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GOOD MORNING  作者: 琴羽
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第1章(2)

公園では小学生くらいの男の子たちがサッカーボールを追いかけ回し、スーパーの中はたくさんの家族連れの客でにぎわっている。

どうやら今日は休日のようで、町の空気は穏やかに流れている。緩やかに流れる時間の中を、町の人々はみんな楽しそうに笑って過ごしている。その中を俺はただ一人、人の流れに逆らって当てもなく歩き続けた。

この町のどこかに、自分の記憶につながるものがあると信じて……

小学校に行ったが、門前払いをされた。

中学校に行って自分の顔を知っている人がいないか聞いてみたが、露骨に嫌な顔をされて、「誰もお前のことなんて知らない」と言われ追い返された。

駅前に行ってみても、きれいな一軒家の立ち並ぶ住宅街を通り抜けてみても、見慣れた景色は現れない。

歩いて回れば回るほど、この町が自分の居場所でないように感じて、疎外感だけが強くなる。

今ここに確かにいるはずなのに、目の前の景色やすぐ足元のアスファルトがとても遠くにあるようにさえ感じてしまう。

今ここにいるはずなのに。

本当の自分はもっと別の場所にいるような……

どこにもいられなくなった俺は、最後の手段として総合病院へと向かった。

そこに、記憶を失う前の自分の手掛かりがあると信じて。


病院で待ち構えていたのは、館内をびっしりと埋め尽くすほどのたくさんの利用者による混雑だった。世間では休日でも病院にとっては関係ないのか、待合室はマスクをつけた人や高齢者でごった返している。

何の考えもなしに病院までやってきたが、記憶喪失になった人間は何科へ行って診てもらうのが適切なのだろうか。もっとも適切なのは脳神経外科だろうが、どうしていいのか分からずに待合室の中央で右往左往してしまう。

そもそも保険証もなければ一文もない。そんな人間が病院にやって来てどうするというのだ。

診察は諦めて病院を後にしようとしたその瞬間、誰かが肩を叩いた。

振り返ると、どこかで見たことがあるような顔の男が優しく微笑んでいた。

「えと、あなたは……」

ついに記憶に引っかかる人物に出会えたのかと思ったが、どうやらこの顔を見たのはそんなに昔じゃない。

「きみ、さっきの助っ人君だよね?覚えてないかな。僕もあのチームで一緒にいた、草薙っていうものなんだけど……」

どうやらさっきのチームメイトの一人のようで、やはり過去の記憶にはつながりそうにもない。

声をかけてきたこの草薙という男は30くらいの年齢に見えるが、清潔感のあるさっぱりした顔つきをしていて、少しだけ若々しく見える。

「そうだったんですか。すいません、あの場にいた全員の顔までは覚えてなくて……」

「いいよいいよ。いきなり大人数で頼み込んじゃってきみも混乱してただろうし。さっきは本当にありがとうね」

「いえ、それはいいんですけど……」

休日の昼間に草野球をやっていたような人が、こんな病院にいったい何の用事があるのだろう。とても具合が悪いようには見えないし、怪我もなさそうだ。

そんなことを疑問に思っていると、逆に同じ質問が向こうから返ってきた。

「ところで、きみはどうして病院なんかにいるんだい?」

「えっと、病院に来れば記憶喪失について診てもらえるかと思って来てみたんですけど……でも、もう帰るところです」

「先生には診てもらったのかい?」

「いえ、お金もないし保険証もないし、それにこんな怪しい奴とまともに取り合ってくれるとも思えないので……」

そう言うと草薙さんは顎に手を当てて、なにか考えるそぶりを見せた。やがて、なにかを思いついたように顔を上げると、こう提案した。

「だったら、まず先に警察に言った方がいいんじゃないかい?ここらはそう遠くないけど、場所も分からないだろうから一緒についていくよ」

記憶の中に警察の場所はなく、この広い街で探し出すのは手間がかかるだろう。草薙さんからの思わぬ提案を飲んで、おとなしく案内してもらうことにした。

どうしてか、この人は信用に足る人物だと直感が告げている。

「ほら、行こうよ。ここからだったら、車で行けば10分もかからないから」

先を行く草薙さんに置いていかれないように、待合室の混雑した人々の間をすり抜けて行く。

決して草薙さんは体格のいい方ではないが、後ろをついて歩いているうちに、その背中がとても大きく見えてくる。

――なんだってこんなに、安心できるような大きな背中に見えるんだ?

