第4章(1-2)
そして、今日のことです。練習の休憩中、メンバーはみんなトイレに行ったりご飯を買いに行ったり、思い思いのことをしていました。私もトイレに行こうと思って歩いていると、明子さんが普段使っている髪飾りが床に落ちているのを見つけました。
体育館に明子さんがいなさそうなので、髪飾りを届けるために公民館の方まで探しに行くことにしました。基本的に練習中は荷物をすべて公民館の一室に預ける決まりになっていて、きっと明子さんはそこにいるだろうと思いました。
公民館に入ってみると、受付で眠そうにしている女の人が一人いるだけで、中は誰もいないかのように静まりかえっていました。ここにはいないかと思って引き返そうとしたとき、小さな物音が聞こえてきて、中まで探しに行くことにしました。
平日のお昼の公民館は本当に静かで、私の足取りも自然と静かになりました。なるべく音を立てないようにゆっくりと歩いていき、やがて荷物置き場に使っている部屋にたどり着きました。
その扉の前に立った時、どういうわけか心の中がざわついて、扉にかける手に力がこもりました。恐る恐るドアを開けてみると鍵はかかっていなくて、次の瞬間には部屋の中の光景が飛び込んできました。
窓の外から差し込む光と、逆光で影になっている一つの人影。次に聞こえてくる、「あっ」という女性の息をのむ声。次第に目が光に慣れてくると、こちらを見て呆然としている明子さんの姿が目に入ってきました。
そして、その手には水色の封筒と、その封筒の表面に大きく書かれている、“会費”の文字。
明子さんがこの部屋で何をしようとしていたのか、全部分かってしまいました。
今すぐここから逃げ出したいのに、明子さんの視線が突き刺さって足が動いてくれません。
「見た……よね?」
その声は、今まで聞いたこともないような張り詰めた真剣な声で、そのあまりの迫力に一瞬だけ心臓が跳ね上がりました。
「え、えと……」
頭の中は真っ白になって、出てくるのはそんな言葉にもならない声だけでした。
次にどんな言葉を絞り出せばいいのか、真っ白なままの頭で必死に考えていると、
「本当にごめんなさい!!!」
必死に頭を下げる明子さんの姿が目に入りました。
「明子さん……やめてください、頭を上げてください……」
すると明子さんはゆっくりと頭を上げて、現れた顔は緊張からか強張っていました。
「ごめん。最低な行為だってのは分かってたんだけどさ。どうしてもお金がなくて……」
ミソラに養ってもらっている私にとって、お金の大切さはよく分かりませんが、それがなくては生きていけないっていうことくらい分かります。
だから、ただ単純に明子さんの事を可哀想だと思いました。
明子さんのために、私にできることは何だろう。頭の中にあったのはただそれだけ。
「これだけのことをしておいて、身勝手だって言うのは分かってんだけどさ。私、このチームを辞めたくないんだよ。それに、今ここでこんな問題が発覚したら、間違いなくチームはバラバラになっちゃう……」
明子さんのために何ができるのか。こんな私を快く迎え入れてくれた大好きなチームのために何ができるのか、その答えは……
「あ、あの!私、ここで見たことは絶対に誰にも話しません!明子さんは、私をチームに迎えてくれたすごく大事な人だから……」
そう言うと、明子さんは驚いたような表情をした後、次第に安堵したように頬を緩めていきました。
「ありがとね……私、またここからやり直すよ」
その時の明子さんの安心したような顔が、私は嬉しかった。もう一度やり直せるきっかけを私が作ってあげることができたような気がして。
だから、明子さんはもう一度やり直せると、そう信じたのです。
「トイレ寄って行くから先に戻っててくれる?私もすぐ行くからさ」
「はい!体育館の方で待ってますね!」
その時の私は疑うなんて感情を知らなくて……
――信じることしか出来ない、ただの子供でした。
その日、毎日の練習後に行われるミーティング。いつものように円を作って立っていると、やけに部長さんの顔が険しいことに気づきました。その顔の訳が分からなくて不思議に思っていると、部長さんから語られた第一声を聞いて心臓が跳ね上がりそうになりました。
「今日、私のカバンの中を見てみたら、綺麗さっぱり会費の入った封筒がなくなってた。私だって疑いたくはないけどさ、誰か何か知っている人はいないか?」
ただひたすら、訳が分かりませんでした。明子さんは確かに改心をして、会費は元あった場所に戻したはずです。
けど、私はその瞬間を見ていない……
――そんなことはない。
――だって明子さんはこのチームを辞めたくないと言った。
きっと何かの手違いだと、明子さんの方を見てみると、なんてことのないような涼しい顔をしていました。もしちゃんと会費を元に戻したのなら、もう少し慌てた顔をしているはずです。
なのに、どうして自分は無関係だと言うような顔をして平然としていられるのでしょう。
「おい、新入り。なに慌てたような顔をしているんだ?」
「え、私ですか!?それは……」
部長さんから声をかけられた瞬間、メンバー全員の視線が一斉に私の方を向きました。どうやらその視線に込められている感情は、間違いなく猜疑心。気が付けば、疑いの目で私の全身は射抜かれていました。
