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GOOD MORNING  作者: 琴羽
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第3章(1)

それ以来久我はすっかりチームに溶け込んで、初めて出会ったころからは想像もできないような笑顔を振りまいている。学校に通って勉強もしつつの生活で、練習に顔を出せる回数は少ないが、それでもその少ない練習時間はいつも全力で取り組んでいる。

始めのころはバットもボールに当たらず、キャッチボールすらぎこちなかったが、その若さのおかげかみるみる上達していき、チームに加入してから一か月が経つ頃にはなんとかみんなの練習についているようになっていた。

そうして少しずつ自分に自信をつけて行ったのか、今では弟のことも認められるようになり、少しずつ両親とも元の関係を取り戻しつつあるらしい。

「オッケーイ!!」

日曜のグラウンドは、日ごろの鬱憤を晴らすかのようなチームメイトたちの活気であふれている。久我や彩は勉強のストレスを解消するために、大坪さんたち社会人は仕事のストレスを吹き飛ばそうと躍動する。

すっかりぎっくり腰から立ち直った最年長の山根さんは、新しく入った最年少の久我にライバル心を燃やし、張り合うかのように負けじと練習に打ち込んでいる。

――また腰をやらなきゃいいけど……

グラウンドから少し離れたベンチ、そこには千草さんと茜ちゃんの姿がある。茜ちゃんはよちよち歩きながらボールをいじって遊び、千草さんはベンチに座って穏やかな目をして練習を眺めながら、その大きく膨らんだお腹をなでている。

千草さんのお腹の子供が今何ヶ月なのか、何ヶ月になれば子供は生まれてくるものなのか知らないが、きっとお腹の子供が産声を上げる日はそう遠くない。

そんな風に当たり前の毎日が過ぎて言っているはずなのに、なぜだか俺は得も言えぬ違和感を覚えていた。

――何かが動き出すような、そんな予感がした。


平日の夕方、グラウンドに伸びるのは二つの影。普段であればこの時間は一人でいることが多いのだが、たまたま学校が早く終わった彩がグラウンドに顔を出していた。

学校帰りで制服のままだった彩にできることといえばキャッチボールくらいで、陽が沈むまでひたすら二人でボールを投げ合い続けるのだった。

「ねえ、あんたっていつまであの段ボールの中に住み続ける気?そろそろ熱くなってきたし、熱中症になるんじゃない?」

「そうは言っても金もないしな。それに、誰かの家にお世話になるのは嫌だし」

「そんなこと言って、金銭面ではお世話になってんじゃん……ニートのくせにそういうところだけは無駄にプライド高いんだから」

ボールを投げながらも彩は痛いところを確実についてくる。住民票がないから仕方がないとは言え、働いていないと言う事実には何の反論もできない。

「悪かったな、プライド高くて……はあ、さすがにこのままじゃいけないよなあ」

それが分かっているからと言って、今が変えられるかと言ったら話が別だ。結局俺にできることは、少しでも野球の腕を磨くために努力することだけだ。

「別にいいんじゃない?あんたはそのままで。私はいいと思うよ」

彩は受け取ったボールを投げ返そうとはせずに、グローブの中に収めたままこちらへ向かって歩いてきた。

「おしまい!続きはまた週末にしよっ」

彩はグローブを近くの倉庫にしまうと、ベンチの上に置いておいたカバンに腕を通した。肩にカバンをかけた後小さく跳ねると、「あっ」と声を上げた。

「ノート切らしてるの忘れてた。ねえ、ちょっと駅の方まで付き合ってよ」

「ったく、それくらい一人で行けよ。まあ、俺もちょうど晩飯買わなきゃだからいいけどさ」

「やった!」

しぶしぶと提案を受け入れると、彩はずいぶんと喜んで軽い足取りで駅へ歩き始めた。川沿いの道を、スキップをするように軽やかに進んでいく。

「あーあ、この前もノート買ったばっかりなのに。どうせすぐなくなるんだから、買いだめしとけばよかった」

「ノートってそんなにすぐなくなるもんなのか?そんなにたくさん使わなさそうだけど」

「英単語の暗記とか、一応これでもいろいろ勉強してるからね」

見た目や話し方だけを取って見てみれば彩はとても真面目なタイプには思えないが、実際は真面目で努力家なことは理解している。野球の練習だけでなく学校の勉強にも真摯に打ち込んでいるのだろう。

「頑張ってるんだな」

「ちょっと、いきなり褒めないでよ。私は本当にバカだからさ……バカはバカなりに頑張らなきゃいけないわけよ」

そう言って自嘲するように笑う彩だったが、俺はこの笑顔に既視感を抱いた。この悲しげな笑顔を俺は知っていた。だが、いつこの笑顔を見たのかどうしても思い出すことができず、胸に突っかかりができてしまう。

