第1章(1)
1
――目が覚める。
ゆっくりと瞼を開けて上体を起こすと、ひどく頭が痛んだ。
外の光がまぶしくて、光をさえぎるように手をかざし、思わず目を細める。
太陽は高くまで登って、たくさんの光を地面まで注いでいる。それを少し鬱陶しく思いつつも、ゆっくりと重い腰を上げて立ち上がる。
「っと」
なんてことのない平坦な地面から立ち上がるだけのはずなのに、少しよろめいて手をついてしまう。もう一度気合を入れて立ち上がると、今度はちゃんとうまく立ち上がることが出来た。
ふと目線を上げて辺りを見回すと、大きな川が静かに流れている様子と、その近くで楽しげに騒いでいる集団が目に入ってくる。
聞こえてくるのは川辺で騒ぐ集団の声と、すぐ後ろをジョギングしている男の息遣いだけで、落ち着いた空気が漂っている。
「そう言えば、今日何曜日だっけ……」
あまりにも穏やかに過ぎていくこの場所の空気に、まるで日曜日のような雰囲気を感じ取る。
――いや、曜日なんてどうだっていい。
「ていうか、ここはどこだ?」
穏やかな川の流れる静かな町。川に沿うようにして続いている草の斜面と、その上に続いているまっすぐなジョギングロード。川の向こう側に見える住宅街と広大な畑の敷地。
そのどれもに、なんの見覚えもない。
いつ自分がここに来たのか、なぜこんな見知らぬ場所にいるのか、なにも分からずに、ただひたすら困惑し、ジョギングロードの真ん中に立ち尽くす。
すぐ真後ろを、再びジョギングランナーがテンポのいい息遣いと共に走り抜けていった。
こんな見知らぬ場所で、いったいなにをしていたというのか。
どういう経緯でこの河原の草の上で寝転がっていたのか、それ以前の記憶というものが一切無くなっている。
――いや、そもそも。
「俺はいったい誰なんだ?」
ここに来るまでの記憶なんて、生易しいものじゃない。この場所のこと、自分のこと、この世界のこと、何一つ記憶に残っていなかった。
♢
「いよっしゃああああああああ!!!!まわれまわれー!!」
カキーンと、金属の気持ちのいい音が河川敷に響き、それに続いて何人もの男たちの怒号と歓声が響き渡る。
「おっしゃあ!いいぞー、トモノブーー!!!」
3塁手の頭の上を超える、タイムリーツーベースを放ち、トモノブと呼ばれた30代ほどの男は、ベース上で大きなガッツポーズを作って見せた。
「このまま逆転するぞ!今日の試合だけは、絶対に負けるわけにはいかねえ……」
スコアボードに示された数字は、6対7。両者の間にある点差はたったの1点だけだ。しかし、スコアボードに記されたイニングは9回の裏。さらには赤いランプが2つ点灯していて、次のバッターがアウトになってしまえば、その時点で試合終了だということを示している。
「さあ、この回で一気に逆転して、サヨナラだ!!次は誰だ?」
ベンチの真ん中で堂々と座っている男がこのチームのキャプテンなのか、一番大きな声を出して、周りを鼓舞している。
「さあ、山根さん。頼みます!一振りで決めちゃってください!――って、あれ?山根さん?」
本来であれば次のバッターがいるべきはずの場所に、誰の姿もない。これから大事な打席だと言うのに、いったいどこに行ったのかと、キャプテンのような男は辺りを見回した。
すると、ベンチの端の方になにやら大きな塊がうごめいているのが目に入った。
その正体は……
「山根さあああああああああん!!!」
すっかり薄くなった髪の毛を野球帽で隠している老人が、ベンチのすぐ脇で小さくなって、腰に手を当てて震えている。
「ふぉ、ふぉおおぉ……」
「どうしたんですか、そんな辛そうな顔をして……」
「ぎ、ぎっくり腰……」
最後の力を使い果たしたのか、山根はそれだけ言い残すとぱたりと地面に倒れ、痛みで意識を飛ばしてしまった。
「ぎっくり腰って、なんでそんな急に!!??」
他のチームのメンバーも一斉に駆け寄って、ベンチの横に小さな人だかりが出来る。その中心の山根はピクリとも動かない。
「なにか重いものでも持ったのか?」
「いや、たぶんベンチから立ち上がった時に腰を痛めただけじゃないですかね。もう山根さんも歳だし」
「まあ、山根さんはチーム最年長の70歳だからなあ……」
「でも、試合はどうする!うちのチームはメンバーギリギリ9人しかいないんだから!」
男のその言葉で、ベンチに集まったメンバーは全員黙り込んでしまう。一人でも欠けてしまえば、野球は成りたたない。
「そ、そうだ!城崎くんの娘さんを呼べないかな!?あの子なら、家も近いしすぐに!」
