第1章(5)
目が覚めると、俺は協会の中にいた。
ここが天国なのか地獄なのか、すぐには判別がつかなかったが、少なくとも人々が想像しているような地獄ではないことだけは確かだった。
上体を起こしてふと視線を上げてみると、いつか見た赤ん坊と母親のステンドグラスがすぐ目の前に広がっている。
「そっか。ここはミソラを追って入った協会か……」
ついさっきまでの出来事なら鮮明に覚えている。ミソラを追って協会に入り、階段を上って扉を開けるとそこはひどく高い場所で、俺はそこから飛び降りたのだ。
あれほどの高さから落下したのなら、当たり前の人間であれば即死するはずだ。そのはずなのに俺は、傷ひとつ付けることなくこうして五体満足で生きている。
「夢、だったのか?」
単なる夢だと片付けるのが一番懸命な判断なのだろうが、あの出来事は夢と呼ぶにはあまりにもリアリティがあり過ぎた。
俺はきっと、誰かに生かされたのだ。風を切りながら落下していた瞬間に聞こえた声を思い出して、そう確信する。
俺はあの声を知っている。あの声の主は……
「ありがとな。いちおう、お礼は言っておく」
いつまでもこの教会に用はない。最後にどこかで聞いているであろう彼女に向かって礼を言って、協会を後にした。
それほど時間は経っていなかったのか、外はまだ明るく暖かい。時刻を確認する手段がないのは辛いが、おそらくまだ昼過ぎだろう。家の代わりとして使っている段ボールハウスのある河川敷に向かって歩きだす。必要以上に体力を使ってしまったせいか、これ以上町を探索する元気はもう残されていなかった。
おぼろげな記憶を頼りに、来た道をたどって河川敷を目指す。足の疲れの影響か、行きに費やした時間よりもずいぶんと長い間歩くことになり、見慣れた河川敷にたどり着いたころには日が傾き始めていた。
もう夕方も近いというのに、日曜日と言うこともあってか河川敷はいくつもの声でにぎわっている。そんな平和な日曜日の光景の中に、段ボールで作られた寝床だけが景色に溶け込めず浮いていた。
そこに、どこかから突然野球ボールが降ってきて、段ボールでできた大事な骨組みの部分に直撃した。
「ああっ……!!」
ボールの直撃した部分は大きく凹んでしまっていて、スマートだったシルエットは台無しになっている。
「すいませーん!ぶつかりませんでしたかー?」
野球ボールを追いかけるようにして、運動着に身を包んだ少女が駆けてくる。
その少女の姿を俺は知っている。
「あんた、今朝の……!」
「あれ、あんたは今朝のホームレスの浮浪者じゃん。ボール当たらなかった?」
「当たらなかったよ。俺には、な」
視線にたっぷりと文句を込めながら、ぽっかりと凹んだ段ボールを指さした。
「身体に当たらなかったならよかったじゃん!ボール、もらっていくね!」
俺からの抗議の視線も意に介さず、少女は悪びれもせずに地面に落ちた野球ボールを拾い上げた。いっそのこと、このボールを奪ってやろうかとも思ったが、あまりにも大人気がないから止めておくことにした。
「おじさんは、今日一日ずっとここにいたわけ?」
ボールを拾ったらすぐに帰るのかと思えば、少女はそんなことを聞いてきた。
「この町の北の方にある協会まで行ってて、ちょうどいま帰ってきたところだ。あと、今朝から気になってたんだがおじさんって言うのやめろ。鏡で見たらまだそんな歳じゃなかったぞ」
「ふうん。ホームレスって言っても、やることが全くないわけじゃないんだ……あと、私からしてみたら、二十歳過ぎてる人はみんなおじさんだから」
会話の中にさらっと抗議の言葉を混ぜてみたが、あまりにもあっさり受け流された。どうやら最近の若い女子はずいぶんと図太い神経をしているみたいだ。
「ホームレスはホームレスでも、俺は訳ありのホームレスだからな。おまえこそ、補講はもういいのか?」
