第1章(14-2)
佐々木の打った打球は大きな放物線を描いて飛んでいき、グラウンドの奥の草むらへと消えていった。
文句のつけようがない、ホームランだ。
「くはははははは!!面白いくらいに飛んでいったなあ!!遅すぎず早すぎず、打ち頃の絶好球だったぜえ!!」
高笑いする佐々木と、マウンドでうずくまる東野。二人の姿がやけに対照的だった。
「だっせえの。これが人生のすべてを野球にかけた男の球かよ。中学野球だったら全国レベルかもしれねえけど、高校野球だったらこんなの控えレベルだぞ。そして、てめえが夢に見てるプロの世界だったら、練習相手にすらならないゴミくそレベルだ」
佐々木は、未だに動けないでいる東野のもとへゆっくりと歩いていく。俺はただ、その背中を呆然と見つめることしかできないでいる。
――もうやめてくれ。これ以上言葉を続けたら、東野が壊れてしまう!!
それでも佐々木は、言葉の矛先を東野に突きつけ続ける。
「てめえはうちの部の中でも一番頑張って練習してたのになあ。俺らがカラオケやボーリングに誘っても見向きもしないし、3年間彼女の一人も作らずにひたすら努力してたって言うのになあ」
「――めろ」
「疎まれても、バカにされても、それでも文字通りに人生のすべてを野球に捧げて、それで得たものはなんだ?」
「――やめろ」
「3年間もブランクのあるような相手に無様に負けて、みじめに地面を這いつくばって。それがてめえの21年間の努力の結果かよ!ホント、だっせえなあ!」
「やめろおおおお!!!」
もう我慢の限界だ!両足にありったけの力を込めて走り出す。今までの努力がすべて否定されて、平気でいられるわけがない。
東野のもとへ全力で駆け寄り、そして今度は俺が佐々木の胸ぐらをつかもうと右腕を伸ばす。――が、佐々木は俺の右腕をあっけなく払いのけ、逆に俺の方が胸ぐらを掴まれた。
「てめえの出番はもう終わったんだよ。失せろ」
そのまま力任せに投げ飛ばされ、固い地面に身体が叩きつけられる。受け身に失敗したせいか、肺のあたりに大きな衝撃が加わった。
「かはっ!はあ、はあ」
佐々木はさらに東野のもとへ近づいていき、腰をかがめて顔を覗き込む。
「なあ。昨日の約束、ちゃんと覚えてるよな?賭けは俺の勝ちってことでいいよなあ?」
うずくまったままの東野の背中が、ピクリと震えた。
「まさか忘れたなんて言わせねえぞ!約束したよな?俺と勝負して、負けたらもう野球は止めるって!!」
――なんだよ、それ!
東野が、野球をやめる?そんなの悪い冗談だし、想像することすら出来やしない。そんなことを、こいつは本気で言っているのだろうか。
「い、いやだ……」
ようやく、東野の口から言葉が漏れた。だが、その声はあまりにも弱弱しく、少しの物音にもかき消されてしまいそうだ。
「嫌だ、なんて言える立場じゃねえんだよ、てめえは。負け犬は負け犬らしく黙って勝者の言うことを聞いておきやがれ!それに、本当は野球なんてやめて、早く楽になりたいんだろう?」
「違う、俺はまだやめたくない……」
「あ?才能もねえくせに調子に乗ってんじゃねえよ!見ていて本当にイライラする。おとなしく諦めちまえよ!」
両膝を地面につけたままの東野と、それを見下すような姿勢の佐々木の二人が激しくにらみ合う。お互いに譲ることなく、ただまっすぐに視線を交わせる。
そして、しびれを切らした佐々木は突然、東野の左手からグローブを奪い取る。
「こんなのがあるから、未練が捨てられねえんだ。俺がてめえの代わりにその未練を断ち切ってやるよお!!」