「悪い!うちの彩なら今日は学校で補講中だ。バカだから、あいつバカだから……!」
「くそ、じゃあどうすればいいんだ!打順を飛ばすわけにはいかないし、このまま棄権するなんて絶対に嫌だ!」
チームの中でも一番若い男は、焦る気持ちをそのままに吐き出した。
「くそっ、今日の試合だけは絶対に負けるわけにはいかねえのに!」
ベンチの真ん中でどっかりと座っていたキャプテンのような大男も、眉間に大きなしわを寄せて唸っている。
「どうすれば、どうすればいいんだ!!」
キャプテンの男がまるで神に祈るように、天に向かって大声で叫んだ瞬間、グラウンドから少し離れたジョギングロードで何もせず突っ立っている青年の姿が目に入った。
♢
俗に言う記憶喪失というやつなのだろうか。言語や基本的な知識は頭に詰まっているものの、自分個人に関係している記憶は一切見つからない。
何かを思い出そうとしても、ただ頭が痛むばかりで何の情報も見つからない。
これからどうしたものかと、一人道の上でたたずんでいると、なにやら下のグランドで盛り上がっていた男の集団のうちの一人がこちらに向かって走ってきている。
「な、なんだあいつ。こっちに来てるのか?」
男のあまりの迫力に思わずたじろいで、半歩だけ後ずさってしまう。できることなら今すぐ走って逃げ去りたいが、上手く身体が言うことを聞いてくれない。
やがて、大柄の中年男性が目の前まで迫って、乱れた呼吸もそのままに大きく腰を曲げて頭を下げた。
「……へ?」
「た、頼む!俺たちのチームを救ってくれ!!」
深々と頭を下げたまま、男は必死に懇願する。その真剣さに当てられて、事情も聴かずに無下に断る気にはなれなかった。
「いったいどうしたんですか。いきなり頼むって言われても……」
男はようやく頭を上げて、事情を説明し始める。
「それが、メンバーが一人倒れちまってよ。うちのチームは人数ギリギリだから代わりがいなくて困っててな……ええい、いちいち説明するのも面倒くせえ!とにかく来てくれ!」
男は突然、俺の腕をつかんで走り出そうとする。何とか足を踏ん張って抵抗してみるが、身体に力が入らないのと、男の腕力があまりにも強いのとで、ずるずるとグラウンドに向かって身体が引きずられて行く。
「ま、待ってくれ!俺、野球とかできないし!」
「大丈夫だ、思いっきり振れば意外に当たる……かも!」
「いやいや、そんな突然飛び入りなんて!」
「大丈夫だ!うちのチームはこの町の人間で、やる気のあるやつならだれでも参加オーケーだから!」
「いや、俺この町の人間じゃ……」
「大丈夫だ!チーム名にはこの町の名前を入れているけど、ぶっちゃけ他の町に住んでるメンバーもいるしな!」
何を言っても言葉を返されて、まったくもってらちが明かない。そうしているうちにも、徐々に引きずられて、グラウンドまで近づいていっている。
――なんで、なんで自分の記憶すらないのに、こんな見ず知らずの人たちのために野球をしなきゃいけないんだ!!
気が付けば、草の斜面を通り越してグラウンドが目の前に迫っている。
突然現れた助っ人に相手チームのメンバーは好奇の目を向けて、こちらのメンバーからは期待に満ちた目で見つめられている。
記憶をなくす前の自分が野球をやっていたかは分からないが、少なくとも今の自分に野球をやる自信などはない。
「で、今はどんな状況なんですか」
「ああ。9回裏ツーアウト、ランナー23塁、1点のビハインドだ」
諦めて状況を確認すると、とんでもない答えが返ってきた。
「帰らせてもらいます」
この草野球チームは、こんな重要な局面を通りすがりの男に託そうとしているのだ。どう考えても馬鹿げている。
本当なら野球なんてせずに今すぐにでも病院に駆け込まなければいけないはずなのに、どうして俺の手にはバットが握らされようとしているのだろうか。
「1打席!1打席だけでいいから!!」
どれだけ帰ろうとしても屈強な男の引き留める力には勝てずに、結局バットを握らされバッターボックスまで引きずられて行く。
「どんな結果になっても、文句は受け付けませんからね」
しぶしぶ覚悟を決めてバッターボックスへ向かうと、男たちはまだ打ってもいないのに歓喜し始める。
「おお!助かるぜ!!」
――まあ、引き受けたからには本気でやるさ。
手元でボールを遊ばせている相手ピッチャーを睨みつけ、バットを構える。相変わらず身体は重いが、できるだけのことをやるだけだ。
「なんだか、ずいぶんともめていたようだけど、災難だったね助っ人君。まあ、同情して手を抜いたりなんかしてあげないんだけどさ」