「補講なんて午前中の間だけだよ。今はパパのところの野球チームで、助っ人の仕事中」
助っ人と聞いて、昨日の野球の試合を思い出す。彼女の父親がどんな人物かは知らないが、一つの町にいくつも草野球チームがあるはずがない。
「もしかして、あんたが助っ人をやってる野球チームって……」
「それよりさ、さっき言ってた訳アリのホームレスってどういうこと?家がなくなっちゃっただけじゃないの?」
――家だけじゃなくて記憶まで失っていると素直に教えたら、この少女は俺の言っていることを信じてくれるだろうか。
この少女のことだ、どうせくだらない冗談だと笑い飛ばされて終わりだろう。
「お前には分からないだろうけどさ、いろいろあるんだよ。本当に、訳の分からないようなことがさ」
今まで能天気な顔だけを見せ続けてきた少女が、その時初めて悲しそうな顔を見せた。ひょっとして、俺に同情をしたのだろうか。
能天気少女が見せたその表情は、どうしてかあまり好きになれなかった。
「変なことを言って悪かったな。忘れてくれ」
とっさに言葉を撤回しても、少女の表情がほぐれることはない。気まずい空気が、少しの間漂い続けた。
「ねえ、一緒に野球してかない?思いっきり身体を動かしていれば、嫌なことなんてすぐに忘れちゃうよ!うちのチームも人数足りてないし」
気を遣っていってくれたのがすぐに分かった。
「ね!ほら!」
渋っていると、追い打ちをかけるように俺の手を引っ張って歩きだした。思いのほか腕を引っ張る力は強く少しよろけてしまう。その隙を狙って、少女はさらに力を込めて引っ張り始め、結局そのまま引きずられて行ってしまう。まるで昨日の再現のようだ。
「おい、俺は野球なんて……!!」
「大丈夫!パパたちみんな優しいし!ほら、もうすぐそこ!」
もはや抵抗することもできず、手を引かれるままに連れていかれた先は昨日と同じ野球のグラウンド。昨日と違う点は相手チームがおらず練習中であったことくらいで、グラウンドに立っているメンバーは変わらない。
――くそ、やっぱりそういうことだったのか……
「みんなー。ボールと一緒に暇そうな人拾ってきたよー!人数足りてないし、入れていいでしょ?」
少女が叫ぶと、グラウンドに立っているメンバーの顔が一斉にこちらへ向けられてそして、その顔はすぐに驚きに染まった。
「あんた、昨日の助っ人じゃねえか!また俺たちを手伝ってくれるのか!?」
キャプテンの風格を漂わせた大男が、真っ先に駆け付けてくる。その後ろでは草薙さんが、いつものように人の良さそうな笑みを浮かべて手を振っている。気が付けば俺の周りには人だかりができていて、あれよあれよと左手にはグローブがはめられていた。
「え、え。なにこれ……?」
今度は屈強な男たちによってグラウンドまで連れ去られて行く俺を、何の事情も知らない少女は唖然としながら見つめていた。あまりにも大きすぎる力の差に、俺はどうすることもできずに流れに身を任せた。そして、そのままどうすることもできずに練習に参加することを余儀なくされたのだった。
「それにしても、まさかあの浮浪者が噂の助っ人だとは思わなかったよ。パパも助っ人はホームレスだなんて教えてくれなかったし」
そんなことを言いながら、少女はベンチの上でスポーツドリンクを一気飲みしている。
すっかり陽が落ちたころ、ボールもよく見えなくなり、練習の終わりが告げられた。
「そりゃあ、俺も今初めて知ったからに決まってるだろう、バカ娘め。まさかあの優良助っ人がホームレスだなんて、誰が想像できるんだよ」
今少女が話している相手が話にも出ていた父親なのだろう。昨日もベンチで見かけたような記憶がある。
「ねえ、あんたは野球、楽しかった?」
唐突に少女は俺の方へ向き直って、そう問いかけた。
