第1章(4)
一つの町にも、いろいろな顔がある。
川沿いを離れて少し歩けば閑静な住宅街が連なり、駅に向かって歩いていればすぐにコンビニや飲食店など様々なお店やビルが見えてくる。
駅前はそれなりに栄えていて多くの人でにぎわっているが、それ以外の場所は静かなところばかりで、ベットタウンとしての印象を強く受ける。
おそらく、ここはきっと豊かな町なのだろう。犬を連れて歩く裕福そうな女性、仲睦ましくウォーキングをしている老夫婦、初々しく手をつなぐ若い恋人たち。
太陽は徐々に高く昇っていき、平和な日曜の町を照らしている。
陽の光を受けて、なにもかもが輝いて見える。
まるで平和の象徴のような町の中でたった一人、自分の居場所も分からずに、当てもなく彷徨い続ける。
――なんて、情けないのだろう。
周りの人々の楽しげな声が聞こえてくるたびに肩身が狭くなって、耳をふさいで逃げ出したい衝動に駆られていく。
――頭が痛い。
ほとんど意識もないままに歩き続けて、気が付けば町のはずれの見たこともない場所にいた。
当然、どうやってここまで来たのかも覚えていない。あの河川敷までちゃんと戻れるか、少しだけ不安になってくる。
今の場所を確認するために一度立ち止まって、あたりを何度も見渡してみた。
すると、それを不審に思ったのか道路を挟んで向こうにいた女性が怪訝な顔をしながらゆっくりと近づいてくる。
彼女は俺の方へとゆっくりと歩いてくると、目の前でぴたりと歩を止めた。
「あなた、“迷子”?」
「いや、俺は……」
目の前の彼女はあまりにも美しく、くっきりとした顔立ちは浮世離れした印象を与えている。そして、服装はシスターの格好を思わせるような格好で、長い黒髪を風になびかせている。
「まさか、あの子以外にも“迷子“がいるなんて」
「あんた、さっきから何を言ってるんだよ。迷子迷子って、別に迷ってたわけじゃないし」
なにが面白いのか、女はくすりと笑って口を隠すように手を当てた。いったい何を思って接近して来たのか、まるで考えが読めずに少しだけ不気味に感じてしまう。
現実離れした美貌も相まって、底知れない恐怖を覚えた。
「私、向こうの教会で暮らしているミソラってものです。困ったことがあれば力になれると思うから、覚えておいて」
ミソラと名乗った女は、それだけ言うと軽く会釈をして、さっきまでいた道路の奥へと戻っていく。
「って、おい待てよ!」
引き留める声も聞かず女はまっすぐ歩いていく。道路の向こう側には、やけに外観の整った美しい協会が建っていて、そこが彼女の暮らしている協会なのだと察した。
やがてミソラは協会の中へと消えていく。
「なんなんだよ」
突然の事態に思考が追い付かず、しばらくの間その場で立ち尽くす。
記憶がないことも含めて、河原で目覚めてからと言うもの不思議なことが多く起きすぎている。
いきなり草野球の助っ人に任命されては代打で出場させられて、寝床がなく野宿をすることになって、挙句の果てに不思議な雰囲気を持つ女にからまれた。
記憶がない俺にとっては、これが当たり前のことなのか異常なことなのか判断はつかないが、こんなことが普通であって良いわけがない。
そんなことを考えていた時、ふと視線を感じた。
首を右に曲げて少し先の交差点を見てみると、曲がり角の家の隅から俺よりも少し幼い程度の女性が覗き込んでいるのが見えた。距離があったため、詳しい顔のつくりまでは分からなかったが、それでもなぜか目の印象だけははっきりと見えた。
――俺と、同じ眼をしている。
目が合うと彼女はすぐに顔をひっこめて隠れてしまい、それ以来姿を見せることはなかった。
「それより、さっきの女を追わないと……」
今の目が合った少女は後回しだ。協会の中へと去っていった、ミソラと名乗った女を追う方が先決だ。彼女はおそらく、何かを知っている。
目の前を走るトラックが通り過ぎていくのを待ってから、道路を横断して協会の方へと向かって走る。
道路を超えれば、協会は目と鼻の先。三角屋根の建物が大きくそびえ立っている。
扉の前に立ってみても、特に中から物音は聞こえてこない。若干の不安感を抱えながらも、ゆっくりと協会の扉を押しあけた。すると、ギギギとうめき声を上げながら、重い扉は少しずつ開いていく。
中を覗き込んでみると、簡素な空間が広がるばかりで何の気配もない。電気は点いているようだが人一人おらず、とても礼拝者を迎えるような雰囲気には見えない。
恐る恐る中に入って、奥へと向かう。思わず息をすることも忘れるくらい協会の中の空気は張りつめていて、その中を息を殺しながらゆっくりと歩いていく。