佐々木は右腕にグローブを持って大きく振りかぶる。東野は必死に止めようとするが、胸を一突きされて地面に転がった。痛む体に鞭を打って、俺もとっさに立ち上がろうとしたが、今から止めに行ったのでは間に合わないと直感する。
――その瞬間、身体のすぐ真横を何か大きな影が、目を見張るような速さで駆け抜けていく。
今まさに東野のグローブが佐々木の手を離れ、川の方角へ向かって飛んでいこうとするその瞬間、怒号が響いた。
「ああああああああああああ!!!!!!!」
黒い影は掛け声と共に佐々木の頬を殴り飛ばし、グローブは投げ捨てられることなく佐々木の手を離れた。
「うちの東野をよくもコケにしてくれたなァ!!俺は学生が相手だろうと容赦しねえぞ!!!」
仁王立ちをしながら、地面に倒れ伏せる佐々木のことを見下しているのは、仕事着のままの大坪さんだった。東野は慌てて地面に落ちたグローブを拾い上げ、大事そうに胸に抱える。
「大坪さん、どうして……まだ仕事の時間はずじゃ」
「彩のやつが、真っ青な顔してうちに駆け込んできたんだよ。なんかグラウンドの様子がヤバいって、息を切らしてな。ったく、仕事を抜け出したなんて嫁にばれたらぶち殺されるぞ」
「痛ってえな、このクソオヤジ!!てめえ、突然現れてなんなんだよ!」
大坪さんの渾身の一撃を受けたにもかかわらず、佐々木はゆらりと立ち上がる。大きな痣のできたその顔は、怒りで歪んでいる。
「ここ最近、東野の様子がおかしかったんだが……あんたが原因だな?」
「うっせえな。てめえには関係ないだろが。ちょうどいいところだったんだから、邪魔すんじゃねえぞ!」
「ちっ、これだから最近のガキは。目上の人間に対する口の利き方も知らねえのかよ」
額に青筋を浮かび上がらせた大坪さんは、威圧するように一歩一歩佐々木との距離を詰めていく。
だが、お互いに引くことはなく、真正面に胸と胸を突き合わせてらみ合う。大男が二人対峙する姿は、ひたすらに圧巻だった。
二人から放たれる殺気にも似た怒りが伝わって来て、ピリピリと肌を刺激する。
そして、二人はほぼ同時にお互いの右腕を振り上げて、相手の顔面を殴りつけた。
「ごはっ!痛ってえな……二度も殴りやがってよお」
「うるせえぞクソガキ。あんたが何をしようとしたのかは知らねえが、うちの東野を傷つけた罪はこんなんじゃ許されねえぞ!こいつはなあ、夢をかなえるために自分のすべてをかけて努力してきたんだよ……それを、おまえみたいなつまらねえ人間が足を引っ張ってんじゃねえよ!!!」
一歩足を引き、大坪さんは再び佐々木のことを殴りつける。鈍い音が鳴り響き、佐々木の身体は少しだけ揺れる――が、だがそれでも戦意を失った様子はなく、より一層怒りに燃えた瞳を光らせた。
「人生のすべてをかけてきただって?はっ、バカかよ!こいつにはそれしかなかっただけじゃねえか!野球しかない空っぽの人生に気づきたくなくて、だらだらとありもしない可能性にしがみついてただけだろう?」
そして咆哮が一声、佐々木はお返しだと言わんばかりに、大坪さんの頭に自分の頭を少しの手加減もなしに打ち付けた。今度は大坪さんの身体がバランスを崩しふらついた。だが、とっさに右足で踏ん張って、倒れることはない。
「可能性がゼロだなんてことは、絶対にありえない!それに、たとえプロになるのが厳しくたって、無駄な努力なんて何一つねえんだ!」
「ばっかじゃねえの?才能の欠片もねえ奴が努力したって、全部時間の無駄にしかならねえんだよ!!だから俺は、東野の奴が後戻りのできない場所に行く前に、無駄な努力なんてやめさせてあげようって、そう言う優しさで言ってるんだよ!」
――優しさだって!?あれだけ好き勝手に人のことを貶めておいて、どうしてこいつはそんなことが言えるんだ?