相手のピッチャーはにやにやといやらしい笑みを浮かべながら、ボールを後ろ手に隠して握りを確かめている。
この試合に込められている意味を俺は知らないし、相手チームの実力も知らないが、ただ単純に、このピッチャーの態度は気に食わない。
もう一度気合を入れ直し、グリップを握る力を強める。
「――来いよ」
静かに流れる川の音と、近くをはばたく鳥の鳴き声がやけにうるさく聞こえる。
河川敷の中心で、金属バット両手で構えて、相手ピッチャーとひたすらにらみ合いを続けている。
味方である男たちはベンチから固唾をのんで戦況を見守り、相手側の選手は残りワンアウトということもあってか、表情を引き締めて守りについている。
これが終わったら早く病院に行って検査をしてもらおう。そんなことを考えながら、投球モーションに入ったピッチャーの動きを眺めている。
そこからは無心だった。
両の脇を引き締めて、迫りくるボールを目でとらえながら、ただ全力でバットを振りぬいた。
当たったかどうかは分からない。
聞こえるのは味方ベンチからの歓声と、気持ちのいい金属音。
訳も分からずに、ただ1塁に向かって走り出す。
1塁ベースを回ったところで、味方がベンチから駆け寄ってきているのが目に入った。
今度は後ずさることはせずに、今だけのチームメイトが駆け寄ってくるのを待つ。
そして、やってきたチームメイトから手荒な祝福を受けて、そこでようやく自分がサヨナラ打を打ったのだと実感した。
しばらくの間、頭や尻をボコボコに叩かれて、やっとの思いでベンチまで戻るとチームメイト“だった”男たちが、みんな真剣な顔をして俺のことを見つめていた。
「ありがとな、助っ人君。お前には本当に助けられた。代表して礼を言うぜ」
中でも一番大柄な男が感謝を告げた後、手を差し出してきた。わずかにためらいつつも、それを握って、お互いに見つめ合う。
「ところでよ。お前、名前はなんていうんだ?俺たちを勝利に導いてくれた男の名前くらい知っておきたいからよ」
「名前、か……」
質問されて初めて自分の名前すら覚えていなかったことに気づき、うろたえてしまう。それを不思議に思ったのか、目の前の大男は怪訝な態度でこの後の言葉を待っている。
「いきなり言っても信じてもらえないかもしれないですけど……俺、実は記憶喪失になってたみたいで、この河原に来るまでの記憶がないんです。だから、自分の名前さえ分からなくて」
自分でも冗談みたいなことを言っているというのは分かっているが、事実なのだからしょうがない。下手にごまかすことはせずに、ありのままのことを素直に伝えることにした。
ただ、やはり素直に信じてもらえるわけもなく、男たちの表情はみるみる困惑に染まっていく。
「おい、お前。記憶喪失っていったら、あれか。記憶がなくなるアレだろ?それってとんでもないんじゃないのか……?」
「まあ、確かにとんでもないことではあるけど……」
記憶喪失になることの重大性が分かっているのかいないのか、大男は少しズレた質問をしてきた。
この場にいる誰一人この状況について来られずに、きょとんとした顔で状況を見守っている。勝利の余韻は吹き飛んで、どこか異様な空気が流れ始めた。
立つ鳥は後を濁す必要もない。余計なことになる前にこのグラウンドを後にすることにした。
「そういうわけなので、俺はそろそろ行かないと」
たった一度きりの打席を終えて、無事に試合も終了したのだから、助っ人としての役割は確かに果たしたはずだ。いつまでもこのグラウンドに残っている必要はない。
「あんた、行くってどこに行くんだよ。記憶もねえなら、家だって分かんねえんじゃねえのか!?」
「この辺りを歩いてたら、なにか記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれないので」
引き留める声を無視して、河川敷から離れるように土手を上っていく。幸いなことに、無理矢理引き留めようとするお節介はいなかった。
せっかく試合に勝てたのだから、この後は祝勝会でも開いて仲間内だけで楽しく盛り上がればいい。助っ人の仕事は試合中だけで、そのあとのことに責任なんかない。
土手をのぼりきると視界が開けて、この町の景色が目に飛び込んでくる。大きなデパートに小学校、住宅街に大きく飛び出した高級そうなマンション。そのどれもに、見覚えはない。
――さあ、まずはどこから探していこう?
土手の上で一度立ち止まってこの町を一望し、すぐにまっすぐ目の前を目指して歩き始めた。
無くした記憶を取り戻す。
そのために俺は、町の中に消えていく。