けど、今ここで本当のことを話すと言うことは、明子さんを売って自分を助けると言うこと。恩人を売って自分は助かろうなんて、そんなことは絶対にできませんでした。
「なにも、何も知りません!私はただ……!」
どんな言葉で疑いを晴らせばいいのか、どれだけ頭を回転させてもその答えは出てきません。何か言わなくちゃと思っていても、頭はから回るばかりでした。
その時、明子さんは唐突に前にできて、ある提案をしました。
「部長、だったらこの子のカバンの中を調べてみたらどうですか?会費が盗まれたのが今日なんだったら、もしかしたらまだ中に入ってるかもしれないし」
それは、私の疑いを晴らすための提案だと、愚直にも私は信じました。
「そうだな。とりあえず調べてみるのは悪くないか。悪いけど、ちょっと中を見させてもらうぞ」
そう言うと部長さんは私のカバンを受け取って、無造作に中身を物色し始めました。
――入っているはずがない。
明子さんのとっさのフォローに感謝しながら、検査の様子を見守りました。これで疑いがすべて晴れるわけではないのは分かっていましたが、少しでもみんなから信用してもらえればいいと、そう思っていました。
助け舟を出してくれてありがとうございます、と。明子さんにそう視線で伝えようとしたとき。
――明子さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだのが見えました。
ぞわり、と。嫌な予感がこみ上げた瞬間、部長さんの手が高々と掲げられ……
その腕の先には見覚えのある封筒がしっかりと握られていました。
“会費”その一文字。
それが終わりの瞬間。疑いの目は憎悪の目に変わっていき、聞こえてくるのは罵声に怒声、非難の声。
360度の敵意に包まれて、どれほど必死に耳をふさいでも、刃物のような声はそれを突き破って耳の奥まで突き刺さる。
あれだけ優しかったはずのみなさんの顔が、醜く歪んでいくのが見えました。
生まれて初めて向けられた圧倒的な敵意と憎悪の感情に押しつぶされて、もしも心と言うものが目に見えるものだったら、きっと私の心は原形をとどめないほどに傷つき壊れているでしょう。
私は走りました。
チームメイトのみなさんは追従を逃れるために、ただひたすら無心で走り続けました。
靴も履き替えないままに、ひたすら、ひたすら地面を蹴って、気が付けばこんな場所までたどり着いてました。
大切な恩人だったはずの人に裏切られて、今の私の中にある感情は何でしょう。
――後悔?
――怨恨?
――悲哀?
そんな単純な感情じゃない!
あるのはただ……
♢
「あるのはただ、失望だけ。私は別に明子さんのことを恨んでもないし、チームのみんなを薄情だとも思ってません。だって、きっと仕方のないことだから……」
少女の口から語られたのは、あまりにも救いのない、ひどすぎる話だった。人を信じられなくなるには、十分すぎるほどの出来事だ。
この目の前の少女と俺は似た者同士だ。だから、痛いほど分かる。俺たちには、こんなショックを耐えられるわけがない。
「なんで……なんで反論しなかったんだよ。逃げて来たら自分が犯人だって認めてるも同じじゃないか!そうなったら、もう居場所なんてないじゃないか……」
「だって、そんなこと言えるわけないじゃないですか!明子さんは私をチームに入れてくれた恩人なんだから。私がこうして罪を被れば、チームのみんなは誰も傷つかないで済むんです!これが、一番幸せなんです!」
その叫びを聞いた瞬間、あらゆる言葉が頭の中から吹き飛んだ。
――なにが俺には痛いほど分かる、だよ。俺はこいつの気持ちを少しも分かっていなかった。こいつは俺なんかよりも、ずっと真っすぐで純粋だ。
「でも、本当にこれでいいのか?あんたは――」
これで満足なのかよ。そう続けようとしたとき、少女の心からの叫びが俺の言葉を塗りつぶした。
「いいわけ、ないじゃないですか!!でも、これで満足するしかないです。みんなも幸せで、私もみんなの役に立つことができて幸せで!これで、満足するしかないんですよね……?」
あまりにも寂しすぎるその言葉を飾ったのは、溢れる少女の涙だった。
生気のない真っ黒な瞳、大きくゆがんだ眉に震える唇、そして頬をつたう一筋のしずく。
伝えようとした、そのすべての言葉が吹き飛んだ。
「これが、こんな不条理がこの世界なんですか?」
――ダメだ。行くな。
「だったら、意味なんてないじゃないですか」
――やめろ。まだ絶望するには早い!
「だったら、こんな世界、生きる価値なんてないです」
くるりと、少女は背中を向けて歩き出す。どこか、きっと遠い場所へ消えていくのだろう。伸ばそうとした手は動かずに、叫ぼうとした声は響かずに……
俺はただ、少女の背中を見送ることしかできなかった。
最後に一度だけ少女は振り向いて、何かをつぶやいた。あまりにも小さな声で、はっきりとは聞こえなかったけれど、
「あなたに出会えたことだけは、私の人生の喜びでした」
そう聞こえた気がした。
そして、そうであってくれればいいなと願う。




