第1章(13)
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――物心がつく前から野球だけをやっていた。
父親が大の野球ファンで、俺をプロ野球選手に育てようと、幼いころから熱心な教育を続けていた。
俺自身野球をするのが大好きで、繰り返される練習を苦にも思わなかった。勉強することもあまり好きではなく、学校の友達と遊ぶよりも父親と野球の練習をしている方が楽しかった。
そんな自分に何の疑問も抱くことなく、俺はさらに深く野球にのめりこんでいく。
毎日夜遅くまで練習を続け、休日も返上して身体を鍛えぬいた。
だが、中学校に上がり、これまで以上に練習が過酷になった時、ようやく自分自身に才能がないことに気づき始めた。
いつまで経っても身長は伸びず、身体を作るために必要な食事量も俺にとっては苦痛だった。
けど、才能があるとかないとかそんなことは関係ない。俺はただ野球が好きで、自分の人生には野球さえあればいいと、本気でそう思っていた。
それに、たとえ才能はなくても人より努力すればきっと夢は叶うと、その時はまだ本気で信じていられた。
低い学力でどうにか野球部が強い高校に進学し、今まで以上に厳しい環境で練習をした。中学の時よりも部員は数倍にも増え、試合に出場することはおろか、ベンチ入りすることすら出来なくなった。
体格や才能の差は徐々に顕著になっていき、いつしか俺は部活のお荷物のような扱いを受けていた。
泣くほど悔しくて、努力が実力に直結しないことが呆れるほどに理不尽で、一時は部活をやめようかと本気で悩みもした。
けど辞めない。
辞められない。
野球が、大好きだから。
子供の頃に誓った、プロ野球選手になるという夢。ただそれだけを目指して高校の3年間厳しい練習に耐え抜き、大学に進学した後も野球部に入った。
――が、大学に二年の夏、俺は突然部を辞めされられることになる。
きっかけは上級生からの嫌がらせ。そんなことは慣れっこだったはずなのに、どうしてかその日だけは我慢ができずに、上級生を相手に反論してしまった。
相手の上級生は部のレギュラーで、俺は補欠の補欠。本当だったら退部になるほどの出来事ではなかったはずなのに、その上級生のメンツのためだけに俺は部をやめるように監督から言い渡されていた。
――こんなのが、俺の野球人生の終わり?
部を追い出された俺に、残されていたものなんてなにもない。
友達がいたわけでもなく、勉強についていく学力もない。
もはやその大学に自分の居場所なんてない。その事実に気づいてしまった俺は、大学に退学届けを出していた。
そして、家に戻ってこれからの人生について考えた時、自分の人生があまりにもからっぽだと気付かされた。
どんな場所でもいい、とにかく野球がしたい……
失意のままに町を練り歩いていた時、俺は大坪さんと出会った。
『なんだよ、いい歳した若者が昼間っからふらつきやがって。来いよ。この世の終わりみたいな顔してないで、俺らと野球しようぜ』
あまりにも強引過ぎる誘い。それでも俺にとってその誘いは、何よりも欲しかった言葉だった。
大坪さんの誘ってくれたこのチームは、今まで俺がいた場所とはあまりにもレベルが違ったが、それでもそんなことはどうでもよかった。
野球ができる。
ただそれだけの当たり前のことが、こんなに幸せなのだと初めて気が付いた。
――こんな俺に居場所をくれた大坪さんのためにも、少しでも上手くなろう。
“野球をやることだけが、俺のすべてなのだ……”
そう、思った。
大坪さんにスカウトしてもらってからは、どんな理由があろうと毎日ハードな練習を続け、アルバイトも必要最低限の日数にとどめた。大坪さんのために、そして子供の頃から抱いていたプロ選手になると言う夢を叶えるために……
――あの日、数年ぶりに高校時代のチームメイトに会うまでは。