「ほら、乗って」

白い車体の5人乗り自動車の助手席の扉を開けて、草薙さんは手招きをした。

車に乗り込んでみると、ほんのりとさわやかな香りが鼻をくすぐった。それほど高価な車には見えないが、車内には手入れがよく行き届いていて、座り心地は悪くない。

草薙さんも乗り込んでエンジンをかけると、すぐに車は出発した。記憶喪失のせいで車に乗るのは実質これで初めてだが、草薙さんのハンドルさばきには落ち着きと余裕があり、きっと運転はうまい部類に入るのだろうと容易に想像できる。

車に揺られているしばらくの間、会話もなくただ目的地である交番に着くのを待った。二つ目の交差点を右に曲がって大きなビルの横を通り過ぎた時、ふと忘れていた疑問を思い出した。

「そう言えば、なんで草薙さんは病院にいたんですか。見た感じ、どこも悪そうじゃないですけど」

あれだけ張り切って野球をやっていた人が怪我や病気をしているわけがない。

それでも病院に用事があるということは、きっと……

「妻がね、ちょっとだけ入院しててそのお見舞いに来てたんだ。別にそんなに重い症状じゃないんだけど、大事を取って少しだけね」

「そうだったんですか」

「うん、たぶん、明日か明後日には退院するはずだよ」

「早く、よくなるといいですね」

「うん、ありがとう」

これ以上の反応の仕方も分からずに、車内には再び沈黙が流れる。草薙さんは明るくて社交的だが、決して口数が多い方ではないと、これまでの短い時間でも十分に推測できた。

ただ、二人の間に流れるこの沈黙も居心地の悪いものではなく、不思議と苦にならない安心感があった。

「ほら、着いたよ」

草薙さんの声を聞いて、窓の外に視線を向けると、三角屋根の小さな交番が見えていた。交番の前では警察官が一人、退屈そうに町の様子を眺めている。

小さな事件の一つも起きない平和な町なのだろう、あくびをかみ殺しながら、のん気な顔をして立っている。その様子を見ただけで、警察に対する期待はどん底まで下がっていった。