理解ができない。こいつの考えていることが。どうしてこんな男が平気な顔をしてこの世界を闊歩しているのだろうか。
「なにが優しさだ!おまえは、ただ東野のことを傷つけてるだけじゃないか!」
俺はついに耐えかねて怒りをぶつけると、佐々木はさらに不機嫌そうに顔をゆがめる。
「俺がこいつのことを傷つけただって?はんっ!負け犬の分際で、みすぼらしく、みっともなく、夢がどうとかほざいてるから現実を見せてあげてるだけじゃねえかよ!!それで勝手に傷ついたとか言われても、逆恨みにもほどがあるだろうがよお!!」
大坪さんが再び、腕を振り上げる。今度は、先ほどまでよりもずっと大きく振りかぶった。
大坪さんの全体重が乗った、懇親の一撃が繰り出されようとしている。いくら体格のいい佐々木といえども、この一撃をまともにくらえば無事では済まないだろう。
「てめええええええ!!!」
これから起ころうとしている凄惨な光景を想像して思わず目を閉じた。すぐにでも骨をえぐるような、鈍い音が聞こえてくるはずだ。
だが、代わりに聞こえてきたのは、東野の叫び声だった。
「もうやめてくれ!!もう、いいんです……!!こいつの言ってることは、全部正しい」
恐る恐る目を開くと、大坪さんの伸ばした右腕は佐々木の顔面の寸前のところでぴたりと止まっていた。東野の口から出てきた言葉に、大坪さんは目を見開いて、信じられないと言った風な反応を示した。
「おい、東野。そんなこと本気で言ってのかよ!こんな奴のいうこと、真に受けるな!おまえは誰よりも一生懸命努力し続けてきたじゃねえか!」
「誰よりも努力して来たって?だから余計にみじめなんじゃないですか!誰よりも頑張ってきたはずなのに、こんなふざけた男に負かされて……こんなのってないじゃないですか!」
「東野!おまえはみじめなんかじゃない!自分を見失うな!」
大坪さんは諭すように懸命に語りかけるが、それでも東野の心にはまるで届かない。
たぶんこれは、一時の気の迷いなんかじゃない。ずっと頭の奥底に抱えていた悩みや迷いや不安を、すべて一気に突きつけられてしまったのだ。きっと本当は自分でもずっと前から分かっていたのだろう。
「だったら教えてくださいよ。生まれた時から野球一筋で、勉強も遊びもなにもかも投げ捨てて努力をしてきたのに、こんな何の努力もしてない男に負けて……そんな人生のいったいどこに意味があるって言うんですか!?」
大坪さんはついにかける言葉を見失い、もどかしそうに唇をかむ。
「俺は野球に呪われてんだ。今ここでやめれば今までの人生すべてが無意味になるし、逆に続けていけばこれからの人生に意味がなくなっちまう。どこまでも、俺の人生に付きまとってくる……俺、生まれてきた意味なんてあるのかよ」
空っぽになった心の中から、無理矢理に絞り出されたかのような東野の言葉は、少しだけ震えていた。
「もう、なにもかも分からねえんだ…………だから、これからどうやって生きていくのか、その答えが出るまで、野球とは距離を取る。当然、プロを目指すのももう諦める。なあ、佐々木。それでいいだろう?」
しばらくの間、野球からは身を引くと、それが東野の出した結論だった。
「ちっ。本当だったら、もう二度とボールは握らないぐらいのことは言ってほしかったけど、まあいいだろう。どうせてめえには、やめる以外に選択肢なんてねえんだから」
佐々木は少しだけ不服そうな顔をしながらも納得したのか、バットをケースの中にしまってこの場を立ち去ろうとする。
「おい、クソガキ。俺はこんな結末で納得なんてしてないからな」
大坪さんはそう言って、去っていく佐々木の背中を睨みつけたが、そのままその背中は遠ざかっていき、二人が再びぶつかることはなかった。
俺はその光景を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。
「大坪さん、わざわざ俺のために怒ってくれてありがとうございました」
「そんなことくらいで感謝すんなよ。俺なんかじゃなくて、店まで全力で走って来てくれた彩にでも感謝してやれ。あいつが教えてくれたから、俺は駆け付けられたんだ。それと、この新入りにもな」