あいつらは、今の俺を構成しているすべてのことを、あまりにもあっけなく否定していった。
少しだけ伸ばした髪を茶色の染めていた安倉は、俺のすべてを見透かしたような目をして、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべていた。
もう一人の佐々木はベンチ入りメンバーだったが、安倉は5番サードでレギュラーを獲得して、大会でも活躍していた。
そんなやつが簡単に野球を諦めて、まっとうな大学生活を送り、さらには就職先まで決まっているような口ぶりだった。
だと言うのに、俺は……
川に架かる橋の上から、小さな木の枝が下流へと向かって流されて行くのを、何があるでもなく見つめていた。橋の上を走る車たちが、何度も俺の背中を通り過ぎていき、もう何台が通り過ぎたのかも分からない。
自分以外の人間がせわしなく動き回る。そんな世界の中心で、俺はただ一人何もせずに景色が変わっていくのを眺めるだけだった。
今まであれだけ頑張ってきた自分が嘘みたいに、まるで練習をする気力がわいてこない。いまいち気分が乗らない朝に、あのころの俺はどんな風に気合を入れていたのか、そんな記憶も思い出せない。
代わりにニヤニヤと笑う安倉の顔が、頭の中に浮かんでは俺の心掻きむしる。そして、頭の中の安倉は人を小ばかにしたような顔をして、一言ささやいた。
『おまえはもう野球から逃げ出せない』
――聞きたくない!!
耳をふさいでみても、それでも安倉の声は手のひらをすり抜けて頭の中で反響する。どこまで逃げても、安倉の声が消えることはない。
「俺って、なんで野球やってるんだっけ」
一人つぶやく声は、すぐ後ろを走る車の音でかき消される。
それでも、俺の中に芽生えた疑問は、そんな簡単に消えてはくれない。ドロドロとした黒い塊となって頭の中を汚していく。
野球をやるのは楽しかった。
野球が上手くなれば、お父さんが褒めてくれた。
野球以外にやることがなかった。
野球をしてお金を稼ぐのだと、夢を持っていた。
野球の才能なんて、欠片も持っていなかった。
野球ができなくなって、本気で悔しさを覚えた。
野球をやることが、大坪さんへの恩返しだと考えた。
野球をやっていれば、難しいことなんて全部考えないでいられた。
――だから、野球だけが俺のすべてだった。
橋を渡って、川沿いの道を当てもなく歩き続ける。背中に背負ったカバンの中に、普段は必ず入っているグローブとボールは入っていない。
午前中いっぱいはバイトにいそしんで、午後はひたすら意味もなく歩き続けている。何もすることがない暇な時間ばかりがあふれていて、どれだけ生活の中で野球が占める割合が多かったのかを痛感する。
「何をすればいいのか、全然わかんねえや……」
意味もなく歩き続けるのにもだんだんと飽きて始め、来た道を引き返す。川沿いのランニングロードを、景色を眺めながらゆっくりと歩く。足早に歩くサラリーマン風の男が、隣をすれ違っていく。きっと、仕事終わりで家に急いでいるのだろう。
そしてまた一人、帰宅途中だと思われる男が前方から歩いてくる。その男の顔を見た瞬間、冷たい何かが背筋をなでた気がした。
「っ、佐々木……!」
高校時代の部活の同期で、安倉と一緒に俺のことを目の敵にしていた男が、今度は一人で目の前を歩いていた。
「ちっ、てめえかよ。なんだって大学帰りの疲れてる時に見たくもねえ顔を見なきゃいけねえんだよ。くそ、気分悪い」
ただ道で顔を合わせただけなのに、なぜこれほど罵られなければいけないのか、怒りが沸々とわいてくる。だが、佐々木は不快感を顕わにしながらも、じっと睨みつけてくるばかりで立ち去ろうとしない。
「今日は一人なんだな」
「別にいつも安倉と帰ってるわけじゃねえよ。てめえこそ、練習もせずにこんな場所でふらついてていいのか?下手くそのくせにサボってると、救いようのない下手くそになるぜ」