――ミソラはどこへ向かったんだろう。
昔ながらのステンドガラスが小さな丸窓の隣に張り付けられている。そのステンドガラスには母と赤ん坊の絵が描かれているが、それにどんな宗教的な意味が込められているのか、俺には分からない。
そのすぐ隣に、二階へと続くのぼり階段があった。勝手に登って良いものかとしばらくの間逡巡したが、覚悟を決めて階段の最初の一段目に足をかける。
一歩階段を登るたびにカツンカツンと靴が地面を鳴らし、静かな協会に靴の音だけが鳴り響く。
階段を上っていると、その違和感にすぐ気付いた。もうずいぶんと上っているはずなのに、階段のゴールはまだまだ遠い。
一息だけついて、再び上りはじめる。
目指す先はまだ遠い。一歩一歩、転げてしまわないように確実に階段を上っていく。
何分くらい歩いただろうか。ようやく階段の頂上までたどり着くと、目の前に扉が現れた。今度は迷うことなく、目の前の扉を開け放つ。
――扉を開けた瞬間、風が吹き抜けた。
扉を開けるとその先は屋外になっていて、大きなバルコニーのような不思議な空間が広がっていた。まるでどこかのビルに紛れ込んでしまったではと錯覚するほどの綺麗なバルコニーで、いくつかのベンチと美しい花が植えられたプランターが置かれている。
外に出て少し歩くと、すぐに柵があって行き止まりになる。柵に手をかけて下を覗いてみると、地面がはるか遠くに見えた。地上を歩く人影も、まるでジオラマのように小さく見える。
「俺、いつの間にこんなに上ったんだよ……」
高さの感覚が明らかにおかしい。
確かに、ずいぶんと長いこと階段を上っていたが、これほどの高さまで徒歩で上るには相当な時間がかかるはずだ。
明らかに、時間と距離が釣り合わない。
一度建物の中に戻ろうと振り返ると、今度はすぐ後ろにあるはずの扉がずいぶんと遠くに移動している。
「なんだよ、ここ。訳がわからねえ」
この教会のどこかにミソラはいるはずなのに、どこを探してもまるで姿が見つからない。
だんだんと、この教会が気味の悪いものに思えてきた。
この屋外の空間にまだ見過ごしているものがないか探すため、柵に沿ってくるりと一周歩き回る。周りの建物に遮られることもなく風が吹いて、緩やかに前髪を揺らす。
ものの2,3分も歩けば、このバルコニーのような屋上の外周を一回りすることが出来た。一通り眺めてみたものの別段変わったものもなく、誰かがここを利用していたような形跡も見当たらない。
当然、ミソラの姿もここにはない。
ただ一つ、変わっているところがあるとすれば……
「――高いな」
柵が途切れていて、なんの遮るものもない場所が一か所だけあった。誰がなんのためにその部分だけ柵を取り除いたのかは分からないが、柵がないと言うことは当然そこから地面に転落する危険性があるということだ。
その柵の隙間に立って、はるか遠くの地面を見降ろした。
――ここから飛び降りたら、苦しむ間もなく即死できるかな。
飛び降りる自分の姿を想像したら、両足が震えあがって思わず腰が引けてしまった。
だけど……
――誰からも必要とされていない。誰の記憶の中にもいないこんな俺なんて、今ここで死んでしまったって、誰一人悲しまないんじゃないのか?
何の記憶もない、空っぽな俺なんて、いつまでも生きているだけの理由がない。
すると、この空高くから望む地上の景色への恐怖感も、自然と少しずつ無くなっていくのが感じられた。
引けていた腰を戻して、足場がなくなるすぐ手前に直立する。
両手を大きく広げて、緩やかに吹き抜ける風を受ける。
少しずつ身体の重心を前にずらしていき、倒れてしまえばそれで終わりだ。
記憶を失う前の自分のことも、どうして記憶を失ってしまったのかも、今自分がここにいる意味も、結局すべて分からず仕舞いだった。
死んでしまえば、記憶はよみがえるのだろうか?
死んだ後のことを楽しみに、今、宙を舞う。
――本当に、短い人生だった。
たった二日間の、本当に、本当に短い人生。だが結局最後まで、これからの生きていく理由を見つけられなかったのだから、それでいい。
「――でも」
どこからか、声が聞こえた。
艶やかな、女性の声。
「本当にこの選択でいいの?」
落ちていく。
どこまでも、落ちていく。
「結論を出すにはまだ早いんじゃないの?まだ猶予はあるのだから、生きてしっかり悩まなきゃ……」
風を切って、俺の身体は落ちていく。
恐怖はない。
風に抱かれた安心感の中で、俺はゆっくりとまぶたを閉じた。