東野はバツが悪そうに頭を掻いた後、俺の方へ向き直し頭を下げた。
「悪かったな、面倒なことに巻き込んじまって。けど、おまえがいてくれて本当に助かった。それと……」
そこで、一呼吸間を置いて
「今まで練習に付き合ってくれて、ありがとな」
もう一度、小さく頭を下げた。
たったこれだけの短い間、ただ練習に付き合っていただけの関係にすぎないのに、どうしてか胸の中がざわついて落ち着かない。
たった半月ほどの短い付き合いの中で、想像以上に感情を寄せ過ぎたみたいだ。
「なあ、東野。本当にやめちゃうのか?賭けだか何だか知らないけど、あんな奴のいうこと聞く必要ないだろう?」
俺はどうしても東野の出した結論が納得できない。どうしてあんな男が偉そうな顔をして、こんなにも努力をした東野が悔しい思いをしなければならないのか。たとえそれが世の条理だと言われても、記憶をなくした俺には、それがどうしても理解できなかった。
けど、仕方ないことだと割り切ったように東野は寂しく笑う。
「いいんだよ、これで。いつかはこうしなきゃなんなかったんだ」
努力すれば報われるとか、小学校の道徳の教科書に載っているようなことは、この世界ではおとぎ話なのかもしれない。
――だったら、東野の今までの人生って本当に無意味じゃないか。
目の前の景色が急に灰色に塗りつぶされて、緩やかに流れる川の水さえも全部が醜いものに思えてきた。
「おい、東野。最後に一つだけ確認させてくれよ」
そう口にしたのは大坪さんだ。
「なんですか?」
「おまえがずっと野球を続けてこられたのは、野球が好きだからか?それとも、自分にはそれしかないと思ってたからか?」
確信をつくような質問。東野は視線を外し、少し考えるようなそぶりを見せた。
「今となっては、よく分かんないです。最初は父さんに勧められて始めて、そのあとは俺も楽しんで練習して……でもいつからか、俺は野球をやらなきゃいけないんだっていう強迫観念はあったかもしれないです。それでも、大坪さんたちと一緒に野球をしたのは、すごく楽しかった。それは間違いないです」
最後の一言だけは間違いなく東野の本心で、さっきまでの寂しい笑顔とは違う、確かな笑顔で飾られていた。
「そっか……ちょっと不安だったんだ。もし俺があの時おまえをうちのチームに誘わなければ、お前はもっと早く野球の呪縛から解放されてたんじゃないかって。だから、そう言ってもらえるなら、俺も報われたよ」
そう言って大坪さんも、あどけなさを残した普段通りの笑顔で返す。
「ちゃんと悩めよ。これからどう生きていくのか、自分にとって何が一番大事なのか。それでもやっぱり野球がしたくなったら、またうちに来い。俺たち新町リバースターズは、やる気のあるメンバーならいつだって大歓迎だからな」
「ありがとう、ございます……」
東野は、大坪さんに向かって深々と頭を下げる。そして、すぐに頭を上げようとはせずに、そのままの姿勢で固まっている。
――今、東野は何を考えてるんだろう?
やがて顔を上げると、地面に散らばったボールを片付け始めた。マウンドの上に転がるボールは、どれも泥で汚れている。
きっと新しいものに買い替える余裕もなくて、ずっと大切に使ってきたのだろう。拾い上げたボールを感慨深げに見つめては、泥を落とすように両手で優しくなでている。
ボールやグローブ、バットをカバンの中にしまっていき、やがてすべてを片付け終えると、東野はマウンドの上に立って目を閉じた。
そして、大きく息を吸っては吐き出す。
マウンドの上に立つ東野の姿は儚げで、不可侵を思わせるほど神聖な存在に見えた。
やがて、東野はゆっくりと目を開き、最後にもう一度大坪さんと見つめ合った。
「じゃあ、俺はもう行きます。野球のない人生なんて今はまだ想像つかないし、これからどうやって生きていったらいいのかも分からないですけど、とりあえずうじうじ悩んでみます」
「ああ。おまえがそう決めたのなら、俺は止めないさ。ただ、また野球がしたくなったら戻って来いよ。俺たちはずっとここで待ってるからな」
その言葉を聞いて、東野はもう一度深く頭を下げる。そして、顔を上げるとそのまま、俺たちの方に背を向けて歩き始めた。