バタンと音を立てて、二人同時に車のドアを閉めて交番まで歩きだすと、こちらの存在にようやく気が付いた様子の警官に草薙さんは声をかけた。

「すいません、少し伺いたいんですけど、これくらいの年齢の男性の捜索願なんかは届いていませんか?」

草薙さんのその言葉を聞いた瞬間、表に立っていた警官は怪訝そうに眉をひそめ、「ちょっと待っててね」と言った後、明らかに面倒くさそうな態度で交番の中へ消えていった。

数分後に交番から現れた警官の表情は気だるそうで、それだけで調べた結果が芳しくないことが理解できた。

そして、無造作に「あんたみたいな男の捜索願なんて、一件も見つからなかったよ」と告げられた。

どうやらこれ以上取り合ってくれる気はないようで、早く帰ってくれと目で訴えかけている。

「きみ、もう成人だろう?どういう事情かは知らないけど、捜索願がない以上は警察としてはどうしようもできないよ」

「そこをなんとか、お願いします!」

「そう言われてもねえ。君たち自身でどうにかしてもらわないと」

そんな言葉を吐き続け、警官は一向に態度を軟化させようとしない。草薙さんはそれでも食い下がり続けたが、かたくなな態度を続ける警官を相手に諦めるほかなかった。

俺は一緒に頼み込むこともせずに、ただその様子を眺めていた。

確かにこの警官の態度は気に食わないし、それが困っている人間を相手にしたときの態度かと、問い詰めてやりたい気もある。

けど、捜索願が届けられていなかった時点で、俺の賭けは終わっていた。

「草薙さん、もういいです」

「え?」

俺の方が最初に折れると思っていなかったのだろう。草薙さんは素っ頓狂な声を上げた。

「警察の方も、ご迷惑をかけてすみません。調べてくださって、ありがとうございました」

一礼をすると、警官はさっさと交番の中へ引っ込んでいった。おそらく、ようやく面倒な奴から解放されたと安堵しているのだろう。

「いいのかい?君のことを調べてもらえるかもしれなかったのに……彼らも、もう少しは働いた方がいいんだ」

出会ってからずっと穏やかだった草薙さんが、珍しく腹を立てている。出会ったばかりの俺にもこれだけ親身になってくれるのだから、ずいぶんなお人よしだ。

「いいんです。どうせあの様子じゃあ、記憶喪失だなんて言っても信じてくれなかったでしょうから」

「それでも悔しくないのかい?あんな風にあしらわれて。いくらなんでも、あの対応は冷たすぎる」

「いいんですよ、別に。あの人がまともに手伝ってくれるとも思えないし。それに……」

それに。

――賭けにも、負けたから。

あの不真面目な警察官に、俺に似ている男性の捜索願が出ていないか訪ねてもらった時、ある一つの賭けをした。

もし捜索願があれば、記憶を探す努力をしよう。

そして、もし捜索願が出ていないようなら、もう記憶を探すのは止めようと。

「だってそういうことでしょう?」

――捜索願がないということは。

「誰一人として、俺がいなくなったことにも気が付かなかったんだ」

それが、俺の真実だ。

誰からも求められていない。

誰からも必要とされていない。

誰からも愛されていない。

誰の目にも映っていない。

だったら、記憶を失う以前の俺に価値なんてない。

「いろいろと良くしてもらって、ありがとうございました」

「待ってよ!きみがいなくなったことにまだ気づいていないだけで、きっといなくなったら悲しむ人がたくさんいるはずだ!!きみは優しいから、きっと何人も大切な人がいるに決まってる!」

「でも、もう決めたので」

もう賭けの結果は出たのだ。いつまでもこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。

「これからきみはどうするんだい?泊まる家だってないんだろう!?」

「どうにかしますよ。それに、今は暖かいし野宿だってできます」

「そんな!いくらなんでも、野宿なんてさせるわけにはいかない……!!うちだって、しばらくの間なら貸してあげられるし、きっと妻も喜んで許可してくれるはずだよ」

草薙さんは必死に引き留めようとしてくれるが、それでも俺の意思は変わらない。

「すいません。一人にさせてください……」

そう言うと、草薙は少し寂しそうに眉を垂らし、小さくうなだれた。せっかくの好意を無下にすることに胸を痛めながらも、それでもその好意に甘えるわけにはいかなかった。

「本当に、一人で大丈夫なんだね?」

「……はい」

最後に確認すると、草薙さんは諦めたように笑って小さく首を振った。そして、カバンから財布を取り出し、その中から一枚の紙切れを抜き取った。

「足りなくなったらまた頼ってくれていいから。とりあえず、これだけでも受け取ってよ」

断る間もなく強引に俺のポケットの中へお札をねじ込んで、さらには一枚の名刺を差し出してきた。

その名刺には、草薙総司という名前と、連絡先が載っている。

「困ったことがあったら、ここに連絡してね。あのグラウンドに行けば、だれかチームメイトがいるとは思うけど」

「何から何まで、すみません……」

一人で生きていこうと決めた俺に対してどこまでも親切で、もはや頭が上がらない。

先ほどの警察官のようにいい加減で薄情な人間もいれば、こうして親身になって助けてくれる人間もいる。すべての記憶を失ってこの世界のことがまるで分からない俺には、この草薙さんこそが、この世界の優しさのすべてみたいに思えた。

「それじゃあ、失礼します。本当に、ありがとうございました……」

深々と一礼し別れの挨拶を済ませた後、回れ右をして歩きだす。

この町にいる限りまた草薙さんに会う機会もあるだろう。

ふと目線をあげみると、空は憎たらしいくらいに晴れている。おそらく、野宿をするには絶好の気候だろう。

――さあ、これからどうしようか。

帰る場所もなく、会いに行く人もいない俺は、当てもなく町をさまようだけだ。

記憶を取り戻したいわけでもないし、新しい自分を見つけたいわけでもない。

空っぽの身体と共に、ただ目的もなく歩く。

俺はなんのためにここに存在しているのか。

道の先に、その答えがあると信じて……


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