相変わらずの遠慮のない嫌味に怒りを覚える。どうしてこいつはここまで俺にむき出しの敵意を向けてくるのだろうか。
しばらくの間、お互いに何の言葉もなく道の真ん中で睨みあう。
ふと足元を見ると、餌を運んだ蟻が懸命に巣を目指して歩いているのが目に入った。何度も餌をこぼしては、それでも必死に巣を目指す。
「なあ、なんでおまえはそんなに俺のことを目の敵にするんだよ。なにかおまえに迷惑をかけた記憶はないんだけど?」
「なんで俺がてめえを嫌うかだって?決まってんだろ、てめえがバカだからだよ。バカって言うのは見ているだけで不快だからなあ」
「はあ……?」
威圧するように、精いっぱいのドスが利いた声を絞り出す。だが本心では、佐々木に言われた“バカだ”という言葉が、妙に納得できていた。
「大学にも行かないで、下手くそのジジイしかいないチームで野球やってるやつが馬鹿じゃなければなんなんだよ!頭イカれてるとしか思えねえよ!」
佐々木は叫んで、一歩距離を詰める。大柄な身体が目の前にそびえ立ち、思わず萎縮しそうになる。
「はっ、バカはバカ同士仲良く慣れ合ってるのがお似合いだよ。いい歳こいて野球なんてやってるってことは、どうせジジイたちもバカの集まりだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、考えるよりもまず身体が動いた。自分の顔の位置にある佐々木の胸ぐらを掴んでいた。
「んだよ、服が伸びるだろーが」
「俺のことはどれだけバカだと言っても構わねえが、チームメイトのことを馬鹿にするのは許さねえぞ」
佐々木の顔がますます険しくなっていくのが目に見えたが、俺だって譲る気はない。胸倉をつかむ手に力を込める。
「本当にてめえは野球バカだな」
佐々木は、胸倉をつかむ俺の手を俊敏な動作でひねり上げる。佐々木の屈強な腕力には敵わず、思わず手を離してしまう。
「おい、東野。久しぶりに一緒に野球しようぜ。てめえを見てたら、久しぶりにやりたくなっちまった」
「どういう風の吹き回しだ?」
「そのまんまの意味だよ。この俺とてめえで、一対一の勝負をするんだ。てめえには現実ってもんを教えてやるよ」
――ずいぶんと、バカにされたもんだ。
「舐めるのも大概にしろよ?確かに高校時代はあんたの方が上手かったが、引退して怠けてるやつに、現役の俺が負けるわけねえだろ」
どんなに体格差や才能の差があっても、高校卒業以来3年間のブランクがある相手に、負けるわけがない。それだけの練習を、俺は高校で部活を引退した後もずっと続けてきたのだから。
それでも佐々木は不敵に笑う。
まるで、負けるわけがないと主張するかのように。
「明日、同じ時間に、この前のグラウンドで待ってるからな。久しぶりに、楽しく野球をしようぜ」
「――分かった」
「ああ、そうだ。この前殴りかかってきた、あいつも連れてきてくれよ。勝負には立会人が必要だからなあ」
佐々木が言っているのは、あの新入りのことだろう。あいつのことを巻き込むのは気が引けたが、今は逆らわない方が得策だろう。
「……分かったよ」
「さあて、こっからが本題だ」
突然、さぞかし楽しそうに笑い始める。
「ただ普通の勝負をするだけじゃあ、面白味のかけらもねえ。せっかくの勝負だ、面白くしようぜ」
「どうやって?」
「賭けをしようぜ。そっちの方が緊迫感が出る」
なんとなく、佐々木がやろうとしていることが分かったような気がする。こいつがいきなり野球に誘ってきたのは、全部この賭けが目的だ。
「内容は、そうだなあ……」
口元をゆがめ、気味の悪い笑みを浮かべ、そして
「もしお前が負けたら――」
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