そして、2,3歩歩いたところで立ち止まり、
「おまえも、早く自分の生き方を見つけろよ。空っぽの人生なんて、生まれてこないことと変わりないんだから」
それだけの言葉を残して、再び歩き始める。
ゆっくりと歩いていくその背中は次第に遠くなっていき、やがて土手の道を超えたところで見えなくなった。グラウンドに取り残された俺と大坪さんは、その背中が消えていった先を、ただ黙って見つめていた。
――どうして東野が野球から離れなければいけないのか。
俺にはどうしてもその理由が分からなくて、釈然とせずにいた。ふと、隣に立つ大坪さんの顔を覗き込んでみると、俺よりもずっと辛い立場のはずなのに、意外にも何てこともなさそうに涼しい顔をしている。
大坪さんには、俺の見えない何かが見えているのだろうか。
「これで、よかったんですか?」
俺にはまだ見えない、その答えを求めて尋ねてみた。
「いいんだよ。これが、あいつの選択なら」
その時、グラウンドの奥から地面をけるような乾いた音が響いてくる。
音の方へ顔を向けてみると、土手を下って駆け下りてくる彩の姿が目に入った。息を荒くして、ずいぶんと疲れ切った表情を浮かべている。おそらく、大坪さんのもとまで走っていった後も、休まずにここまで戻ってきたのだろう。
「はあ、はあ……あの、東野さんは!?私、なんか雰囲気ヤバそうだったから大坪さんを呼んできたんだけど、大丈夫だったの?」
東野の姿がないことを不審に思ったのか、彩は息を切らしながらも切羽詰まったような表情で問いかけてくる。
「東野なら、もう帰ったよ。彩が大坪さんを呼んできてくれたおかげで、何事もなく無事にすんだんだ」
あれだけの出来事があったはずなのに、何事もなかったの一言で片付けるのは間違っていると、自分でもそう思う。だが、口にしてしまえば今の出来事をすべて認めてしまうことになるような気がして、どうしても言葉にできなかった。
「ほん、とう……?何にも無かったって空気には見えないんだけど」
「何にもねえよ。ただ、あいつが勝手に悩んで、落ち込んだ。それだけの話だ」
彩はそう語る大坪さんの方に顔を向けると、その顔にいくつもの痣ができていることに気づき、小さな悲鳴を上げた。
「ああ、これはこの前嫁に殴られてできたやつで……あんまり気にすんな」
「う、うん……」
大坪さんのへたくそな言い訳に、彩はあいまいにうなずいた。だが、そんな言葉で納得すわけもなく、不安そうにさらに言葉を重ねた。
「ねえ、東野さんはまた練習に来るよね?」
そんな彩の不安に俺は答えることができずに、代わりに大坪さんが
「さあな、それはあいつの出す答え次第だ」
と、つぶやくのだった。
その言葉に納得をしたのかは分からないが、彩はこれ以上言葉を重ねることをしなかった。
「さあ、早く帰るぞ。だんだん風が冷えてきやがった」
大坪さんは先陣を切るようにペタペタと足音を鳴らしながらグラウンドを後にし始めた。よく見ると、ずいぶんと慌てて駆けつけてきたのか、履いているのは靴ではなくサンダルのままだった。俺たち二人もいつまでもグラウンドに残っているわけにもいかず、目の前を歩くその大きな背中についていく。
俺は河川敷にあるいつもの寝床にたどり着くと、そこで大坪さんと彩の二人を見送った。胸の中にはいまだに釈然としない、わだかまりだけが残っている。
「また明日、グラウンドで待ってますね」
最後にそう一言だけ別れを告げて、自分の家である段ボールハウスへ入っていった。
すぐに二人は去っていき狭い空間の中で一人になると、どうしてもいろいろな考えが頭に浮かんで離れない。
どうして東野は自分にとってすべてだったはずの野球を諦めなければならなかったのか。そんなことが平気で起こるこの世界で、俺は何のために生きているのだろうか。
たった一つの夢も叶わないこの世界に、生きていく価値なんてあるのだろうか。
どれほど考えても、記憶を持っていない俺にはその答えを導き出すことはできなかった。
そんなことを考えていたせいか、身体は重く疲れていたはずなのに、一向に眠気は訪れず、思考ばかりが冴えわたっていった。




