初めて出会った時のことを思い出す。あの時、なんで病院にいるのかと質問したのに対して、妻の見舞いのためだと言っていたような気がする。だとすれば、この女性こそが……
千草と呼ばれた女性は、話し相手を安心させるような、おっとりとした穏やかな声で大坪さんの問いに答えた。年齢的には20代後半から30ほどだろうか。ほんのり明るい髪は、ゆるやかにカールしている。その声に似合った、優しく朗らかな笑みを浮かべた彼女のお腹は、明らかに大きく膨らんでいた。
――なぜだろう。この千草と言う女性を見ていると、胸の奥底が暖かくなっていくような、そんな感覚に襲われる。
どうしてか、何があるでもなく、ただ見とれていた。
「ああ、そうだ。千草、この子がこの前話した新しく入ってきた男の子だよ」
「こんにちは。宗谷の妻の千草です。私は休日に顔を出す程度なんだけど、よろしくね」
彼女の、その笑顔を向けられた瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ね上がった。
「よろしく、お願いします」
目を合わせているのが恥ずかしくなって、ふと視線をそらすと草薙さんが抱く小さな子供が目に入った。
およそ3歳くらいだろうか。可愛らしい服装と、伸ばした髪からも女の子だと分かる。顔は草薙さんにそっくりで、一目見て二人の子供だということが分かった。
眠っていた女の子の目が開かれ、俺たちは見つめ合った。
「あ、あぅ……」
寝ぼけているのか、女の子は意味を持たない言葉を発した後、俺の胸に向かって小さな手を伸ばした。
「あら、茜が誰かに興味を持つなんてめずらしい」
「茜ちゃんって言うんですか?」
「ええ……この子、人見知りだからチームの方にもほとんど懐いてないのだけど、あなたのことが気になるみたいね」
「いいなー。茜ちゃん、私にはちっとも心を開いてくれないのに……」
彩が手を伸ばしても、茜は露骨に眉を下げて父の胸に顔をうずめてしまう。拒絶された彩は、ガックリとうなだれて「なんでー」とショックを隠せないでいた。
「くそ、こんな新入りなんかに負けたー」
「いや、勝ち負けとかじゃないだろ」
冷静にツッコんでみても、それでも彩の不満は消えないようで、しばらく不機嫌そうに口をとがらせていた。その様子を見て、千種さんが優しい顔で微笑んでいる。
――俺は間違いなく、千種さんのその笑顔に惹かれていた。
「ほら、いつまでも遊んでんな。とっとと練習再開するぞ」
大坪さんの一声で、緩んでいた空気は一瞬にして緊張を取り戻す。草薙さんもグローブを手にして練習に加わった。
そして、俺たち、新町リバースターズの午後練習が始まった。