「楽しいかって言われたら微妙だけど、退屈しのぎにはなったかな。一人でいると余計なことばかり考えるから」
「そっか……」
メンバーのうちの数人は、トンボを使ってグラウンドをならしている。数分も経てば、まるで何事もなかったかのようにきれいなグラウンドに戻るだろう。
「あのさ、さっき聞いたんだけど、あんた記憶がないんだって?」
「ああ、そうだよ」
ここのメンバー全員にはもう昨日のうちに話したことだ。いまさら隠す必要もないし素直に答えた。
「そう、なんだ。だから、あんな場所で……」
これ以上かける言葉が見当たらないのか、少女はそれきり黙ったままうつむいてしまった。やはり、この少女には暗い顔は似合わない。
何か言葉をかけようとしたその瞬間、少女の後ろから声が聞こえた。
「だったら、おまえもうちで野球をしたらいいじゃねえか。それで全部解決だろ?」
突然声をかけてきたのは、この少女の父親だ。ずいぶんと若々しい見た目をしていて、いかにも鳶職でもしていそうなギラギラした雰囲気を纏っている。歳の離れた兄と言われても納得するくらいだ。
「全部解決って、そもそも別になんも悩んでないんですけど……」
「おっと、俺としたことが紹介が遅れたな。俺はこのチームの一番バッターでショートを守る、城崎敦也だ。まあ見ての通り、彩の父親だ」
――そうか。こいつ彩なんて名前だったのか。
「で、俺が何を言いたいかっていうとだな。おまえも記憶が戻るまでの間、うちで退屈しのぎをすればどうだ?うちもメンバーが足りてないから、新入りが来るのは大歓迎だ。これならwin-winだろう?」
「いや、俺は……」
「おい!それならうちも大歓迎だ!昨日じいさんが怪我したばっかりだし、それぞれ仕事もあるから全員が集まれるわけじゃないからな。あんたがチームに加わってくれれば百人力だ」
さらには大柄な体格のキャプテンまでやって来ては勧誘を始める。
それに呼応するように続々とメンバーが集まってきて、一緒にやろうと次々と口にする。
「僕も、きみがチームに入ってくれたらとても嬉しいよ。少し顔を出すだけでも、どうかな?」
さらには草薙さんまで加わって、一緒にやろうと勧誘を始める。草薙さんからの勧誘は嬉しいが、突然のことに困惑するばかりで素直に勧誘を受ける気にはなれなかった。
「あんたはさ、記憶もなくてこれからどう生きるの?」
彩と呼ばれた少女が、俺を見つめていた。
その瞳の中には、ただ一人俺しかいない。俺のことを心配しているのが痛いほど伝わってくる。
その問いに対する答えを出せないでいると、彩はさらに言葉を重ねる。
「自分の居場所がないなんて、きっと誰も耐えられない。あんたにだって居場所は必要だよ」
――そうだ。
記憶を失う前の俺は、いなくなったところで誰も探してくれないような空っぽな人生で……だから俺は新しい俺として生きていくことを決めたんだ。
あの教会で、一度は命を終わらせようとはしたけれど、それでもこの世界でもう少し生きてみることを選んだんだ。
人が生きていくには自分の居場所が必要で、居場所はと言うのはきっと河川敷に建てた段ボールハウスなんかじゃなくて……
もっと暖かくて、居心地のいい場所で……
「さあ、あんたも俺たちと一緒に野球をしようぜ」
大柄なキャプテンが、手を伸ばす。
それを俺は……
「俺で良ければ、よろしくお願いします」
周りのみんなの祝福を受けながら、がっしりとその手を握った。
――そうだ。ここを新しい俺の居場所にしよう。
「俺はこのチームのキャプテンの大坪信玄だ。ようこそ、新町リバースターズへ。歓迎するぜ、新人!!」
それを皮切りに、次々にメンバーがやって来て、一人一人と握手をして挨拶をかわす。一気に来るものだから、全員の名前は覚えられなかったが、みんな優しそうな人だというのは分かった。