それに気持ち悪さを感じつつも川沿いを並んで歩いていると、そんな突っかかりを忘れさせるほどの衝撃的な光景が目の前に飛び込んできた。

「うわーん!助けてー!!」

次に聞こえてきたのは子供の叫び声。ふざけた冗談交じりの声ではなく、心の底から助けを求めているような切迫した声だった。

川の浅瀬で遊んでいるうちに足を踏み外してしまったのだろうか。川の中で両手をばしゃばしゃとかき回して溺れている二人の少年が目に入った。

「まずい。助けないと……!!」

周りに誰か助けを求められるような人物がいないかと辺りを見回すと、その瞬間何かが身体のすぐ横を矢のような勢いで駆け抜けていった。

「っ、待てよ!おまえも溺れたらどうするんだ!」

「大丈夫!運動神経には自信あるから!」

彩はカバンを放り投げて、二人の少年のもとへとまっすぐに駆けていく。その足取りに迷いはなく、自分が溺れるかもしれないというリスクを微塵も考えていないみたいだ。

「ったく、バカ野郎!!」

確かに彩の運動神経がいいことは分かっていたが、さすがに一人で行かせられるわけもない。誰か人を探すのは諦めて彩の後を追って走った。

――あいつ、どうするつもりだ?いくらなんでも、考えなしに川に飛び込んだりは……

次の瞬間には、そのまさかの光景が繰り広げられた。

川へと続く石段を駆け下りて、そしてそのまま何の躊躇もなく……

川の中へ飛び込んだ。

「彩!!」

俺の心配をよそに、彩は制服を着たままにも関わらず、溺れている二人の少年のもとへすいすいと泳いでいく。

そして事もなげに二人を抱えたまま岸まで移動して、二人の身体を陸に上げた。そうして両手が空くと、自分ものんびりと岸に上がろうとしていた。

俺が川辺にたどり着くまでのほんの一瞬の間にそれは終わり、あまりの呆気なさに拍子抜けしてしまった。

「ね、なんとかなったでしょ?」

彩は全身から水を垂らしながら岸へ上がり、得意げにピースサインを作って見せた。制服はずぶ濡れになってよれよれで、決して完全に無事とは言えないが、それでも結果として二人の少年は溺れることなく助かった。

ほっと胸をなでおろし、彩のもとへと足を踏み出した瞬間、彩の身体が揺れた。

「――あ」

苔むしている地面に足を滑らせたのか、彩の身体は後ろへ傾いていく。後ろにあるのは浅瀬になっている川と水面から不規則に突き出ているいくつもの石。

このまま後ろに倒れてしまった時の未来が容易に想像できてしまって、俺はとっさに右腕を伸ばす。

あまりのことで頭が真っ白になって、意識が飛んだみたいに時間が過ぎた。

気づけば、両腕の中に彩の身体が収まっていて、2,3秒ほど経ってようやく伸ばした手が間に合ったのだと理解した。

そして、さらにそこから2,3秒ほど……彩の身体が腕の中にあると言う事実が持つ意味を今更になって理解した。

「わ、悪い!」

慌てて離れようとすると、またバランスを崩して倒れそうになって、結局また腕の中に引き寄せる。

「い、いや。別にいいけどさ……」

お互い気まずそうに視線を逸らすと、元気になった少年二人が辞儀をした後走り去っていくのが見えた。

――くそ。この光景を子供に見られたのか。

一度小さく息を吸って、ゆっくりと身体を離していくと不思議と緊張は治まって、代わりに怒りの感情が湧き上がってきた。

「前々から思ってたけどさ。おまえは、いつも優しすぎなんだよ。ただ人に優しくするくらいなら分かるけど、どうして自分を危険にさらしてまで人を助けようって思えるんだ」

確かに彩の運動神経なら泳いで子供を二人助け出すくらい、そう難しいことではないのかもしれない。だが、流れのある川に服のまま飛び込むなんて、なにか想定外があってもおかしくない。現に、俺の伸ばした手が間に合わなければ、間違いなく彩の身体は浅瀬の石に打ち付けられていたはずだ。

そして、それだけの危険性があると言うことを、彩だってきっと理解しているはずなのに。

「ごめん……でも、今の状況は私が助けに行かなきゃいけなかったから」

「それは俺だって分かってる!けど、なにも彩が一人でやる必要なんてないじゃないか。俺だっていたし、探せばほかに手伝ってくれる人だっていたはずだろ!?」

それだけ言うと、彩はうつむいて黙ってしまう。確かに、結果だけ見れば彩は二人の少年を無事に救いだした訳で、褒められた行為をしたはずだ。だがそれでも、この異常なまでの自己犠牲を許せずにはいられなかった。

「――だから…………」

その時、彩が何か小さな声でつぶやいた。

「え?」

「…………バカだから。私はバカだから、こんなことしかできないから……」

相変わらずうつむいたまま、感情を押し殺したような静かな声が絞り出された。その声は、言葉と呼ぶにはあまりにも空っぽで、およそ人間の声とは思えないほどに無機質だった。

これ以上なにも言い返せずにいると、結局目を合わせることもなく彩はゆっくりと立ち去っていく。石段を登り、投げ捨てておいたカバンを拾うとそのまま駅の方へと歩いていく。

いつも以上に小さく見えるその背中を追いかけるだけの勇気は俺にはなかった。

――知りたい。

出会ってから数か月が経って、何度も一緒に練習をした仲にも関わらず、俺はあまりにも彩のことを知らなすぎる。

城崎さんと軽口を叩きあいながら騒いでいる彩の姿は、きっと本当の彩からは程遠いのだろう。そんなことは、ずっと前から気づいていた。

分かっていたのに、ずっと俺は目をそらし続けていた。

「くそ、こんなんじゃダメだな」

二回ほどつま先で地面を叩いて気合を入れて、駅を目指して走り始める。彩がいったいどこへ向かっているのかは分からないが、駅の周辺を歩きまわっていればいつかは見つかるだろう。

ふと空を見上げると、嫌な雲が広がり始めていて、今にもひと雨降ってきそうな怪しい空模様に変わっていた。

――まいったな。傘なんて持ってきてないし、早めに見つけてさっさと家に帰らないと。

すぐに追いかけなかったことを後悔しながらも、追いかける足に力を込めた。


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