「今日は6人だけですか?昨日はもう少しいましたけど」
昨日は彩もいなかったし、俺が来るまでは9人のメンバーがいたはずだ。学校の部活でもあるまいし、メンバー全員が集まることなんてめったにないのだろうけど。
「本当はもう少しいるんだけどね。でも、今日いるメンバーは7人だよ」
草薙さんはそう言って、ホームベースの後ろにあるネットの方を指さした。その指の先をたどってみると、同じユニフォームにそでを通した、ひときわ若そうな青年が立っている。
20代の中ごろだろうか。俺は自分の年齢なんて分からないが、見た目だけで言えば同じくらいの年齢だろう。
短く切りそろえられた髪と、シャープな顔。そして、ギラリとした瞳と締まった肉体が印象的だが、身長は低く小柄に見える。
「あの人は?」
「東野恭平。うちの一番の実力者にして、エースピッチャーさ」
東野と目が合うと、その眼光はさらに鋭さを増す。俺の入団を快く思っていないのは明らかだった。
「ごめんね。彼は結構警戒心が強いところがあるから。でも、慣れればすぐに打ち解けるよ」
「だと、いいんですけど……」
もう一度ちらりと目を向けると、東野が舌打ちをしたような気がした。
「おい、トモノブ!!とっとと居酒屋確保しろ!今夜は歓迎会だ!!」
グラウンドに大坪の声が響き渡る。それに呼応して他のメンバーからは次々に歓声が上がる。
「おい、あんた。酒は飲めるだろう?今夜はつぶれるまで飲むからな?」
おもむろに大坪さんは俺の肩に手を回し、ひそひそと小さな声で囁く。
「いや、記憶ないから酒が飲めるかなんて分からないですし、それにお金も持ってないので……」
「んな細かいこと気にすんな。二十歳過ぎてるやつはみんな飲むんだよ。あと、金のことは心配するな。歓迎会だって言ってんだろ?」
「は、はあ……」
遠くの方からは「大坪さん、予約とれましたー!!」と言う叫び声が聞こえてくる。もはや何の抵抗もできそうにない。
「ちょっとー、また飲み会?パパはすぐ飲み過ぎるからはめ外さないでよね?」
「おい彩、拗ねんなよ。こっそり飲ませてやるから」
「未成年に酒を勧めんな、ボケオヤジ!!」
にぎやかな声が、グラウンドに響き渡る。ここにいる人たちは、明日からはまた仕事が始まるのだろうが、そんなこともお構いなしに騒いでいる。
――本当に、愉快な人たちだ。
「ほら、記憶喪失くん。いこっ」
彩に手を引かれ、歩きだす。
見た目の年齢だけなら勝っているはずだが、これではどっちの方が年上だかわからない。
「ひゅーひゅー。ちょっと敦也のところの彩ちゃん、いい感じじゃない?」
「やめろ、大坪!あんな記憶もねえ、甲斐性もねえ男に俺の彩は絶対に渡すもんかよ!っていうか、どんな男でも渡さねえ!!」
「こりゃあ、彩ちゃんも苦労しそうだな……」
チームのメンバーみんなでまとまって宴会場である居酒屋に向かう。談笑をして、和気あいあいと騒ぎながら川沿いの道を歩き続ける。
――ここが、新しい俺にとっての居場所になれるだろうか。
――新しい人生の、舞台になれるだろうか。
「ほら新入り、着いたぞー!!俺らが飲むと言ったらたいていこの店だから、しっかり覚えとけよな」
「は、はあ……」
メンバーが嬉々として踊るように店の中に入っていくのを見て、なんだか嫌な予感がこみ上げてきた。
「さ、きみも一緒に飲もうか」
気が付けば、草薙さんがすぐ隣にいて俺の腕をがっしりと握っている。
「なにせ今日は君のための会だ。覚悟は、できてるよね……?」
草薙さんの優しかった笑顔が、怪しい笑顔に変わった瞬間だった。どうやら、今日は無事に帰れそうもない。そう悟って、腕を引かれるままに店の中へと連れ込まれて行った。
そして俺は、予想通りに地獄を見ることになる。